(3)

 怖気が走った。

 悲鳴が女の喉を駆け抜けた。

 なりふり構わず暴れれば、『どうして』『どうして』と、悲しみを浮かべて《まがいもの》たちが更に寄って来た。


『あなたがもとめてきたくせに』

『あなたがひきはなしてつれてきたくせに』

『あなたが『こたろう』だとよんだくせに』

『どうして?』

『どうして?』

『どうして?』

『どうしていまさらこばんでいとうの?』

『ぜんぶあなたのせいなのに』

『いまさらかえるところなんてないのに』

『どうしてぼくたちをみすてるの?』

『にがさないよ?』

『にがさないよ?』

『ぜったいににがさない』


 悲しみが怒りに変わる。

 体がどんどん、どんどん重くなる。

 鼻が麻痺して吐き気を催す臭いが消えていた。

 ただただ恐ろしかった。

 殺されるのだと、連れ去られるのだと、女は悟っていた。

 愛しい我が子に攫われるのであれば、喜んでついて行った。

 だが、これは違った。こんなはずではなかった。


 嫌だった。堪らなく嫌だった。

 これが身から出た錆だったとは言え、到底受け入れるわけにはいかなかった。


(ああ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。琥太郎! 琥太郎! 私の琥太郎! 母を助けて!)


 必死に呼びかけているつもりだった。

 滲む視界に、『琥太郎』が廊下を曲がって行く姿が見えた――ような気がした。

 実際は、怒りに歪んだ《まがいもの》の顔が視界いっぱいに広がっており、どうしたところで見えるわけがなかったが。

 体はどんどん沈んで行った。

 視界がどんどん、どんどん暗くなって行った。

 そんな感じが、していた。


 ケラケラ、ケラケラと楽しそうな笑い声が聞こえて来ていた。

(そうか)と、女は悟る。

 これは罰なのだと。報いなのだと。

 可愛さ余って幼子を攫い、『琥太郎』として扱って、違えば捨てた。その報いだと。

 全ては自分が招いたことなのだと。


(ああ、嫌だ)と女は思った。

 女はただ我が子に会いたかっただけだった。

 我が子と幸せに暮らしたかっただけだった。

 故に、その願いが今叶おうとしているところなのだと。

『琥太郎』と名付けた者たちが己を連れに来たのだと。


 仕方のないことだと、諦めた。

 呆れられ見捨てられたのも仕方のないことだと受け止めた。

『琥太郎』にしてみれば、我が子にしてみれば、己のしたことは裏切り行為以外の何物でもないだろう。愛想を尽かされても文句は言えない。


 だが、それでも、悲しいことに変わりはなかった。

 ごめんなさい。ごめんなさいと、女は謝る。

『琥太郎』に対して。

 我が子に対して。

 我が子の身代わりに対して。

 その本当の家族に対して。


 ああ、それでも――と女は思う。

(私はただ、あなたと共にいたかったと)


「残念だが、それは無理な話だったな」


 唐突に聴き知らぬ声がした。

 直後、女の視界はものの見事に晴れた。

 清涼な緑の香りが鼻腔をくすぐった。

 視界に入るのは滅多に見ない渡り廊下の天井の梁。

 女は渡り廊下の上に仰向けに寝転んでいた。

 その視界に、ひょっこりと逆さまに入り込んで来たのは、雀の羽根のような色合いのフワフワの髪の少年。


 女は、驚きもしなかった。

 どこの誰なのかと気にもしなかった。

 全て終わったことなのだと、終わらせなければならないのだと悟ってしまっていたから。

 見知らぬ少年は、怒りとも蔑みとも同情とも取れそうで取れない複雑な顔で、


「悪ぃが、終わらせてもらうぜ」


 嫌悪と虚しさと憐れみを含んだ声で宣言すると、倒れた女の胸に腕を差し込んだ。

 冷たいものが胸の内に入り込んで来る感覚があったが、女はなされるがままだった。


 逆らう気力さえ湧かなかった。

 その冷たさが、今度はゆっくりと引き抜かれる。

 何か温かなものが奪われる感覚に、女は静かに涙を流すだけだった。

 その視界に、青黒い球体が入り込む。

 少年の手にすっぽりと収まる球体。

 とても悲しい色をした球体を、少年は自らの口の中に押し込んだ。

 そして、


「正直オレは、この感情(あじ)大っ嫌いなんだよな」


 大っ嫌いなシイタケを嫌がりながらも口にしたときの『琥太郎』のように顔を歪ませて、ガリッと一度大きく噛んだ。

 それが、女の見た最後の光景となった。


   ◆◇◆◇◆


「大丈夫か、すずめ丸」


 まるで心配などしていなさそうな佐倉の問い掛けに、部屋の隅で寝転がりながら腹を擦っていたすずめ丸が、「ん~」と一つ唸って答えた。


「オレ、あの罪悪感って感情だけは好きになれねぇんだよ。なんかモヤモヤしてすっきりしねぇ」

「だが、お陰で最悪の事態だけは避けられた」

「まぁ、それはそうだがな」

「お陰で瓦版はここ三日ほど、ずっと《神隠し》からの生還者の話で盛り上がっている」

「うん……」

「お仙さんも、反物屋の女将さんも大喜びだと伝弥が手土産持って報告しにも来た」

「ああ」

「その上、幽霊屋敷から複数の子供と成人した者たちの白骨が見つかったともな」

「うん……」


 実際、《神隠し》から生還した幼子の存在も大いに町民たちを賑わせたが、同時に明るみになったのは、元々幽霊屋敷と噂されていた屋敷で見つかった白骨たちだった。

 そこには、数多の骨たちと共に、土まみれの姿で腹を切っていた男の存在があり、一体その屋敷で何があったのかと、町人たちの興味を一身に集めた。


「だからな」

「うん」


 佐倉は筆を置いて言った。


「口直しにな。久しぶりに《あかね屋》に行こうと思う」

「……」

「行こう。すずめ丸」

「……うん」


 再度促せば、すずめ丸は頷いた。



 だが、二人は知らなかった。幽霊屋敷と呼ばれている今注目の屋敷にて、野次馬に混じりボロボロの法衣を着た老僧が目を細めてにやりと笑ったことを。

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