(3)


「お断りします」

「え??」

「…………」

「…………」


 伝弥に連れられてやって来たお仙の新たな住まいである長屋。

 もしかしたらお仙を元に戻せるかもしれないと、佐倉とすずめ丸がお仙の母親に伝弥によって紹介され、しばらく自分たちだけにして欲しいと頼み込み、不安の中にも一抹の希望を抱いたような母親が外で待っていると部屋を出た後。

 狭い部屋の隅で空ろな顔をして壁にもたれかかっていたお仙に、笑みを浮かべ、勤めて明るい声で伝弥が話し掛けた。


「この人たちがお前を元の明るい性格に戻してくれるからな。そうしたら、あの人と祝言挙げられるぞ」


 伝弥はてっきり喜んでくれると思っていたのだろう。だが、お仙の答えは伝弥の期待を裏切るものだった。

 拒絶。

 自らの幸せを捨て去る答えに、伝弥は咄嗟の言葉を失っていた。

 その強張った伝弥の後ろ姿を見ながら、しかし、佐倉にしてみれば意外でもなんでもなかった。罪悪感を抱く者は救いを求めていないことが多いことを知っていたから。罪悪感を抱いていることが自分自身への罰だと信じて疑っていないから。

 そこから救われるということは、罪悪感を抱いている《もの》に対しての裏切り行為に当たるから。

 自分だけが幸せになってはいけないと思い込んでしまっているから。

 故に、伝弥の熱意が空回りに終わることを、初めから佐倉は知っていた。


「ど、どうしてだ? お仙。どうして救われようとしない?」

「……放っておいて」

「放っておけるわけがないだろ! お前は何も悪くないんだ!」

「…………」


 お仙の視線は初めから伝弥の顔を捕らえてはいない。壁に頭を預けて床のどことも知れぬ場所を見続けている。


「なあ、もう一月も経つ。お前のことを悪く言った奴らのことは気にするな。お前は何も悪くないんだ」


 伝弥は説得を続ける。お仙を元に戻せるかもしれないという一筋の希望の光を絶やしてはいけないとばかりに懸命に。

 だが、《心移し》をするためには、本人が心からその感情を手放す意志を持っていなければならず、その想いに捕らわれた原因となる話を語らなければならない。

 中には書き留められることを恥として結果的に断る者もいた。男はともかく、女では度々そういうことがあった。

 恥だと思う話の程度は人それぞれ。見ず知らずの人間だからこそ語れることもあるだろうが、無理強いは出来ない。ただ、


「…………」


 ちらりと大人しくしているすずめ丸へ視線を向ければ、どこか物欲しそうな顔。

 確かに、お赤の話で《心喰い》をしてから、佐倉は《心移し》をしていない。

 そういう時、大抵すずめ丸は夜な夜な小腹を満たすために姿を消す。

 本人は知られていないつもりだろうが、佐倉はしっかり知っていた。

 だが、少なくとも今回は一度も小腹を満たしに行っていないような気がした。


 何故出掛けなかったのだろうかと疑問にも思ったが、思った瞬間頭の中を過ぎったのは、《あかね屋》で《心喰い》の仕業だと言い当てたあの老僧の存在。

 後にすずめ丸は『嫌な奴』と嫌悪感を露わにしていたが、少なくとも自分たちが《心喰い》だとは相手に知られていないのだから、気にする必要もないのでは? と思っていた。


 それでもすずめ丸は外出してもあまり寄り道せずにすぐに帰るように佐倉に進言するようになっていた。


(腹が減っているのだろうな……)


 喰わせてやりたいと思う反面、目立つことは避けた方がいいのだろうなと、懸命にお仙の考えを変えようと説得を続ける伝弥の背中を見ながら佐倉は思っていたのだが、


「もし、お仙さん。君がその罪悪感を手放したくないのは、自分だけが助かった負い目があるからで違いはないか?」

「佐、倉……さん?」


 佐倉の突然の援護に伝弥が驚いた顔を向ける。


「おそらく君は、意識が戻ってから色々と役人に訊ねられて答えたと思うが、そこに嘘偽りはないな?」


 お仙は、答えない代わりに唇を噛んで眉間に皴を寄せた。


「では君は、攫われたその子はまだ生きていると思うか?」


 お仙の顔が切なげに、苦しげに、歪む。


「つまり、もう生きてはいないと思っていると。故に、自分だけ助かったことに罪悪感を抱いているのだな?」


 お仙の瞼が下げられて、目尻を一筋の涙が滑る。


「仮に、君の抱いている罪悪感を差し出してくれるのならば、もしもその子が生きていれば救い出せるかもしれないと言ったら、君は話して聞かせてくれるか?」


 淡々と佐倉が問えば、初めてお仙は視線を向けた。

 そして――


「無理だよ」


 苦笑交じりに囁かれた。

「お仙?!」と伝弥がお仙と佐倉の二人を交互に見やり驚きを浮かべるのも関わらず、

「何故?」と佐倉が促す。

 お仙は答えた。


「《神隠し》に遭った子供は誰一人帰ってきてなどないし、訊かれた限り私に接触して来た人たちの情報をお役人さんに伝えても、それらしい人を見つけたなんて話も聞かないし。そんなお役人さんたちに見つけられないものを、あんたなんかに見つけられるわけがないもの。それに、もう……」

「そうだ。君が話さなければ救えるものも救えない」


 言い淀むお仙を煽るように淡々と佐倉が言い切れば、お仙はぐっと言葉を飲み込んだ。


「時は刻々と流れていく。救えるものは救えなくなり、新たな被害者は増えていく。

 君が罪悪感を抱いている限り、その姿を見て更に苦しむ人々を増やすことはあっても、私たちには何もできない」

「…………」

「だが、別に私はそれでもいいと思っている」

「何を言ってるんですか、佐倉さん!」


 伝弥が驚きのあまり体ごと振り返るが、佐倉に動じた様子は欠片も浮かばない。


「何か勘違いをしているようだから言っておくが、私は売れない戯作者が本業であって、決して人助けを生業としているわけではない。あくまで、戯作のネタを提供してくれる代わりに悩みを解決する原因を取り除くだけのこと。ネタとして使われたくはない。ネタの提供をしたくない。そもそも信用も出来ない。真実など語れない。そういうもの相手では何の役にも立てないのだ」

「で、でも……」

「そもそも、本人にその感情を手放す意志がないのではどうもできない。相手を救うことで消えるものもあるが、己を罰することで良しとするのであれば仕方がない」

「そんな……」

「力になれず申し訳ないが、これ以上ここにいても迷惑になるだけだろう。これにて私たちは失礼させて貰おう」

「ま、待ってください!」


 有言実行とばかりに立ち上がる佐倉の足元に縋りついて伝弥が引き止める。


「それではお仙はどうなるんですか?!」

「残念だが、救いの手を伸ばさぬものを救うことは出来ない」


 伸ばせば必ずしも掴んでくれる者がいるとは限らない。

 それでも、伸ばさずにいるよりは伸ばして求めた方が、掴んでくれる者が現れるかもしれない。

 その手を掴むか掴まぬか。


「救われたいと望む者は、その好機を逃すまいともがくもの。

 何もせぬものよりも、もがいた方が手に入れられるものも多くなる。

 故に私は望まれれば出来る限りのことをしようとは思うが、本人が望まぬのであれば何もできない。申し訳ないが、帰らせてもらう」


 ただただ淡々と。

 いっそ、冷淡と捉えられても仕方がないほどに淡々と言葉を綴り、降り散らし、伝弥の希望を打ち砕く。

 気の毒だとは思うが、心は動かない。空っぽの心は凪いだまま、佐倉は踵を返し、力の抜けた伝弥の手から裾を引き抜き一歩を踏み出して、ぴたりとその動きを止めた。


 聞こえたのだ。

 待って、下さい――と。


 音もなく振り返った先で、お仙は壁から体を放し、今にも泣きださんばかりの顔でまっすぐ佐倉の顔を見ていた。

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