(2)
『琥太郎』が、居た。
『琥太郎。琥太郎』と名を呼びながら、中庭に面した渡り廊下を曲がったときだった。
「ははうえ」と、見るものすべてを幸せにするような笑みを浮かべて、そこに、当然のように、立っていた。
ああ。琥太郎だ――と女は思った。
琥太郎――と、名を呼び、床に膝を着いて両手を広げれば、ぱあっと表情を輝かせ、両手を伸ばして駆け寄って来る。
それまでと打って変わって、素直に胸に飛び込んで来た我が子を抱きしめる。
温かかった。柔らかかった。ほのかに土の臭いがした。
「ああ、『琥太郎』。『琥太郎』。『琥太郎』」
胸が詰まった。目頭が熱くなった。涙が溢れた。
幸せだった。これまでも何度も嫌がり、ぐずる『琥太郎』を抱きしめて来たが、駆け寄って来られることがこんなにも幸せだとは思いもしなかった。
しっかりとした重みが、ギュッと首元に回された小さな手の力が、これほどまでに恋しく欲していたのだと思い知らされた。
「もう、どこにも行ってはいけませんよ? 母を置いて行ってはいけませんよ?」
『はい。ですから、むかえにまいりました』
無邪気な声が耳元で上がる。
女は「そう」と嬉しそうに応えた。
「今度はちゃんと連れて行ってくれるのですね?」
それがどんな意味を含んでいるのか、果たして女はきちんと理解できていたのかどうか。
心の底から幸せそうに我が子へ問い掛ければ、『よろしいのですか?』と、幼子はその身を離しながら、女の顔を覗き込むようにして小首を傾げて問い掛けた。
「良いのですよ」
と、女は再び我が子を引き寄せ抱きしめて答えた。
「母はそなたがいてくれれば良いのです。ここにいられないというのであれば、どこへなりとも母はついて行きましょう」
『ですが、ははうえをしたってきてくれたみんなのことはどうするのですか?』
「置いて行きます」
『……』
「その方が皆のためなのです」
『……』
「私が主となったばかりに、とてもとても苦労を掛けてきました。汚さずに済む手を汚させてきました。自身の良心と私への忠義に挟まれて、随分と辛い思いをして来たことでしょう」
『……きづいておられたのですか?』
「母はそれほど愚かではありません。ですが、『あなた』を見つけてしまえば止まることなど出来ませんでした」
『…………』
「ですから、連れて行ってくれるのであれば喜んで参ります。いつ参りますか? 今すぐ行きますか? それとも、もう少しゆっくりしていられるのですか?」
女の声は無垢な少女のように弾む。
長く長く待ち望んでいた望みがようやく叶うと言わんばかりに。
故に、『琥太郎』は言った。
『――では、つれてはいけませんね』
ギシリと世界が軋んだ。
女の顔が「え?」と言う間の抜けた声と共に呆けたものに変わる。
「『琥太郎』? 今、何と言ったのですか?」
『つれてはいけないといったのです』
口元にだけ笑みを浮かべながら、恐ろしく冷たい声が残酷な事実を突き付ける。
「な、何故そのような笑えぬことを言うのです?」
『だってははうえは、もう《ワタシ》とともにくらしているではありませんか』
「え?」
笑わぬ双眸に見返され、咄嗟に何も返せない。
ぎしり、ぎしりと世界の軋む音がする。
『なんにんもなんにんも、《ワタシ》をこのやしきにまねきいれていましたよね? ワタシにはははうえだけが、ははうえでしたのに、ははうえにはたくさんの《ワタシ》がいますよね。いまももうひとり、《ワタシ》がここにいますよね?』
「そ、それは……っ」
うっすらと目を細められ、淡々と突き付けられる。
女とて解かってはいた。解かってはいたのだ。似ているだけで本物の『琥太郎』ではないということは。だが、見つけてしまえば連れて来ずにはいられなかった。
初めは似ている子がいると思うだけだったが、離れてしまえば『琥太郎』にしか思えなくなってしまうのだ。思ってしまえば止められなかった。
屋敷に戻り、『琥太郎』と共に過ごす日々は大変だが幸せだった。
生きていることが当然のように思えていたが、時々、目の前の幼子は誰なのだろうと思う時もあった。
そんなとき、自分が一体何をしているのか思い知り、しでかしてしまったことに罪悪感を抱いた。何と恐ろしいことをしたのかと怖気立ちもした。
だが、それも束の間のこと。女はすぐに忘れた。己のなけなしの良心を。
それを、その事実を、他でもない我が子に突き付けられた。
『あのような《まがいもの》でまんぞくしていたのですか?』
舌っ足らずながらも淡々とした声が、冷え冷えとした目が、女を責める。
「ち、違うのです。違うのです!」
目の前の我が子に縋りつく。
『いったいなにがちがうのです?』
「!!」
ぎしり、ぎしり。と世界が軋む。
まっすぐ見据えられて言葉を飲み込む。
『ワタシはずっとみていました』
「え?」
『ワタシはずっとみていたのです。ここで、このやしきで、ずっと、ははうえのことを。みんなのことを。《まがいもの》のことを。どんなによびかけてもははうえはワタシのこえにみみをかたむけることはありませんでした。ははうえは《まがいもの》ばかりをおいかけて、ワタシのことをかえりみてはくれませんでした』
「…………っ」
突きつけられた事実は、稲妻の如く女の心を貫いた。
思考が止まった瞬間だった。
言われた意味を素直に飲み込むことが出来ず、体が強張った。
『琥太郎』は見ていた。
ずっとずっと見ていた。
己は一体何をして来ただろうか?
思い返そうとして、何も思い出せないことに愕然とした。
「ち、ちがうのです。ちがうのです」
突如涙が溢れた。
否定する声が震えた。
「わ、私が求めていたのはあなただけです『琥太郎』!」
「では、ははうえのきものにすがりついている《それら》はなんなのですか?」
「え?」
問われて女は視線を下げ――
「っ?!」
悲鳴を思い切り飲み込んだ。
何故なら、
『ははうえ』『ははうえ』『ははうえ』『ははうえ』
『ははうえ』『ははうえ』………『ははうえ』
『琥太郎』とは似ても似つかない、死相を張り付けたおぞましい存在が、折り重なるようにして女を取り囲み、『琥太郎』から女を引き離さんと引っ張っていた。
ぽっかりと空いた空洞から、歪んで不快な音が漏れ出ていた。
『ははうえ』『ははうえ』と、黒く濁った涙のようなものを二つの穴から垂れ流し、取りすがって訴えて来る。
女はおぞましさのあまり、何も考えずに腕を振り払った。
ぐしゃぐしゃぐしゃと、怖気立つ湿った音を立てて《それら》は呆気なく吹き飛ばされる。
女の肌に鳥肌が立った。
その耳元に、生暖かい風を伴い囁く声。
『ははうえ』
見れば《まがいもの》が女の腕をよじ登り、甘えるように頭を擦り付けようとしているところで、
「ひぃっ!」
反射的に女は反対の手で振り払った。
お陰で残りの《まがいもの》も綺麗に吹き飛ばされる。
重さなどなかった。感触だけがあった。腐敗臭が辺りに立ち込めた。
女の肌から血の気が引いた。
もぞもぞと、吹き飛ばされた《まがいもの》たちが躰を揺らして起き上がる。
顔を、躰を潰されたまま、崩されたまま、ひび割れた声で『ははうえ』と呼びながら、にたりと嗤ってやって来る。
床に手を付き膝を付き、汚物の後を引いて女を求めてやって来る。
女は腰を抜かして後ずさった。
燦燦と照り付ける陽光が、中庭の緑を鮮やかに浮かび上がらせる陽光が。
異様な存在すらも照らし出す。
見たくもないものを浮かび上がらせる。
来るな来るなと、頭を振って後ずさり、
『なにゆえにげるのですか、ははうえ?』
そっと両肩に小さな手が乗せられる。
『あれらはあなたがのぞんでつれてきたものたちですよ?』
「ち、ちが……」
『ワタシの代わりにつれてきたものたちです』
「ち、ちが……」
『ちがいません』
いっそ、優しい声で断言された。
涙を流しながら女は我が子を振り仰いだ。
『琥太郎』は眼を細め、にっこりと笑っていた。
突きたくなるほどふっくらした頬だった。あどけない笑みだった。
それだけに恐ろしいものだった。
『ははうえは、また《ワタシ》をすてるのですか?』
「ち、ちが……」
『このままではワタシもふたたびすてられかねませんね』
「それはありえません!」
身を捻じり、女は我が子に手を伸ばす。
しかし『琥太郎』が後ずさったことで空を切る。
絶望が女の顔を覆い尽くす。
『ワタシはもうそろそろいきますね』
「ま、待って!」
『ざんねんです。ははうえがただただワタシのことを、このやしきでもとめてくれていれば、もっとはやくにつれていけたのですが』
「それは! あの者たちが外に行こうと連れ出したから!」
『それでも、《まがいもの》とワタシをこんどうしたのは、ははうえです』
「ち、ちが……」
『どうか、どこからともなくつれてきた《まがいもの》をすえながくたいせつにしてあげてください』
「待って!」
『ははうえ』『ははうえ』『ははうえ』『ははうえ』
腰を抜かした女に《まがいもの》たちが群がる。
振り払えば簡単に吹き飛ばされる存在の癖に、その手はしっかりと女の着物を掴み、しがみつく。
ぐいぐいと、ぐいぐいと、気を引くように引っ張って。
「こ、『琥太郎』! 『琥太郎』!」
女が手を伸ばして悲痛な声を上げるも、『琥太郎』は足を止めることも振り返ることもしなかった。
とてとてとてと、軽い足音を立てながら廊下を進む。
『ははうえ』『ははうえ』『ははうえ』と、《まがいもの》たちが女を取り囲む。
行かせてなるものかと邪魔をする。
「ええい、離せ!」
と、女は右手で持って《まがいもの》たちを振り払う。
吹き飛ばされた《まがいもの》が、空いた室内へ飛んで行く。
今が好機とばかりに体を起こして駆け出そうとするが、
『ははうえ』『ははうえ』『ははうえ』
振り払ったはずの、飛んで行ったはずの《まがいもの》たちが、変わらず足に体に腕に纏わりついて女の身動きを封じて来る。
「離せ! 離せ! 私から離れろ!」
何度手を振り払っても、《まがいもの》たちは憑りついた。
背中に上り、頭に上り、髪を引っ張り、着物を引っ張り。
足を引っ張り、腕を引っ張り、堪え切れずに女がうつぶせに倒れると、更にその上にのしかかる。
軽いはずだった。払えば吹き飛ぶほどに軽いはずだった。
それが何故か、重かった。
身動きが出来なくなるほどに重かった。
まるで湿った土を重ね掛けされたように重かった。
床と平行になった視界に、『琥太郎』の遠ざかる姿が視えていた。
「『琥太郎』! 『琥太郎』!」
と、必死に名を呼ぶも、視界いっぱいに広がるのは青白く変色し、腐臭を放つ死相の《まがいもの》の顔。
それが、にたりと嬉しそうに笑うと、腐った手を女の頬に伸ばして来た。
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