第五章『咎人故に』
(1)
「助けてください!」
と、後に伝弥(でんや)と名乗る青年が追い詰められた顔で頭を下げて来たのは、月末に版元へ出向いて売上金を貰い、昼を済ませて帰って来た時のことだった。
長屋へ戻ってみると、見知らぬ青年が部屋の前に蹲っていた。
『おい、あんた。そんなところにいられたら、オレたち部屋に入れないんだけど』
と不満を口にしたのはすずめ丸。
刹那、青年はバッと弾かれたように顔を上げると、あんたたちがここの住人ですか?! と縋るような目を向けて来た。
だったらどうだって言うんだと、若干引き気味に喧嘩腰ですずめ丸が訊ね返した瞬間、青年は地べたに両手を付いて頭を下げて叫んだのだ。
どうか助けてくださいと。
佐倉はそれを、何一つ感情の浮かばない目で見下ろして、
「私はしがない戯作者だ。そんな私に何が出来るとも知れないが、人違いではないのか?」
いっそ、冷たくも聞こえる淡々とした声音と口調で静かに返せば、
「いえ! そちらの雀の羽根のような色合いの髪の少年がいるなら、人違いのはずがありません!」
「ふむ」
「ですからどうか、助けてください! これはあなたにしか出来ないことなのです!」
と、再び勢いよく頭を下げる青年の声に、何事かと在宅中の長屋の住人が様子を見るために顔を出し、思わぬ状況に目を丸くするのを視界に収めると、佐倉は言った。
「とりあえず、ここでそんなことをされてはいらぬ誤解を受ける。何が出来るか知らないが、中で話を聞いてみよう」
「ありがとうございます!」
青年は、眼に涙を浮かべて晴れやかに笑った。
◆◇◆◇◆
「俺が助けて欲しいのは、幼馴染のお仙って女なんです」
「ふむ」
お茶など上等なものはない佐倉は、井戸の冷えた水を汲み、湯飲みに入れたものと、向かいの細君が冷やしていたという胡瓜と、それに味噌を添えたものを伝弥の前において話を聞いていた。
「お仙には一応、縁談の話が先々月持ち上がっていたんです」
「それはまためでたいことだ」
まるでめでたいと思ってもいない声音と表情だったが、伝弥は欠片も気にせず膝の上に置いた自分の手だけを見詰めて話を続けた。
「でも、その縁談の話が持ち上がって半月後、お仙は今巷で流行っている《神隠し》の被害に遭ってしまいました」
「《神隠し》?」
「あれ? ご存じありませんか? 結構瓦版でも取りざたされているんですけど……」
わずかに語尾が上がったことで、伝弥は顔を上げて佐倉を見たが、佐倉はそのまま横に座って胡瓜を齧っているすずめ丸へ顔を向け、すずめ丸は首を左右に振った。
「どうにも世情に疎くて申し訳ない。だが、もし、私たちに求めて来た救いの依頼が、《神隠し》に遭ったその幼馴染を見つけ出してほしいというものであれば、何の力にもなれないが?」
「はい。それはもう解決……と言うか、もう、どうにもならなかったので……」
「?」
「?」
「あ、攫われたのはお仙じゃないんです。お仙が子守で見ていた反物屋の息子なんです」
「…………」
「…………」
ある意味衝撃的な発言に言葉を失う佐倉とすずめ丸。
自分の子供の子守をしている最中に、愛しい我が子を攫われたなら、誰もが自分自身を責め苛む。人によっては身内ですら罵り怒ることもあるだろう。
それが、まったくの身内ですらない赤の他人が、大事な我が子を知らぬ間に攫われたのだとしたら、その怒りは如何ほどのものか。
両親が働きに出ている間、または、病に倒れて満足に相手をしていられないなどと言う、のっぴきならない事情があるとき、身内でもないものに給金を支払い子守を頼むことは珍しいことではない。だとしても、まったく本当に見ず知らずの人間に頼むことは稀だろう。
普通は面識のあるもの。または共通の知り合いを通じて紹介されたものが子守をする。
だからこそ、我が子がいない佐倉にも、妖であり《家族》と言う概念のないすずめ丸でも容易に想像が出来た。
「だって、あんた、それって、子供が攫われたって、そのお仙って人、大丈夫なのか?」
《心喰い》として生を受けたすずめ丸にしてみれば、むしろハッキリと解った。
祖父母が子守をして子供に怪我をさせたり命を落とすようなことがあれば、実の娘や息子から向けられる怒りは、自ら死を選択するほどに苛烈になり、妻や嫁の不注意で大切な跡取りに怪我や死を齎せば、夫や舅、姑からの怒りと憎しみは眼には見えぬ業火となってその身を焼き尽くす。
それほどまでに苛烈な怒りを容易に生む事象が起きていた。
「当然のことながら、無事ではすみませんでした」
絞り出すような声だった。
「巷では《神隠し》が流行っているから十分に気を付けて。眼を放さないでね。と何度も何度も注意を受けて、大丈夫です。絶対に目は放しませんと約束して、それでいて、攫われてしまったんです」
「それは……」
この世の終わりだっただろう。
自分自身が攫われて殺された方がどれだけマシだっただろう。
「これが本当に神様によって攫われたって言うんなら、俺たちだってそれなりに諦めも付くんです。でも、《神隠し》なんて言ってますが、実際は人間のやってることなんです。人がいきなり消えるわけなんてないんですから!」
悔しげに、伝弥は膝頭を掴む五指に力を籠める。
「あいつは! お仙は、被害者なんです! 普段であれば、頼まれた長屋やお店の前で一緒に遊んだり、ご飯を食べさせたりするんです! でも、その日はお遣いも頼まれていたんだ」
「お遣いとは?」
「神社に産着を作る反物を祈祷してもらうはずが、どうしても外せないお客様が来るとかで、本来であれば祈祷してもらうついでに神社付近に集まっている出店を冷かしに行くはずだったからと、子守と同時に祈祷もして来てほしいと頼まれていたんです! お菓子でも買って食べればいいと駄賃までもらって。だからあいつは、普段とは違い人出の多い神社へ向かったんだ。
瓦版によれば、人混みに紛れて子供が《神隠し》に遭ってるって書かれていたから、だから頼んだ方も念を押したし、あいつだって肝に銘じて絶対に手放さないって約束したんだ。
でも!」
と、伝弥は悔しげな顔を勢い良く上げた。
「どんなに気を付けていたって。手を繋いでいたって、人目を気にしていたって、背後から頭を殴られて意識を飛ばされてしまえば、何もできないじゃないですか!」
すずめ丸の眉間が僅かに寄る。
「あいつだって、頭割られて大変だったんだ。一歩間違えば死んでいたかもしれないんだ。
それなのに、あの女将さん! あいつが意識を取り戻したと分かった途端に療養所に殴り込みに来て、よくもよくもと責め立てたんだ。大丈夫だと言ったはずなのに! 信用したのに! って、でも! 自分の息子と客を比べて客を取っておきながら、しかも、人混みに注意しろと言われているにも拘らず、そんなところへついでにお遣いを頼んでおきながら、全部お仙のせいにして罵ったんだ。胸倉掴んで揺さぶって、鬼のような形相で!」
伝弥がダンと膝頭に拳を叩きつける。
「俺たちは止めた。正直俺は腹が立って腹が立って仕方がなかった。
でも、お仙の奴は謝ったんだ。申し訳ございませんって! 布団の上に膝を折って両手を付いて、額を擦り付けて、何度も何度も言い訳の一つもせずに、言い返したりもせずに、泣きながら謝った。謝って済む問題じゃないと、女将さんは怒鳴り散らして、足で蹴ろうとした。
俺たちは女将さんを無理矢理部屋の外へ引き摺り出したものの、女将さんはずっとお仙に罵声を浴びせ続けて、お仙は土下座のままただただ泣いていた」
話しながら思い出したものか、伝弥の眼に薄っすら透明な幕が貼る。
「その数日後、療養所を後にしたお仙を待って、一家は長屋を移りました。連日のようにあの女将が長屋にやって来ては、人殺しとか人攫いとか怒鳴り散らしていたんで、長屋の人たちも半分は同情して、半分は嫌がらせをするようになって。お仙の両親はもうここにはいられないって言ってて。お仙が療養所を出るときは、ここから出て行くと言ってましたから、後を付けられないようにほとんど夜逃げ状態で出て行きました。勿論大家さんには家賃をきちんと払った上で、真夜中に長屋を後にしたので、大家さんは同情的でしたけど……」
「同情的って、まるで見て来たような口振りだな、あんた」
「ええ、まぁ、俺もそれ手伝いましたから……実際に見てましたし」
「え?」
「おれ、お仙一家の隣に住んでたんですよ。片親で、その母親も四年前に亡くなって、それからは独り暮らしなんで、良くご飯一緒に準備してもらって。あ、でも、俺とお仙の間には何一つ疚しいことはありませんでしたよ! 本当の兄妹みたいな感じでしたし」
「いや、そこまでは聞いてないけど」
「でも、一応誤解がないようにしておかないと、と思いまして……すみません」
と、いきなり顔を赤く染めて頭を下げる。
しかし、すぐに思い詰めた顔で先を続けた。
「俺は今でも同じ長屋に住んでいます。で、組み紐作りの仕事をしながら、まとまった時間が取れたときはお仙の様子を見に行ってました」
「幼馴染って、そう言うもんなのか? 随分親身なものなんだな」
「いえ。多分。普通はそこまでしないと思います」
「じゃあ、あんたやっぱり、そのお仙って子に……」
「いや、それだけは本当にないんです!」
すずめ丸の邪推を、真面目な顔で動揺することもなくきっぱりと伝弥は否定した。
「俺がお仙を助けて欲しいって言ったのは、そこなんです」
「そこ?」
それまで静かに聞いていた佐倉が訊ねた。
「お仙は、笑わなくなってしまったんです!」
悔しげに唇を噛み、眉間にしわを寄せて伝弥は言った。
「明るい子だったんです。太陽のような、ヒマワリのような。いつも笑顔で、見ている方が楽しくなってつられて笑ってしまうくらい、気立ても良くて自慢の妹のように思っていました。それが、帰って来てから一度も笑わないんです。喜ばないんです。それどころか自分を責め続けているんです。日の光を宿したようなキラキラしていた眼はどんより濁って生気なんて見当たらないし、顔色も悪い。何かを呟いているかと思えば、ごめんなさいごめんなさいと謝り続けている。自分だけが生きて帰って来たことに罪悪感を抱いていて、今もずっと苦しんでいるんです! お仙は何も悪くないのに! 悪いのは子供たちを攫った《神隠し》の連中なのに! 皆で寄ってたかってお仙を悪者にしたんです!」
ぎりりりと、音がしそうなほどに膝頭を握る指に力を込めて、
「でも、そんなお仙のことを心配してくれる相手がいるんです! 本当であれば……《神隠し》にさえ遭わなければ、幸せになれるはずだった相手が! その人は、ご両親が止めるのも聞かず、縁談を進めようとしてくれていたんです!」
「ほほう。それはまた奇特な方もいたようだ」
「そうなのか?」
「ああ。普通はケチが付けば縁談など消滅する」
「はい。どちらの家もこの話はなかったことにしようとしていました。でも、お相手は諦めなかったんです。こんな辛いことがあったからこそ、私が支えて幸せにしてあげなければならないんです! と言って、俺に頭下げて来たんです。どうかお仙さんに会わせて欲しいって」
「でもそれって、怪しくねぇか?」
「……実際、俺もそう思いました。でも、無理して縁談を進めたとしても、得る物なんてありません。むしろ、噂を立てられかねないようなもの。でも、その人は毎日のように俺のところに来て、お仙の様子を訊ねるんです。お仙さんは大丈夫かと。傷ついてはいないかと。笑えるようになったかと、早く会いたいと。だから俺、訊いたんです。どうしてそこまでお仙のことを気に掛けてくれるのかと。その人は、俺の眼をまっすぐに見て言いました。あの人は私が見初め、伴侶とすると決めた人だからと。苦楽を共に最期まで生きたいと誓った相手だからと。この程度のことで見捨ててなるものかと。
俺は、信じました。その言葉」
言って伝弥は泣き笑いの顔になった。
「馬鹿だとお思いになられるかもしれません。もしかしたら騙されているのかもしれません。言葉ほど純粋な想いじゃないのかもしれません。何か裏があると思った方が自然なのかもしれません。でも、どうしてもその時の俺には、本心に聞こえたんです。俺はその人に、お仙を幸せにしてくれる可能性を見ました。だから、何としてでも元のお仙に戻ってもらいたいんです!」
「だとしても、どうしてここに?」
「聞いたからです。あなたなら罪悪感に捕らわれたお仙を助けられると」
「一体誰に?」
無駄に整っている佐倉が目を細めただけで、伝弥はごくりと一度唾を飲み込み、恐る恐ると言った様子で答えた。
「お赤と言う子からです」
「お赤……」
「あの気性の激しい女か。あいつ持って来たお稲荷さんもそこそこ美味しかったけどな」
「一体どう言う関係なんだ?」
「針仕事仲間だったらしく、しばらく見てないからどうしたのかと訊ねられて、説明したら教えてもらえました。だから、お願いします! どうかお仙を助けてください!」
伝弥は三度、畳に手を付き、頭を下げた。
それを無表情の佐倉と、眉間にしわを寄せたすずめ丸が、なんとも言えない空気を纏って見下ろした。
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