(2)

 その不自然な光景に男が気が付いたのは、今夜待ち合わせの約束をしている娘と会う食事処がある通りに出た時だった。

 ある意味では《虫の報せ》に近かったのかもしれない。

 ふと、思ったのだ。


(なんだか異様に静かだな)


 そう。静かだったのだ。

 物思いから抜け出して、辺りをようよう眺めてみれば、食事処が連なる通りに人っ子一人いなかった。

 店から聞こえて来るはずの客の声も一切しない。

 明かりは一応ついている。

 だからこそ、異様だった。

 開店していても、雨が鬱陶しくて客が来ていないのかもしれないという可能性はある。

 むしろ、そう考える方が自然だ。


 だが男の本能は告げていた。これは異常だと。おかしいと。

 足を止めた男は、不意に悪寒に襲われた。

 己が見知った見知らぬ場所にいるような違和感。


 しとしと、しとしと、雨が降る。

 パラパラ、パラパラ、打ち付ける。


 足元からじわじわと寒気が這い上り、鼓動が早鐘と化して不安を煽る。

 男の顔は完全に引きつっていた。

 得体の知れない気味の悪さを感じ取り――


「っふ」


 唐突に鼻先で笑い飛ばす。


「馬鹿馬鹿しい。一体何だって言うんだ。単に人通りがないだけだろ」


 震える声で己を鼓舞する。


「こんな時だからこそ、金を落としてやるんだよ」


 誰にともなく言い聞かせ、男は一歩を歩みだす。

 夕餉を奢ると約束した娘の様子を想像しながら、無理矢理気持ちを盛り上げるようにして。


(でも、この雨だからな。もしかしたら家を出て来られないかもしれないな)


 またしても約束をすっぽかされるかもしれないと思いつつ、踏み外せば瞬く間に恐怖の沼に取り込まれそうになりながら、あえてゆっくりと歩いて行く。


「邪魔するよ」


 目的の食事処の暖簾を潜り、ようやく一息ついた男だが、すぐに異変に気が付いた。

 静かだった。

 店の中も、静かだったのだ。

 蝋燭に火は灯っている。入り口も開いていた。

 それでも、異様な静けさだった。

 人の気配がまるでなかった。

 いつも出て来る看板娘の姿も、店の主の姿もなかった。

 店を開けたままどこかへ行くという可能性は考えにくい。

 一体何なんだと、怒りが込み上げる。


「おい! 誰もいないのかい?!」


 雨音のせいで聞こえなかったのかもしれないと、声を張り上げて来店を主張する。

 店内には客の一人もいなかった。

 当然のことながら、夕餉を奢る約束をした娘もいなかった。

 本来人のいるはずの空間に、人っ子一人いないという状況が、これほどまでに不気味なものだとは、今の今まで男は知らなかった。


 見て見ぬふりをしようとする恐怖心が膨れ上がる。

 席に着くことも出来ず、さりとてまた雨の中に戻ることも出来ず、焦りだけが男を責め立てる。


「おい! おい! 本当に誰もいないのかい?!」


 ほとんど怒鳴り声に近い口調で問い質す。

 その時だった。


 カタンと微かな音がした。


 気のせいだと言えばいくらでも気のせいに出来るほどの微かな音。

 聞き取れたことが奇跡だと言えるほどに微かな音。

 それだけ聴覚が研ぎ澄まされていた男は、面白いほどにびくりと肩を跳ね上げた。

 音は、二階から降ってきた。


「おい! 誰かいるのか?」


 男は二階に向かって声を張り上げる。

 男の心理的には誰でもいいから話し相手が欲しかった。

 その脳裏には、もしかしたら何者かが侵入し、店の者たちを殺害して、金目の物を物色している最中かもしれない――などという考えは微塵も浮かんでいなかった。

 とにもかくにも、無人であるということが堪らなく嫌だった。


「おい。俺は客だが、店の連中がどこに行ったか知らねぇか」


 明かりの灯らぬ闇に呑まれた二階に向かって呼びかける。

 とてもではないが、座敷に上がって階段の上まで登ろうとは思わなかった。

 それでも、漆黒の闇の向こうに確かな人の気配を感じてしまえば、呼びかけずにはいられなかった。


「なぁ! 上にいるなら下りてきてくれねぇか? あんたが客か、店のもんか知らねぇが、俺はどうすりゃいいんだい?」


 問われたところで、相手が店の関係者でなければどうしようもない。というもっともな意見はあえて無視して問い掛ける。


「なぁ、頼むよ。一人で雨宿りも退屈なんだよ」


 得も言われぬ恐怖心を誤魔化すように、恥も外聞もかなぐり捨てて頼み込めば、みしりと小さな音がした。

 お陰で男の息は一瞬止まった。

 みしり、みしりと、重くはないが、誰かが歩いている音がする。

 男は、呼びかけておきながら慌てて座敷から離れて、いつでも逃げ出せるように入り口付近で待機していると、


 と、と、と、と、と。


 と、軽い足音が階段の方から聞こえて来て、やがて白い足袋が見え、薄紫色の小袖の裾が見え、手すりに添えられた白い指が見え、下りて来た妙齢の娘の姿を見て、男は目を見張って言葉を失った。

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