(2)

「邪魔するよ」


 目的の食事処の暖簾を潜り、ようやく一息ついた男だが、すぐに異変に気が付いた。

 静かだった。

 店の中も、静かだったのだ。

 蝋燭に火は灯っている。入り口も開いていた。

 それでも、異様な静けさだった。

 人の気配がまるでなかった。

 いつも出て来る看板娘の姿も、店の主の姿もなかった。

 店を開けたままどこかへ行くという可能性は考えにくい。

 一体何なんだと、怒りが込み上げる。


「おい! 誰もいないのかい?!」


 雨音のせいで聞こえなかったのかもしれないと、声を張り上げて来店を主張する。

 店内には客の一人もいなかった。

 当然のことながら、夕餉を奢る約束をした娘もいなかった。

 本来人のいるはずの空間に、人っ子一人いないという状況が、これほどまでに不気味なものだとは、今の今まで男は知らなかった。


 見て見ぬふりをしようとする恐怖心が膨れ上がる。

 席に着くことも出来ず、さりとてまた雨の中に戻ることも出来ず、焦りだけが男を責め立てる。


「おい! おい! 本当に誰もいないのかい?!」


 ほとんど怒鳴り声に近い口調で問い質す。

 その時だった。


 カタンと微かな音がした。


 気のせいだと言えばいくらでも気のせいに出来るほどの微かな音。

 聞き取れたことが奇跡だと言えるほどに微かな音。

 それだけ聴覚が研ぎ澄まされていた男は、面白いほどにびくりと肩を跳ね上げた。

 音は、二階から降ってきた。


「おい! 誰かいるのか?」


 男は二階に向かって声を張り上げる。

 男の心理的には誰でもいいから話し相手が欲しかった。

 その脳裏には、もしかしたら何者かが侵入し、店の者たちを殺害して、金目の物を物色している最中かもしれない――などという考えは微塵も浮かんでいなかった。

 とにもかくにも、無人であるということが堪らなく嫌だった。


「おい。俺は客だが、店の連中がどこに行ったか知らねぇか」


 明かりの灯らぬ闇に呑まれた二階に向かって呼びかける。

 とてもではないが、座敷に上がって階段の上まで登ろうとは思わなかった。

 それでも、漆黒の闇の向こうに確かな人の気配を感じてしまえば、呼びかけずにはいられなかった。


「なぁ! 上にいるなら下りてきてくれねぇか? あんたが客か、店のもんか知らねぇが、俺はどうすりゃいいんだい?」


 問われたところで、相手が店の関係者でなければどうしようもない。というもっともな意見はあえて無視して問い掛ける。


「なぁ、頼むよ。一人で雨宿りも退屈なんだよ」


 得も言われぬ恐怖心を誤魔化すように、恥も外聞もかなぐり捨てて頼み込めば、みしりと小さな音がした。

 お陰で男の息は一瞬止まった。

 みしり、みしりと、重くはないが、誰かが歩いている音がする。

 男は、呼びかけておきながら慌てて座敷から離れて、いつでも逃げ出せるように入り口付近で待機していると、


 と、と、と、と、と。


 と、軽い足音が階段の方から聞こえて来て、やがて白い足袋が見え、薄紫色の小袖の裾が見え、手すりに添えられた白い指が見え、下りて来た妙齢の娘の姿を見て、男は目を見張って言葉を失った。


 見たこともないほどに美しい娘だったのだ。

 それが、ハラハラと涙を流してやってきたのだ。

 男は息をすることも忘れて見入っていた。

 薄紫色の袖口で涙を抑えている娘の姿の、なんと男心をくすぐることか。

 男の背筋を、それまでとは違う痺れのような快感が走り抜ける。

 顔に自然と笑みを浮かべ、


「一体どうしたんだい、娘さん」


 それまでの狼狽振りがどこへやら。落ち着き払った声で問い掛け、両手を広げて座敷へ歩み寄る。

 すると娘は、階段下にストンと腰を下ろし、さめざめと泣いた。


「おお、おお、可哀想に。君はここの子かい?」


 これまで何度か足を運んだが、このような美しい娘は見たことがない。

 だが、店の者がいない中で座敷の二階にいるのは不自然。故に掘り出し物を見つけたとばかりに問いかけたのだが、娘はフルフルと頭を振った。


「じゃあ、親戚か何かかい?」


 座敷に上がる縁に腰を下ろし、再度重ねて問えば、娘は再び頭を振る始末。

 一体この子は、何故こんなところにいるのだろうかと男は疑問を浮かべずにはいられなかったが、


「これもきっと何かの縁。君がどこの誰かは聞かないよ。でもね、泣いている理由は教えてはくれないかな?

 君の涙は綺麗だけれど、そんな君を見ていると胸が押し潰されてしまいそうになって辛いんだ。こう見えても『私』は顔が広い。君が泣くような問題事も、もしかしたら解決してあげられるかもしれないよ?」


 と、優しく優しく諭して聞かせれば、娘はスンスンと鼻を鳴らして、涙に濡れた大きな瞳を男に向けた。

 吸い込まれそうなほどに美しい黒瞳だった。長い睫毛もその瞳も。保護欲をそそらんばかりに濡れ光る。

 ともすれば抱きしめたい強い欲望に駆られながら、男は耐えた。

 初めからがっついてはいけない。あくまでも自分が深みにハマるのではなく、相手がハマらなければならないのだから。


「さ。話してごらん」


 促せば、娘は鈴の音のような耳に心地の良い声で告げた。


「裏切……られたのです」


 なんとも重い出だしだった。

 だからこそ、男は内心で思い切りしてやったりの笑みを浮かべた。

 ここで年上の包容力を見せれば、簡単に落とせると思ったのだ。


「一体、誰に裏切られたんだい?」


 これでもかと言わんばかりに深刻な声で問う。

 娘は答えた。目を伏せて、


「将来を誓い合った殿方です」

「なんと。君のように可憐で美しい娘を裏切るとは、とんだ男だね」

「はい」と娘は頷いて、

「ワタシも愚かだったのです」


 消え入りそうな声で後悔を滲ませる。


「耳心地のいい戯言を真に受けて、浮かれていたのですから」

「なんて酷い奴だ」


 男は憤慨して見せながら、同じことをしている奴がいたものだと舌打ちを一つ。


「初めはそんな人だとは思いませんでした。とても優しそうな方で、一目で心を奪われてしまって。でも、年の離れたその方から見れば、私は妹のようなもの。身の丈に合ってはいないと思っていましたが、それでもワタシは自分の気持ちに嘘が吐けませんでした」


 当時のことを思い出したのか、両手で顔を覆ってしゃくりあげる。

 そんな娘の肩を、ごく自然に撫でて無言で慰めながら、男はふと思っていた。


「ワタシは何度となくその方の願いを叶えてきました。せっせ、せっせと慣れぬ料理を重箱に詰めて、美味しいと喜んでくれるから。上手くできるようになったと褒めてくれるから。認めてもらえることが嬉しくて、自信を持てるようになったことが嬉しくて、その人が望むなら、いつまででも手料理を振舞おうと思いました。拙いことだらけですが、その人のためならば、なんでもしようと心に決めて。その間にもどんどんワタシの気持ちは強くなって、ある日、つい告げてしまったんです。心の内を。すでに知られてしまっているワタシの想いを」

「うん」

「すると、その方は言いました。『ようやく言ってくれた』と。嬉しそうな笑みを浮かべて」

「……うん」

「想いは同じだったんだねと、人目を忍んで会っていた屋形船の中で」

「……?」

「そこでワタシは、その人のモノになったんです……」


 と、絶望を吐き出す娘の話に、男は相槌を打つことを忘れていた。

 恐ろしく、既視感のある話だった。


「そんなこと、ワタシは誰にも言えませんでした。言えるわけがありませんでした。それでも、必ず貰いに来てくれると言っていたから、ワタシは待っていたんです。ずっとずっと、待っていたんです。でも、その人は会いに来てくれなかった。貰いには来てくれなかったんです」

「……」

「一体どうしたんだろうかと思った私は、不安に駆られました。何か粗相をしでかしたのかと、嫌われるようなことをしたのかと。居ても立ってもいられず、ワタシは捜しました。町に出てあちらこちらを捜しました。そして、見たんです。その人が――――他の娘と楽しそうに歩いている姿を」


 唐突に、娘の声から悲しみが消えた。

 俯いた娘の顔を見ることはできない男は、思わずごくりと生唾を飲んだ。

 寒気が男を襲い、鼓動が早まる。

 しとしとと降り続ける雨音が大きくなったような気がした。

 肩口に滑り落ちた髪のせいで、娘の顔が見えないことがひどく恐ろしいことのような気がした。


 そんな男の襟元を、突如娘が鷲掴む。


「ねえ」


 と、感情の欠けた呼びかけに、男は反射的に娘から離れようとした。

 だが、娘の手はしっかりと男の襟元を握り締め――次の瞬間。


「どうして『ワタシ』を裏切ったの?」

「ひっ!」


 ガバリと上げられた顔を至近距離で見せつけられた男は、堪えることなく悲鳴を上げて飛びのいた。

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