(3)
《神隠し》が起きていることは瓦版でお仙も知っていた。
狙われているのは、四歳から五歳になる、左目の下に泣きボクロのある男の子。
攫われた場所は人出の多いところ。人ごみに紛れて攫われているとのこと。
正直怖いと思っていた。
それと同時に《神隠し》という表現を使うことに憤りも感じていた。
神様が人間を攫うことなどそもそもない。攫うほどに好かれる人間が存在しないのだから当然だと。
ただ、七歳までは神のうちと言われているのも事実で、そこを突かれると《神隠し》と言う表現もあながち間違いではないのか……と思わなくもないが、やはり、人が行っている以上神様のせいにするのは如何なものかと思わずにはいられなかった。
そんなある日、いつものように子守の仕事で指名が入った。
これまでも度々指名を頂いていた反物屋。
そう言えば、あの男の子も泣きボクロがあったな……と思いながら、お仙は出向いた。
顔を出すと、初めはどこか不貞腐れているように見えた男の子は、お仙の顔を見るなり満面の笑みを浮かべて出迎えてくれた。
思わず頬擦りをしたくなるほどに可愛らしかった。
目線を合わせるようにしゃがみ込み、両手を開いて名前を呼べば、男の子は手を伸ばして走って来ると迷うことなくお仙の腕の中に飛び込んだ。
柔らかく温かく良い匂いがして、お仙はこの瞬間いつも幸せを感じていた。
「お仙さん」と名前を呼ばれ、「はい」と答える。
本来であれば、自分たちが直接反物の御祈祷をしに行くのだが、どうにも店を開けるわけにはいかないお客様が来るからと、今回の仕事依頼の理由を申し訳なさそうに説明された。
神社の境内にはいつも小店が並び、参拝客を楽しませている。
店を開けるわけにはいかないお客様の来店が決まった時点で、日をずらそうと思っていたが、楽しみにしていた男の子があまりに駄々を捏ねるのと、神社の都合もあるだろうからと、申し訳ないが仕事を頼みたいと。
ただ、普段であれば気兼ねなく「はい」と答えられるお仙ではあったが、時期が時期だった。
《神隠し》
返事に緊張が混じったことで、女将も緊張を滲ませた。
巷では《神隠し》が流行っているから十分に気を付けて。目を放さないでね。と何度も何度も注意を受けて、お仙も気を引き締めて「大丈夫です。絶対に目は放しませんと約束した」。
男の子と手をしっかり繋ぎ、すれ違う人や不自然に近づいて来る人たちに対して神経を張り詰めた。正直、いつも通り人出の少ない場所やお店付近での普通の子守であればどれだけ楽だったかと思っていた。
アレは何? アレ食べたい! と、出店に興味を引かれる男の子に、後でねとお預けをして、先に神社で祈祷してもらうための反物を届け、明日取りに来ることを伝えて後にした。
言われた通り、大人しくお仙の横で用事が終わるのを待っていた男の子に、ご褒美として好きなものを買ってあげると言えば、男の子はお仙の手をぐいぐい引いて、初めに目を付けていた細工飴の店へ。
店先に並んだ鳥や金魚など、一体どうやって色付けをしているのか不思議なぐらいに生き生きとした綺麗な飴たちを眺め、男の子は赤い金魚を、お仙は鶴の飴をそれぞれ買った。
座って食べようねと、再び神社へと続く階段へ戻り、一番上まで登ってその隅に座って二人で食べた。
念のため、誰かに攫われないように、お仙の膝の上に座らせて抱きかかえるようにして飴を食べていると、
「あらあらあら、随分と可愛らしいこと」
と、品の良さそうな女に声を掛けられた。
色白で左目に泣きボクロのある綺麗な人だった。穏やかな顔をして優しい笑みを浮かべていた。
「姉弟(きょうだい)で遊びに来たのかしら?」と問われるので、お仙は「いいえ」と笑顔で答えた。「親が今、祈祷してもらっているので、二人でここで待っているところです」と、シレッと嘘を吐く。
大体こう答えるとおかしなことを考えている輩は引き下がることが多い。実際その時も、
「まぁ、お姉さんがしっかりしているから、ご両親はさぞ安心していることでしょうね。でも、《神隠し》が流行っているようですからね。よくよく気を付けてくださいね」
と、心配され、「はい」と素直に応じてありがとうございますと返せば、「奥様、そろそろ参りましょう」とどこからともなく現れたお付きの男に付き添われて階段を下りて行った。
ぴったりと寄り添うように下りて行く二人を見て、お仙は何となく、あの奥さんは具合があまりよくないのだろうかと思った。思った理由は何かと問われれば『何』と答えられるわけでもないし、どうしてそう思ったのかも良く解からなかったが、強いて言えば、あの、どこか淋しそうな羨ましそうな眼のせいかな? と思った。
その後は、特別誰かが近づいてくることもなく、お仙は男の子の手を取って階段を下りた。
目的は果たしたため、さっさとお店まで戻り、いつものように時間を過ごそうと考えたためだ。
男の子は帰り道もあれやこれやと興味を抱き、アレは何? それは何? と問うので、その度にお仙は答えた。自分に舞い込んだ縁談話。近い将来、自分にも子供が出来たら毎日こんなに幸せな気分を味わえるのかと思うと、気恥ずかしくもあり嬉しくもあり、心の奥から暖かくなった。
まさか、そんな幸せ心地になった瞬間、頭に尋常ではない衝撃を与えられるとは夢にも思っていなかった。
気が付くと、どことも知れない天井が視えた。
途端に上がる泣き声と、「先生!」と呼ぶ聞き覚えのある声。
ぼんやりとする頭で視線を動かせば、そこに涙を流している実の母がいた。
何故? と思った。思った瞬間、走馬灯のようにそれまでのことが脳裏を駆け抜け、血の気が音を立てて引いて行った。
「あ、あの子は? あの子はどうしたの?」
母親の腕を掴んで問い掛ければ、あなただって一歩間違えれば死んでいたのよ! と泣きながら怒鳴られた。
だが、お仙にしてみればそんなことはどうでも良かった。
帰り道に襲われた。頭を何かで強く殴られて。話を聞けば随分な出血をしていたらしく、お仙を襲った三人組の顔を隠した男たちは、周囲が悲鳴を上げて役人を呼ぶ間に、颯爽と男の子を攫って姿を消した。
《神隠し》ならぬ《人攫い》。
その三人組が、一連の《神隠し》の下手人かどうかは分からない。分からないが、自分がしっかりしなかったせいで子供が一人攫われてしまったという事実は変わらない。
お仙は震えた。自分の身に起きた最悪の事態に。男の子を連れ去られてしまったという事態に。
責任――の二文字が凄まじい勢いでお仙を責めた。
それが、姿を伴って現れたとしても、一体誰が止められただろうか。
「どういうことなの?!」
あの優しい女将が、般若のごとき形相で療養室に上がり込み、お仙の枕元にいた母親を横に突き飛ばし、寝ているお仙の胸倉をつかんで無理やり引き起こすと、噛み殺さんばかりの勢いで詰問した。
お仙は泣いた。泣くことを女将は許さなかった。泣きたいのはこっちだと、涙をこぼしながら眦を吊り上げて怒鳴り付けた。どうしてくれるのかと、あの子を返せと。よくも生き残ったものだと。散々に罵られた。
お仙には責任があった。何が何でも守らなければならなかった。自分の命が危ういと分かっていても、命を賭けて守らなければならなかった。
自分を信じてくれた人のために。自分に懐いてくれた男の子のために。
男の子は一体どこへ連れ去られてしまったのか。
何の目的で連れ去られてしまったのか。
何故その子でなければならなかったのか。
自分に恨みのあるものの犯行なのか。
はたまた、この女将に対して、嫌、お店に対して恨みを持ったものの犯行だったのか。
もしも、お店に対しての、女将に対しての犯行なのであれば、お仙はただの巻き込まれだ。
あんたたちのせいで死ぬところだった! と、怒鳴り付けたところで、誰も責めたりはしなかっただろう。少なくとも、今こうして罵られて罵倒されるいわれはないはずだった。
死んでも放すものかと言わんばかりに強く強く握り占められた胸元。母親や父親。伝弥や医師たちが引き剥がそうとすることに、真っ向から逆らう女将。
だとしても、お仙に女将を責めるつもりなど欠片もなかった。
男の子を預かっていたのは誰でもない自分なのだ。
《神隠し》があることは知っていた。気を付けなければならないことは知っていた。
殴って気絶させられた間に連れ去られるという記述はなかったものの、油断などしてはいけなかったのだ。勿論、意識を子供から離したわけではないし、手はしっかりと握っていた。おかしな人が近づきそうだと思えば立ち止まり、背中を向けてさりげなく庇ったりしていた。
それでも、白昼堂々、人目もある中で突然襲われるとは思いもしなかった。
後日、役人が来て事情を訊ねられても、何も見ていなかったお仙に答える術もなく。
自分が長屋にいない間も、女将による嫌がらせがあったことも知らなかったお仙は、療養所を後にするや長屋を引っ越すことになったとしても、正直どうでも良かった。
自分は責められるだけのことをしたのだ。最愛の息子を奪われてしまったのだ。
しかも、見ず知らずと言っても過言ではない娘に預けている間に。
おめおめと生き残ってしまった。
悲しみだけが溢れ出した。
年端も行かないあんなにも可愛い子が、いきなり親元から引き離されて、見ず知らずの人間たちに取り囲まれているかと思うと、心の臓が痛くなった。
どんなに心細い思いをしているのだろうか。
どんなに恐ろしい思いをしているだろうか。
きっと泣いている。私や母親を求めて泣いている。
叩かれてはいないだろうか。罵られてはいないだろうか。
ご飯はちゃんと与えられているだろうか? 着るものは? お風呂は?
一体どこに連れ去られたのか。
周りはお仙のことを心配してくれた。だが、そんな価値はないと思っていた。
心配される必要はない。
ご飯を進められても食べる気にもならなかった。
もしもあの男の子がご飯も与えられず、布団も与えられず、辛い思いをしていたとしたら、守り切れなかった自分が腹を満たすことは出来ない。安眠を享受することも出来ない。幸せになどなる資格もない。
でも、死ぬことも出来なかった。
飲まず食わずでいれば死ねるかとも思ったが、思ったより丈夫だった。
眠る気がなくとも気を失うことを止めることは出来ない。
夢うつつの中で食事を取らせられることもあった。
放っておいて欲しかった。
だが、自分以上に傷ついているらしい両親を置いて行くことも出来なかった。
今ここで自分が死んでしまえば、きっと両親はずっとその気持ちを引きずって生きることになる。もしも後を追われてしまえばお仙の望むところではない。
死にたいが死ねない。
死ねないが生きている意味が見いだせない。
あらゆるものに対して罪悪感が芽生えていた。
そんな中で縁談はまだ白紙に戻っていないと言われても、嬉しくもなんともなかった。
あの子が生きて無事に戻って来ない限り、自分の人生もここで終わりだと決めていた。
だから――
「《心移し》完了」
「え?」
唐突に遮られた淡々とした言葉に、お仙は目が覚めるような驚きに見舞われた。
それまで、自分で語っていたことすら自覚がなかった。何を語ったのかもろくに覚えていない。
それでも、それまで沈んでいた闇から引きずり上げられたことだけはハッキリと解った。
色の失せた世界に色が付いていた。世界が明るかった。胸を圧迫していたものが無くなり、体も心も異様に軽かった。
生きている実感があった。生きる気力が湧いていた。恐ろしく空腹だった。
「な、にが?」
「お仙?」
「え? 伝弥兄、なんで?」
「お仙!」
「うわっ」
それまでとまるで違う、はっきりと認識して意志の籠った声を聴いて、伝弥は思わずと言った様子で抱き着いて。
思わず、「おばさん! おばさん!」と、歓喜を滲ませて外へ待機させているお仙の母親を呼びつければ、何が起きたのかと飛び込んで来た母親と入れ違いに、すずめ丸に支えられて佐倉が出て行く姿を気にする者はいなかった。
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