(2)

「人と言うのはな、様々な感情が渦巻いているものさ。だが、お前さんにはそれがない。それがないということは、それを生み出す心がないということ。心がないものには《魔》が入り込む。だが、お前さんには《魔》すら入り込んだ形跡すらない」

「形跡がないか」

「まったくな。普通は何かしら入り込む。それがないということは、それが当たり前の状態だということ」

「つまり、《心喰い》――だと」

「そうだ!」

「やめろ!」


 突如、佐倉との間合いを詰めて錫杖振り下ろして来る老僧に対し、すずめ丸が即座に反応して間に割り込む。


「なんだ、小僧っ子。その手に何か持っているのか?」


 まるで鋼にでも受け止められたかのような感触に、老僧が驚きに目を見張るが、すずめ丸は素手だった。

 だが、本当に視力がないものか、老僧には素手であることが分からない様子で、


「何故、《心喰い》を庇う? すでに心を奪われ魅入られたか?!」

「違う! 《心喰い》はオレの方だ!」

「そんなはずはない! 小僧っ子! お前さんにはちゃんと心がある。感情がある」

「それはオレが、佐倉の《心》を喰ったからだ!」

「あり得ぬよ!」


 老僧が年齢を感じさせぬ鋭い攻撃を繰り出すのを、すずめ丸は全て受け止め、突き飛ばした。

 砂利の上に両足と錫杖を持った手を付き三本の轍を作りながら、距離を強制的に取らせられた老僧が真っ向から否定する。


「《心喰い》の心が満たされ続けているわけがないのだからな!」


 その指摘がすずめ丸を動揺させたのを佐倉は見逃さなかった。


「《心喰い》の心は満たされない。決して満たされることはない。故に《心喰い》は人の心を喰らい続ける。何人も何人も喰らい続ける。喰らった傍から空になる。当然だ。借り物の感情が定着するはずがないのだからな。残っていたところで残滓も残滓。故に、決して飢えが満たされることはない。刹那はあっても永遠に満たされていることはない。だからこそ、小僧っ子! お前さんが《心喰い》であるはずがない!」

「ならばなんだ」


 と佐倉が問えば、


「どこにでもいる人の子よ」


 にやりと笑い断言された。

 そうかと。佐倉は納得したが、


「違う! オレは《心喰い》だ! 佐倉が人間なんだ!」


 すずめ丸は否定した。

 それも無理からぬことと佐倉は思う。

 すずめ丸は人の心を今でも喰らっている。

 依頼者からの話を聞き、一度佐倉の身の内に感情と心を収納。それを清書することで一度は生まれる《心球》。その《心球》を使い、更なる人の心を喰らうために、一度割って感情を解き放ち、ある種の異界を生み出して相手を引きずり込み、飲み込まれた人間の心もろとも再び《心球》へと作り直してあえて喰らう。


 本来であれば、がらんどうの佐倉の身の内に他者の感情と心が入り込んだ時点で、《心喰い》であるすずめ丸は喰らうことが出来るというのに、頑なにすずめ丸は佐倉の内にある《心》を喰らおうとはしなかった。

 あくまでも、佐倉の内で凝縮されて磨かれた《心球》が出て来るまで待っていた。

 いくら腹が減っているのなら、前のように直接喰らってもいいと言っても、すずめ丸は喰らおうとはしない。目をきつく閉じ、涎を垂らしながら頭を振って意地を通す。


 その分濃度を上げようとするかのように、《心球》を割って人を襲わせ、頃合いを見計らって喰らい付く。

 だからこそ、すずめ丸は《心喰い》。

 だが、老僧はそれを真っ向から否定した。

 すずめ丸は人の子だと。


 存在そのものの否定。

 これで怒るなと言う方が無理だろうが、佐倉にしてみれば老僧の意見に賛成だった。

 元が何であれ、今、佐倉とすずめ丸。どちらが人間らしいかと問われれば、誰もがすずめ丸だと言うだろう。それほどまでにすずめ丸は人間臭かった。

 佐倉はそれを、今まで喰らい続けて来た人間たちの心が凝縮された結果なのかと思っていた。


 だが、老僧は言った。《心喰い》はいくら心を喰らったところで満たされないと。残っているものは残滓も残滓。故に食らい続けると。

 だったら、どうしてすずめ丸は人の身を持ち得たのか。


 一体何の力が働いたものか。

 直後、もしかしたらと言う考えが佐倉の頭の中を横切った。

 もしかしたら、本当にすずめ丸は《心喰い》ではなく、《心喰い》なのは自分の方ではないのかと。

 何の因果か、自分は人だと思い込み、同時にすずめ丸は《心喰い》だと思い込むようになったのではないのかと。


 だとすれば、すずめ丸が傍にいるのは、すずめ丸の意志ではなく、佐倉がそうし向けた可能性もある。

 少なくとも、老僧が言う《心喰い》の条件は、すずめ丸よりも確実に佐倉の状態を言い表しているのだから。

 だが、


「それもすぐに判る」


 にやりと笑った老僧が、錫杖を突き立て、両手を合わせて低く低く経のようなものを唱え始めた時だった。


 ざああッと風が木々をざわめかせた。


 晴れ渡っていた空が俄かに曇り初め、見えぬ何かが声なき悲鳴を上げて逃げ惑う。

 佐倉の背筋を悪寒が走り抜けた。


 何が起きようとしているのか分からぬままに、佐倉は見る。

 言葉とも呼べぬ音。一人で発しているはずなのに何重にも重なって聞こえる音の連なり。


 見えぬ文字が。読めぬ文字が、小柄な老僧から四方八方に伸びていく。

 声が徐々に大きくなる。小柄な老僧の姿が大きくなる。

 日の光が覆われ暗くなり、まるで異界へと引きずり込まれていくような感覚に陥る。


 それに加わる呻き声。

 それを耳にした瞬間、佐倉は自身の肌に鳥肌が立つのを自覚した。


「うぅううぅうう……」


 すずめ丸が、呻いていた。

 頭を抱え、身を折って、立っていることすら辛そうに。


「すずめ丸」


 それでも佐倉の声には動揺は含まれない。

 その顔には焦りの一つも浮かばない。

 佐倉が唯一出来たことは駆け寄ること。


「どうした、すずめ丸。苦しいのか?」


 抱きかかえる腕の中で、すずめ丸は頭を抱えて苦悶の表情を浮かべて呻く。

 額に青筋が浮かんでいた。

 噛み締めた口の端から唾液が垂れた。

 躰が熱を持ち、玉のような汗が後から後から湧いて流れた。

 それが、老僧のせいだということは一目瞭然。


 佐倉は老僧を見た。

 驚きに目を見開いている老僧の眼を。

 無理もない。経を上げて苦しみだすのは佐倉だとばかり思っていたのだから。

 それが、違った。


「何故だ」


 愕然とした声だった。

 だが、老僧の顔は嗤っていた。泣き笑いにも見える歪な笑みで、


「何故、お前じゃない? 何故、その小僧が苦しみだす? あり得ない。あり得るわけがない! その小僧が《心喰い》であるはずがない!」

「何故だ」


 佐倉は淡々と問い掛ける。

 腕の中でもがき苦しみ、縋るように佐倉の胸元を掴みながら丸くなり震えているすずめ丸を、我が子を守るように抱きしめながら問い掛ける。

 老僧は答える。泣き笑いの表情を浮かべ、唾を飛ばす勢いで。


「《心喰い》が満たされているはずがないからだ! 《心喰い》は常に飢えに苦しんでいる。常に他者の感情を喰らわねばがらんどう。それが何故、満たされている?!」

「し、るかよ」


 経が止んだせいか、蒼褪め、衰弱し切った様子でありながら、怒りを瞳に宿したすずめ丸が吐き捨てる。


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