(4)
「さて。お初にお目にかかる。私は戯作者の佐倉というもの」
「で、オレは付き添いのすずめ丸」
「今回は、君の兄上からの依頼を受け、君の悲しみを引き受けにやってきた」
男からの依頼を受けた佐倉とすずめ丸は、《あかね屋》の二階の座敷で静かに涙を流し続ける娘と文机を挟んで座っていた。
本来であれば、男――太吉(たきち)の生まれた長屋へ足を運ぶ予定だったが、長屋を知られたくないという太吉の心の声を聞き取った佐倉たちは、《あかね屋》へ妹であるお久(ひさ)を連れてきてほしいと頼み、待機すること一時(二時間)と少し。少し早めの夕餉を食べてもおかしくない時分に、太吉とお久はやってきて、太吉を締め出し三人で向かい合っていた。
広くない座敷。あるのは文机と座敷を照らす燭台が二つだけ。
聞こえて来るのはしとしとと降り続ける雨が建物を詰るように叩く音と、鼻をすすり上げる音ばかり。
お久は、本当に泣きっぱなしだった。
目の周りは真っ赤に腫れ、鼻の頭も赤くなっていた。
ずっとうつむき加減で、手ぬぐいで目元や鼻の下を何度も押さえて、一向に顔を上げようとはしなかった。
太吉の話ではずっと泣きっぱなしで、ろくに食事もとっていないとのことだったが、実際お久は細かった。
薄暗い中でも分かった。こけた頬に青白い皮膚。すっかりやせ細り筋が浮き、息をするにも一苦労といった有様で。見るも明らかに憔悴していた。
これは異常だと、見た瞬間、佐倉もすずめ丸も理解した。
「さて。君は兄上からここに連れてこられた理由は聞いているか?」
同情の欠片も籠らない淡々とした声音で佐倉が問えば、お久は鼻を啜りながらコクリと頷いた。
「この長雨と、君が泣き続けていることが関係しているかどうかは正直分からない。だが、明らかに君自身に異常が生じていることは確かなこと。故に一つ確認したい。君は今の状態が苦しいか?」
恐ろしく事務的な淡々とした問い掛けに、お久は再びコクリと頷いた。
「では、自分自身で泣くのを止めることはできるか?」
問えばお久は、ぶわりと涙を溢れさせ、首を左右に揺り動かした。
「では、今の気分はどうだ?」
「辛い……です」
「泣いていることがか?」
「……はい。苦しくて、苦しくて、本当に苦しくて」
「その苦しみから解放されたいか?」
「され、たい。です」
「そのせいで、心の一部が生涯戻らなくなったとしてもか?」
「?」
問われた意味が分からない様子で、初めてお久は顔を上げて佐倉を見た。
佐倉は、眉一つ。頬の筋一つ動かさぬ無表情のままで、静かに告げる。
「君が辛く苦しいのは、そうなる原因に対して強い悲しみを抱いているからだ。その悲しみに捕らわれている以上、君が解放されることはない。故に、その『悲しいと感じる心』を君から取り除く」
「取り除く?」
「そうだ。『悲しい』と感じるには、感じるための『心』が必要だ。逆を言えば、悲しみを感じる心が無くなれば、『悲しい』と感じることはなくなる。故に問う。君は、心を失っても今の苦しみや辛さから解放されたいか?」
問われた娘は、すぐには答えを返しはしなかった。
今一つ、言われていることが理解できないのだろうと言うことは、佐倉にも解っていることだった。
感情の一つが無くなるということ。心が奪われるということ。その本当の意味を。
そして、大抵の者が正しくそのことを理解せずに出す答えを。
「で、きる、こと、なら。お願い、します」
とにもかくにも今の苦しみから解放されたいと望む者の答えはただ一つ。
だが、一体誰がその答えを責められるというのか。
その心があることによって、恐怖し、苦しみ、辛さを味わっているのは、他でもない彼ら彼女ら自身なのだから。
傍から見れば『そんなこと』でも、当人にしてみれば人生を狂わせるほどの出来事というものがある。捕らわれてしまう物事というものはある。切り替えたくとも切り替えられぬことがあり、忘れたくとも忘れられぬものがある。それらの思いに捕らわれて、日常に支障をきたすことは少なくない。最悪命すら断ちかねないこととなる。
だが、誰もが本気で死にたいと思っているわけではない。できることなら生きていたい。
ただ、生きるのが辛いから死を望んでしまうだけ。辛いと思わなければ生きていける。その手助けができると気が付いたのはそれほど昔のことではない。
佐倉は、救いを求めるお久の目をまっすぐに見詰めて告げた。
「では、聞かせてほしい。君が何故、そんな風になってしまったのか。包み隠さず全ての思いのたけを。そして、それを綴ることを許可してもらいたい」
「え?」
「私は戯作者。綴ることで生計を立てている。そのため、今回の件が上手く行けば、この件を戯作として書き綴ることを条件に依頼を受けている。もちろん、君の名前を出すことはないし、語られた話をそのまま戯作になどしない。だが、参考にはさせてもらうことになる。嫌ならばここで話は終わりだ」
「では、私は、どうなるのですか?」
「寺でも神社でも紹介する。祈祷してもらうことによって回復する可能性は十分にあると思うが?」
「……」
無慈悲にも思える言葉に、お久は言葉を失いハラハラ泣いた。
お陰で、打ち付ける雨音が少しばかり強くなったような気がしたが、
「……話、ます」
お久の中でどう折り合いをつけたものか、さめざめと泣きながらお久は切り出した。
「その代わり、絶対に、笑わないで、下さいね」
涙をこぼしながら、鼻を啜りながら、それでもお久は意を決したように佐倉を見返し、佐倉は答えた。
「安心してほしい。私が君を笑うことなど絶対にありえない」
何の感情も籠らぬその声が、その口調が、皮肉にもお久に佐倉を信用させた。
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