(5)


「あれは、今から二か月ほど前のことでした」


 お久が話し出すと、佐倉は文机の上に用意した巻物にするすると墨を含んだ筆で線を描く。

 それは字ではなかった。少なくとも普通の人々が読めるような《字》ではなかった。

 それでもお久は気にすることなく、鼻水を啜り上げながら語った。


「私はその日、頼まれていた繕い物を持って、古着屋へ行ったんです。

 するとそこに、今まで見たことがないような素敵な男の人が、いた、んです」


 年の頃は二十歳も半ば。月代を剃ることなく結われた曲げ。切れ長の目に通った鼻筋。色白で上背があり、どこかの若旦那のような佇まいのその男に、お久は一目で心を奪われた。

 だが、それで浮かれ上がるほどお久も子供ではなかった。

 世間では行き遅れと言われるような年になっていた。

 一人暮らしの兄の心配をするよりも、嫁の貰い手のない自分を心配しろと周囲から言われる日々に、正直お久は飽き飽きしていた。

 言われなくとも分かっていた。

 お久だって焦っていないわけではなかった。

 それでも、自信がなかったのだ。

 見た目が可愛いわけでも美しいわけでもない。所作が洗練されているわけでもないし、料理はそこそこの腕前しかなく、兄がやるよりは速いが、同年代の友人たちと比べるとどうしても動作が遅かった。どんくさいのだ。きっと嫁いだところでお姑さんに叱られる。毎日毎日いびられる。そんな想像しかできなかった。そんな人生は嫌だった。

 そういうものだと言い聞かせられても、正直お久は嫌だった。

 年頃になっても兄たちについて回っている方が、同性の友人たちと遊ぶより楽しかった。


 そんな中で、友人たちが次々と嫁いで行ったとき、とうとうその日が自分にも来るのだと思っていた。

 思っていたが、来なかった。一向に来なかった。

 長屋では、ひそひそとお久のことを話す声が聞こえていた。

 嫁ぐ気はさらさらないが、それはそれでお久の重圧となり、自身に魅力がないのだと思い知ることとなった。


 悲しかった。悔しかった。

 だとしても、そんな思いを抱いていることを欠片も表情には出さなかった。

 常に明るく振舞って。何も知らないふりをして、日々の暮らしを続けてきたが、目に見えて両親が気を使っているのが分かってくると、居たたまれなくなって太吉のもとへ逃げ出して来た。


 太吉のもとに良い人が現れるまでの間、居させてもらおうと思って。

 そこでは、冗談半分で『嫁に来るかい?』と声をかけてくれる人たちが沢山いた。

 それに冗談で返すのが楽しかった。

 だが、冗談だということが分かっていたから、空しくもあった。

 誰も本気で私のことを好きになってくれる人はいない……。

 お久は静かに静かに諦めて行った。


 故にお久は思うようになった。別にそれならそれでいいと。その時はその時だと。

 別に好きな相手がいるわけでもなく、振り向いてほしい人がいるわけでもない。

 だから、これでいいと。兄の邪魔になるようならば出て行けばいいだけのことだと、そう思いながら暮らして来た。


 そんな中で、お久は出会ってしまったのだ。その男に。

 開いた口が塞がらなかった。

 目を引き剥がすことができなかった。

 まるで後光でも差しているかのように輝いて見えていた。

 呼吸も忘れて見入っていると、唐突に男が振り返り、バチリと視線が合ってしまった。


 どくりと鼓動が跳ね上がり、瞬時にして顔が赤く染まるのを自覚した。

 恥ずかしかった。穴があったら入りたいほどに恥ずかしかった。相手に意識していることが筒抜けになっていることが耐えられなかった。

 お久は顔を赤く染めながら、古着屋の店主へ着物を突き付けて、その場を去ろうとしたが、依頼料がまだだと引き止められて、ことさら恥ずかしい思いをすることとなった。


 年上の男がクスクスと笑っているのが耳に入り、お久の耳は茹でダコのごとく真っ赤に染まった。

 いつもいつも時間をかけて、納品物の品定めをする古着屋の店主に対して緊張を抱いていたが、今日ほどさっさと終わってくれと望んだことはなかった。

 気のせいかもしれないが、自意識過剰かもしれないが、男の視線が自分に向いているようで気が気ではなかった。


 顔など到底上げられない。両手をしっかりと握り締め、視線になど気が付いていないとばかりに顔を背けて待っていると、


『うん。今日も完璧だ』


 古着屋の店主が出来栄えに太鼓判を押して、その日の依頼料を払ってくれた。

 お久は、ほとんどひったくるように受け取って、礼もそこそこ店を飛び出した。

 それをまさか呼び止められるとは思いもしなかった。


『ちょっと待って』と、笑みを含んだ柔らかい声が背中に掛かり、『ふぁい!』と変な声を上げてお久は止まった。

 呼び止められたことで、お久の頭の中は真っ白になっていた。

 何故呼び止められたのか。本当に呼び止められたのは自分だったのか。

 もしも違っていたらこれほど恥ずかしいこともない。

 そう思っていると、『君、ちょっといいかい?』と声を掛けられた。

 緊張のあまり振り向くことすら出来ないでいると、男は『すまないね』と謝罪を口にしながら、声をかけた理由を説明した。


『実はね、今腕のいい繕い物屋さんを探していたんだよ。そこへ君がちょうど来てくれたから君に頼みたいのだけどどうだろう?』


 当然のことながら、お久は全力で断った。

 それが可笑しかったのか、男は楽しそうな声で笑って言った。


『大丈夫。君の腕の確かさは調査済みだよ。というのも、君がさっき持ってきた着物。あれの繕い物の依頼をしたのは私だからね』


 お久の息が止まった瞬間だった。


『だからね、今日は誰が繕い物をしてくれているのか見てみたいと古着屋の店主に頼んで、君が来るまで待っていたんだよ』


 言われている意味が分からなかった。理解の範囲を超えていた。

 お久は何をどう言ったか分からないが、気が付くと男から直接仕事を貰うことになっていた。

 決まった日時に決まった場所で。


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