第六章『神隠し』

(1)

「ああ。琥太郎(こたろう)。琥太郎。私の可愛い可愛い琥太郎や。一体どこにいるのです?」


 今日も今日とて、女主は夢心地のように屋敷の中を徘徊する。

年の頃は三十の半ば。色の白く左目の泣きボクロが色気を誘う女だった。


「琥太郎や。琥太郎や」


 部屋の一つ一つを覗いては楽しげに声を掛ける。

 すでにこの世にいない我が子の名前を。

 齢五歳にしてこの世を去った幼子。母親によく似た優しい顔立ちの幼子だった。

 左目の下の泣きボクロが親子の証。


「ははうえ~、ははうえ~」と、舌っ足らずの甘えた声が屋敷に響いていたのは、今から半年ほど前のこと。

 中庭を冷たく白い雪が覆った時期、幼子は呆気なく隠された。


 七歳までは神のうち――


 三十手前でようやく授かった一粒種。

 女は、それはもう、眼の中に入れても痛くないほどの可愛がり様だった。

 だが、その年の冬。年が変わってすぐのこと、幼子は風邪をこじらせあっさりとこの世を去った。


 女主は呆けた。受け止めなかった。受け入れなかった。我が子がいなくなってしまったことを。

 どこにいるのかと屋敷の中を捜し回った。

 まるで幼子と共に隠れ鬼をしているかのように。

 幼子がいるからこそ屋敷へ通っていた、女の夫はやって来ない。

 それが更に、女主に我が子の死を認めさせなかった。


 女の屋敷に住まう使用人たちは、そんな女主を見捨てることが出来なかった。

 居場所がなかった自分たちに居場所を与えてくれた恩ある主。

 未だに生きていると信じて疑わない主に合わせて、幼子が生きているかのように振舞った。

 あまりにも女主が痛々しかったから。

 殆ど騙されるように婚姻してみれば、本妻ではなく妾の扱い。

 夫となった男は初めこそ足繁く通ったが、一年も過ぎれば段々足が遠のいた。

 騙されたのだといきり立つ使用人たちに対し、女主はそのようなことを言うものではありませんと窘めた。

 稚児(ややこ)が出来れば戻って来てくれると信じて疑わなかった。


 それでも、五年もの間子供には恵まれず、やって来るのは年の瀬の数日間のみ。

 使用人たちは何故そんなにも信じていられるのか解からなかった。

 何度となく苦言を呈した。

 それでも女主は夫を信じ、五年後。ようやく身籠ったことを知った主は喜んだ。

 つられて喜んでしまうほどに幸せいっぱいの女主。

 命がけで生まれた赤子は『琥太郎』と名付けられた。

 子育ての忙しさにより、やって来ない夫の存在を使用人たちは皆忘れていた。

 むしろ、女主も忘れてしまえば良いのにと、どれだけ思ったか分からない。


 だが、主は忘れてなどいなかった。

 あるいは、忘れようとしていたのかもしれないと使用人たちは思う。

 やって来ない夫の代わりに我が子を溺愛する。

 その愛しい存在ですら、夫同様自分の目の前から消え去ったなど、到底受け入れられるわけがないのだと。

 故に、時間が解決してくれるだろうと、女主に合わせることにした。

 それがまさか、こんなことになるとは誰も思っていなかった。


「ぼくはちがう。ぼくはちがう。ぼくは『こたろう』じゃない」


 今は亡き『琥太郎』の着物と袴を着せられた幼子が、溢れる涙を懸命に小さな手の甲で拭いながら訴える。

 洗濯物を畳みながら、背後の行李の中から聞こえて来る、どこの子とも知れない幼子の悲痛な悲鳴を使用人は聞いていた。

 胸の詰まるような心細い声だった。

 出来ることなら返してやりたい。

 だが、一体どこへ返せばいいのか。


「我慢しろ」


 と、使用人の誰もが同情しながら言い聞かせた。

 もう少しだけ我慢しろと。

『琥太郎』の振りをしろと。

 女主の望むように振舞っていろと。

 そうしないと――

 最悪の結末が待っているということは飲み込んで。

 


 初めは良かれと思ってしたことだった。

 屋敷にいるだけでは時が止まって進まない。

 このまま屋敷に閉じこもっていては、いつまで経っても琥太郎から逃れられない。

 少しは外に連れ出して気分転換でもさせたらどうだろうかと。

 促せば、存外素直に主は外出した。

 穏やかな表情を浮かべ、まるで雲の上を歩くかのようにふわふわとした様子で歩く様は、気が気ではなかったが、楽しそうな様子を見て、誰もが連れ出して良かったと思った時だった。


「あら、琥太郎ったら、いつの間にそんなところに?」


 と、驚きの声を上げたかと思うと、それまでの足取りはどこへやら。使用人が止める前に小走りに走り出し、祭りの最中、親とはぐれたらしい左目の下に泣きボクロのある幼子の元へ行くと、ヒシッと抱きしめて話し掛けていた。


 この時、幼子が泣いて抵抗でもすれば話は別だったのかもしれない。

 しかし、この幼子はよほど不安だったのか、女主が声を掛けた瞬間、自らもしがみついて「おかあ、おかあ」と泣き出したのだ。

 おそらく、本当の母親に会いたくて「おかあ」と呼んだのだろうが、これは駄目だった。


「はいはい。「おかあ」と一緒に帰りましょうね」


 女主は優しく幼子の背中を撫でてやりながら、当然のように抱き上げて歩き出したのだ。

 これはいけないと、使用人たちは苦言を呈したが、聞く耳など初めからなかった。

 何を言っても聞き入れられない。大声で喚くわけにもいかず、仕方なしに騙して、主から幼子を取り上げようと試みるも、察するものがあるのか、女主は決して預けたりしなかった。


 使用人たちは迷った。

 本来であれば迷う必要などない。

 これは犯罪だ。子攫いだ。かどわかしだ。

 そんな罪を犯させてはいけない。

 だが、再び手に入れた『琥太郎』をまたしても失ってしまったなら、今度こそ完全に主は壊れてしまうかもしれない。

 それは嫌だと。使用人たちは思ってしまった。

 故に、おかしな言い訳が成立した。

 着ている着物から見ても、決して裕福な家のものではない。

 だとすれば、主の元で『琥太郎』として生きて行く方が、食べるものも着るものも学問ですら満足に与えられて健やかに裕福に暮らせて幸せなのではないか?――と。


 使用人たちは目を瞑った。

『琥太郎』として生きて行けば幸せになれるぞと。

 だが、幼子は気が付いた。自分がいるべき場所ではないところにいるということに。

 途端に泣き出し帰りたい帰りたいと訴えて。おとう! おかあ! と助けを求める。

『おかあ!』と呼ばれて女主が『どうしたの?』と様子を見に来てあやそうとするが、当然のことながら暴れて拒絶する。


 それでも女主は気にしなかった。幼子が癇癪を起すことはよくあること。仕方のないことだと抱きしめて宥めようとするが逆効果。

 さすがにやはり無理だったかと思い直した使用人たちが、家族の元へ返そうと決めて引き離そうとするが、睨まれた。


 初めて女主に睨まれた使用人たちは、蛇に睨まれた蛙の如く硬直した。

 女主から幼子を奪い取ることは容易だっただろう。やろうと思えばいつでもやれただろう。

 だが、出来なかった。

 目に見えぬ呪力でもあるかのように近づくことすら出来なかった。

 この時になって、自分たちが一体何をしたのか。その罪の深さを思い知った。

 遅すぎる認識だった。


 いや、初めから分かってはいた。だが、ここまで我を失っているとは思わず――いや、思いたくなかったのだと思い知った。

 知った途端に罪悪感が使用人たちを襲った。

 親元から引き離された幼子に、心から謝った。

 何度も何度も、幼子の泣き声を聞きながら、胸を締め付けられるほどの痛みを覚えながら、それでも使用人たちは幼子を親元に帰そうとは思わなかった。

 使用人たちの主は幼子ではなく、女の方だったから。

 たとえ人の道に外れようとも、主の心を平穏に保つため、幼子には犠牲になってもらうと一致団結。

 少しばかり時はいるだろうが、幼少期の記憶は無くなるもの。

 この屋敷に攫われて来たことを感謝するほど大切に育てて行けばいい。

 そう、思っていた。



 攫って来てから数日後、実の親を捜そうと屋敷の中を動き回る音もせず、親を求める声も聞こえず、癇癪を起す声も、助けを呼ぶ泣き声も何一つしない静かな朝だった。

 誰もがようやく幼子も『琥太郎』として生きる気になったのかと思っていた。

 ぐったりとした幼子を胸に抱き、満足げに微笑んでいる女主の姿を見るまでは。


 何か様子がおかしかった。

 雰囲気がおかしかった。

 異様だった。言い知れぬ不安のようなものが膨れ上がった。

 おはようございますと声を掛けると、おはようと穏やかな声。

『昨日までとは違って随分と大人しくなりましたね。寝ているのでしょうか?』

 と、声を掛ければ、

『そうなの。こんなに安心して眠っているの。見て? 可愛いでしょ?』

 と言って、女主は使用人たちに幼子の寝顔を見せた。


 幼子は、明らかに死んでいた。

 戦慄と衝撃が座敷の中を駆け抜けた。

 悔恨の一撃。

 誰もが唇を噛み締め、そっと目を逸らした。

 何故? と呟いたのは誰だったか。

 しかし、その声は女主の耳に届かなかった。



 女主が眠っている間に、幼子は寺に運び、くれぐれも丁重に弔ってくれと金を渡した。

 目を覚ました女主は、姿が見えない幼子に気が付いて恐慌状態に陥った。半狂乱になって屋敷中を捜し回って、この世の終わりのように泣いた。一日中泣いた。

 どうして、どうしてと、再びいなくなった我が子を求めて泣きに泣いた。

 女主にとって、あの幼子は本当に『琥太郎』だったのだと知った。

 このまま主が儚くなってしまえば自分たちはどうなってしまうのか。

 何故、あの憎き男のせいで、心優しい主がこんな目に遭わなければならないのか。

 使用人たちは告げた。

 主よ。外へ出かけましょう。きっと『琥太郎』さまは主への贈り物を探しに出たのです。

 こうして使用人は女主と共に、人の集まる賑やかな場所へと出向いた。




 それをいったい何度繰り返したことだろう。


「『琥太郎』? 『琥太郎』? どこへ隠れたのですか?」


 屋敷をぐるりと回って再び女主が楽しげに声を弾ませてやって来る。

 幼子が行李の中でびくりと震えたのが、洗濯物を畳んでいた使用人には分かった。

 口を両手で抑えるのが見えた。息を殺しているのが分かった。

 緊張感が伝わり、使用人の表情も強張る。


「『琥太郎』や『琥太郎』。『琥太郎』を見ませんでしたか? あの子は本当に隠れ鬼が上手で見つけられないのです」


 穏やかな微笑みを浮かべた主に問われ、使用人はぎこちない笑みを浮かべて応えた。


「さあ? こちらにはいらっしゃいませんでしたよ?」

「そうですか。幼子は体が小さい故にどこにでも隠れますからね」

「そうですね。もしかしたら隠れたり逃げ回ったりしているかもしれませんね」

「今日は何としても私自身で見つけますよ」

「頑張ってください」

「ええ」

「………………」


 何一つ疑った様子も見せずに女主は去って行く。

 その足音が聞こえなくなるまで。呼びかける声が聞こえなくなるまで沈黙を保った後、使用人は呟いた。


「お前は賢い子だ」と。

「もう少し我慢をしろ」と。

「悪いようにはしないから」と。


 その言葉の意味をどれだけ幼子が汲み取ることが出来たか、使用人に知る術はない。

 ただ、実際にその幼子は賢いと使用人たちは思っていた。

 自分が攫われて来たのは『琥太郎』の身代わりだったこと。

 女主が『琥太郎』に執着するようになった理由。

 それらを話して聞かせてから、露骨に女主を拒絶しようとしなくなった。

 それでも目を盗んでは逃げようとし、時に《隠れ鬼》を持ち出して逃げ回るという手を打ち、見つけられたら大人しく『琥太郎』の振りをした。

 攫われてきてから一月近く。無事に生き延びたのはその幼子だけ。


 次第に使用人たちも、この幼子だけは何としてでも生き延びさせなければならないと思うようになっていた。

 たとえ主に偽りを述べることになったとしても。

 それが、これまで攫って来た幼子たちに対して抱いて来た罪悪感から来るものだったとしても。

 本物の『琥太郎』が戻って来ない限り、主の心に平穏が訪れないことをようやく認めた結果だった。


「すまないな」

 と呟いた声に幼子の応えはない。

 もう少ししたら、女主の前に幼子を差し出さなければならないのだ。

 幼子は、幼子たちは、どれだけ自分たちを恨んでいるのかと使用人は思いを馳せる。


 辛かった。辞めたかった。

 だが、辞められなかった。

 使用人たちにとって女主が大事だったから。

 ただ、思わずにはいられなかった。

 どうせなら、本物が化けてでもいいから出て来てくれたらいいのにと。

 本物の『琥太郎』の言葉だったら、女主にも届くはずなのにと。

 その時だった。


「まぁ、『琥太郎』。こんなところにいたのですね?!」


 遠くから聞こえて来た弾んだ声が、妙にはっきりと聞こえて来て、驚いた使用人が背後の行李を開けて見ると、そこには驚きに目を丸くしている幼子の姿が。


「え? え?」


 使用人は戸惑った。

 戸惑って、声の聞こえて来た方へ顔を向けた。

 妙に胸がざわついた。


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