(2)

「どんなに気を付けていたって。手を繋いでいたって、人目を気にしていたって、背後から頭を殴られて意識を飛ばされてしまえば、何もできないじゃないですか!」


 すずめ丸の眉間が僅かに寄る。


「あいつだって、頭割られて大変だったんだ。一歩間違えば死んでいたかもしれないんだ。

 それなのに、あの女将さん! あいつが意識を取り戻したと分かった途端に療養所に殴り込みに来て、よくもよくもと責め立てたんだ。大丈夫だと言ったはずなのに! 信用したのに! って、でも! 自分の息子と客を比べて客を取っておきながら、しかも、人混みに注意しろと言われているにも拘らず、そんなところへついでにお遣いを頼んでおきながら、全部お仙のせいにして罵ったんだ。胸倉掴んで揺さぶって、鬼のような形相で!」


 伝弥がダンと膝頭に拳を叩きつける。


「俺たちは止めた。正直俺は腹が立って腹が立って仕方がなかった。

 でも、お仙の奴は謝ったんだ。申し訳ございませんって! 布団の上に膝を折って両手を付いて、額を擦り付けて、何度も何度も言い訳の一つもせずに、言い返したりもせずに、泣きながら謝った。謝って済む問題じゃないと、女将さんは怒鳴り散らして、足で蹴ろうとした。

 俺たちは女将さんを無理矢理部屋の外へ引き摺り出したものの、女将さんはずっとお仙に罵声を浴びせ続けて、お仙は土下座のままただただ泣いていた」


 話しながら思い出したものか、伝弥の眼に薄っすら透明な幕が貼る。


「その数日後、療養所を後にしたお仙を待って、一家は長屋を移りました。連日のようにあの女将が長屋にやって来ては、人殺しとか人攫いとか怒鳴り散らしていたんで、長屋の人たちも半分は同情して、半分は嫌がらせをするようになって。お仙の両親はもうここにはいられないって言ってて。お仙が療養所を出るときは、ここから出て行くと言ってましたから、後を付けられないようにほとんど夜逃げ状態で出て行きました。勿論大家さんには家賃をきちんと払った上で、真夜中に長屋を後にしたので、大家さんは同情的でしたけど……」

「同情的って、まるで見て来たような口振りだな、あんた」

「ええ、まぁ、俺もそれ手伝いましたから……実際に見てましたし」

「え?」

「おれ、お仙一家の隣に住んでたんですよ。片親で、その母親も四年前に亡くなって、それからは独り暮らしなんで、良くご飯一緒に準備してもらって。あ、でも、俺とお仙の間には何一つ疚しいことはありませんでしたよ! 本当の兄妹みたいな感じでしたし」

「いや、そこまでは聞いてないけど」

「でも、一応誤解がないようにしておかないと、と思いまして……すみません」


 と、いきなり顔を赤く染めて頭を下げる。

 しかし、すぐに思い詰めた顔で先を続けた。


「俺は今でも同じ長屋に住んでいます。で、組み紐作りの仕事をしながら、まとまった時間が取れたときはお仙の様子を見に行ってました」

「幼馴染って、そう言うもんなのか? 随分親身なものなんだな」

「いえ。多分。普通はそこまでしないと思います」

「じゃあ、あんたやっぱり、そのお仙って子に……」

「いや、それだけは本当にないんです!」


 すずめ丸の邪推を、真面目な顔で動揺することもなくきっぱりと伝弥は否定した。


「俺がお仙を助けて欲しいって言ったのは、そこなんです」

「そこ?」


 それまで静かに聞いていた佐倉が訊ねた。


「お仙は、笑わなくなってしまったんです!」


 悔しげに唇を噛み、眉間にしわを寄せて伝弥は言った。


「明るい子だったんです。太陽のような、ヒマワリのような。いつも笑顔で、見ている方が楽しくなってつられて笑ってしまうくらい、気立ても良くて自慢の妹のように思っていました。それが、帰って来てから一度も笑わないんです。喜ばないんです。それどころか自分を責め続けているんです。日の光を宿したようなキラキラしていた眼はどんより濁って生気なんて見当たらないし、顔色も悪い。何かを呟いているかと思えば、ごめんなさいごめんなさいと謝り続けている。自分だけが生きて帰って来たことに罪悪感を抱いていて、今もずっと苦しんでいるんです! お仙は何も悪くないのに! 悪いのは子供たちを攫った《神隠し》の連中なのに! 皆で寄ってたかってお仙を悪者にしたんです!」


 ぎりりりと、音がしそうなほどに膝頭を握る指に力を込めて、


「でも、そんなお仙のことを心配してくれる相手がいるんです! 本当であれば……《神隠し》にさえ遭わなければ、幸せになれるはずだった相手が! その人は、ご両親が止めるのも聞かず、縁談を進めようとしてくれていたんです!」

「ほほう。それはまた奇特な方もいたようだ」

「そうなのか?」

「ああ。普通はケチが付けば縁談など消滅する」

「はい。どちらの家もこの話はなかったことにしようとしていました。でも、お相手は諦めなかったんです。こんな辛いことがあったからこそ、私が支えて幸せにしてあげなければならないんです! と言って、俺に頭下げて来たんです。どうかお仙さんに会わせて欲しいって」

「でもそれって、怪しくねぇか?」

「……実際、俺もそう思いました。でも、無理して縁談を進めたとしても、得る物なんてありません。むしろ、噂を立てられかねないようなもの。でも、その人は毎日のように俺のところに来て、お仙の様子を訊ねるんです。お仙さんは大丈夫かと。傷ついてはいないかと。笑えるようになったかと、早く会いたいと。だから俺、訊いたんです。どうしてそこまでお仙のことを気に掛けてくれるのかと。その人は、俺の眼をまっすぐに見て言いました。あの人は私が見初め、伴侶とすると決めた人だからと。苦楽を共に最期まで生きたいと誓った相手だからと。この程度のことで見捨ててなるものかと。

 俺は、信じました。その言葉」


 言って伝弥は泣き笑いの顔になった。


「馬鹿だとお思いになられるかもしれません。もしかしたら騙されているのかもしれません。言葉ほど純粋な想いじゃないのかもしれません。何か裏があると思った方が自然なのかもしれません。でも、どうしてもその時の俺には、本心に聞こえたんです。俺はその人に、お仙を幸せにしてくれる可能性を見ました。だから、何としてでも元のお仙に戻ってもらいたいんです!」

「だとしても、どうしてここに?」

「聞いたからです。あなたなら罪悪感に捕らわれたお仙を助けられると」

「一体誰に?」


 無駄に整っている佐倉が目を細めただけで、伝弥はごくりと一度唾を飲み込み、恐る恐ると言った様子で答えた。


「お赤と言う子からです」

「お赤……」

「あの気性の激しい女か。あいつ持って来たお稲荷さんもそこそこ美味しかったけどな」

「一体どう言う関係なんだ?」

「針仕事仲間だったらしく、しばらく見てないからどうしたのかと訊ねられて、説明したら教えてもらえました。だから、お願いします! どうかお仙を助けてください!」


 伝弥は三度、畳に手を付き、頭を下げた。

 それを無表情の佐倉と、眉間にしわを寄せたすずめ丸が、なんとも言えない空気を纏って見下ろした。


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