(5)

 アヤメは、生まれ変わったかのように晴れやかな気持ちで日々を過ごしていた。

 数日前までは、まさかこんな気持ちを再び味わえるようになるとは思いもしていなかった。

 だからこそ、アヤメは楽しくて楽しくて仕方がなかった。

 愛されていたと思っていた男に騙されていた。

 騙されているだけならばまだしも、それを己のあずかり知らぬところで、面識の欠片もない女たちに笑われていた。


 恋心も乙女心も粉々にされ、失意のうちに沈んだアヤメは、生きてはいけないと泣き暮らした。

 身内がいかに心配しようとも、受け入れるだけの心の隙間などなかった。

 このまま泣き暮らし、失意のうちに死んでしまえたらと思いつめたとき、アヤメは聞いた。


 カワイソウニ――カワイソウニ――

 ツライ――ツライ――クルシイ――クルシイ――

 ワカルヨ――ワカルワ――


 涙に濡れた聞き知らぬ声たち。

 それでも、同じ悲しみを共有してくれる者たちだということはすぐにわかった。

 アヤメは誘われるがままにその手を取った。

 情けなくて誰にも言えない悲しみを理解してくれる者がいる。

 抗えるわけがなかった。癒されたかった。


 だが、すぐにアヤメは気が付いた。

 己がとった手の持ち主が何なのか。

 夢だとばかり思っていたことが現実だったということが。

 さめざめと泣く美しい女がいた。幸の薄そうな女だった。

 女が泣けば雨が降った。魂が凍るような冷たい雨が。

 決して激しくはないが、聞く者の心を萎えさせるような雨が。

 アヤメはそれを上空から見下ろしていた。


 寒かった。ただひたすら寒かった。

 風が吹いているわけでも、体が濡れているわけでもない。

 それでもアヤメは寒かった。

 自身を温めるように抱きしめれば、頬を伝う涙が落ちるさまを見た。

 それは雨となって地上に落ちる。


 そして気付く。

 いつの間にか辺りを埋め尽くすほどの女たちの姿を。

 誰もかれもが泣いていた。老いも若きも泣いていた。

 皆一様に悲しみに捕らわれた顔をして、ただただ静かに泣いていた。

 数多の女たちの数多の涙が、激しくもないが弱くもない勢いで落ちていく。

 雨となって落ちていく。


 切なかった。苦しかった。助けて欲しかった。

 ここに捕らわれたすべての女が救われてほしいとアヤメは祈った。

 祈ったところで誰に願いが届くわけではないと思いながら。解っていながらアヤメは祈った。

 その時、アヤメの耳に声が届いた。


 ――苦しいか? 戻りたいか? お前が望むなら戻してやろう。お前を望む者たちの元へ。


 アヤメは尋ねた。そんなことが出来るのかと。

 声は答えた。


 ――その代わり、お前の心の一部を貰う。そうしなければ戻せないからな。


 アヤメは迷った。帰ったところで自分は元の自分に戻れるのかと。

 辛い思いを抱えて生きるよりは、ここにいた方がいいのではないかと考えて、周囲の女たちを見渡した。

 誰もが悲しみに捕らわれ泣き続けていた。いつからこの女たちは悲しい雨を降らせているのか分からない。

 帰らないということは、己もこの一部になるということ。


 ゾッとした。背筋が凍るほどにゾッとした。

 嫌だと思ってしまった。帰りたいと願ってしまった。

 そのとき、どこからともなくアヤメを呼ぶ声がした。

 帰ってきておくれ。帰ってきておくれと聞き慣れた懐かしい声たちが。

 胸が震えた。目頭が熱を帯びた。涙が溢れ、暖かな涙が冷えた頬を伝った。

 帰りたいと思った。帰してほしいとアヤメは答えた。


 心が喰われるということがどういうことかは分からない。ただ、この場から帰ることが出来るならばそれでも構わないと。


 そしてアヤメは眼を覚ました。

 これまでのことが全て悪夢だったかのように、ひどくすっきりとした気分で目覚めると、アヤメは家族たちに泣きつかれて知らされた。

 自分が川で身投げをしたことを。

 たまたまその現場を目撃した人々によって救い出されたが、十日もの間目を覚まさなかったことを。

 それでも、生きている証を主張するかのように、ずっとずっと涙を流していたことを。


 一体お前に何があったのだと問われ、アヤメは答えた。何がそんなに悲しいことだったのか我ながら理解できないとばかりに、あっけらかんとした口調で。

 周囲はただただ呆れていた。父親には笑っている場合かと怒鳴られ、母親には泣き喚かれ、兄はその男を殺してやると息巻いたが、もういいのだとアヤメは止めた。

 心の底からどうでもいいのだと。

 むしろ今は生まれ変わったように清々しい気持ちでいるからと。

 心配かけた分、二度と悲しませるようなことはしないと。

 どこか不安げな眼差しを向ける面々を前にして宣言をした。



 

 そんなアヤメが無事に生き返った頃。

 原因を作っていた遊び人の吉次郎は、冷たい笑みを浮かべる三日月が見下ろす夜道をほろ酔い気分で歩いていた。


 すると、行く手に一つ濃い影が。

 ぎくりと体を竦ませ、提灯で翳してみれば、それは女だとすぐに知れた。

 途端に下卑た笑みを顔に浮かべ、一体どうしたのかと声を掛ければ、どうやら女は泣いていて。

 おいおい何を泣いているんだと重ねて問えば、女は答えた。


 ――ひどい男に騙された。一緒になってくれると誓ってくれたのに。


 そいつは酷ェ男だと、吉次郎は親身になって同情し、つい言ってはならない一言を口にした。


 ――俺がその男だったら絶対一緒になってやるのに。


 刹那、吉次郎は聞いた。


 ――本当だな?


 という、男の声を。

 吉次郎は驚いて女を見た。

 女は、ゾッとする笑みを口元に浮かべていた。

 目は爛々と黄金色に輝き、耳まで裂けんばかりに上げられた口角。

 吉次郎は理解する。

 自分が今当然のように体を引き寄せているものが尋常なものではないということを。


 吉次郎の本能が告げていた。

 今すぐ逃げろと。

 吉次郎は逃げた。逃げに逃げた。

 だが、女は追いかけて来た。

 いや、女の姿をした《何か》が。


 助けを求めても人っ子一人通りにはいなかった。

 まだ明かりがついていたはずの店という店が明かりを落とし、動く者は一人としていない。

 恐怖心が胸を締め付けていた。

 ただでさえ息が上がり苦しい中で、得体の知れないものに追われる恐怖心は尋常ではなかった。

 苦しかった。立ち止まりたかった。

 だが、そんなことしたら終わりだということは解っていた。

 息遣いを感じていた。足音が聞こえていた。笑い声が聞こえていた。


 足を止めたら殺される。

 嫌だった。絶対に嫌だった。

 助けてくれと助けを求めながら吉次郎は走る。

 気持ちだけはどこまでも走る。


 しかし、辻を曲がった時だった。

 ご苦労さんとばかりに、女の姿が待ち構えていたのを見た瞬間。吉次郎は察した。全てこれで終わりだと。

 力尽きて膝から崩れ落ちる。

 女は近づいてくる。

 逃げようにも体は動かない。

 命乞いをしようにも、上がった息では言葉も発せない。ただただ涙だけが溢れ出た。


 空気を求めて開いた口の端から、だらだらと涎が落ちる。

 鼻水が垂れ落ちるも構ってなどいられなかった。

 心の臓が痛かった。

 恐ろしかった。

 得体の知れない女が涎を垂らしながら近づいてくる。

 股間が温かくなる。

 すでに言葉を失って。

 自分に覆い被さるように見下ろしてくる女の唾液がぽたり、ぽたりと垂れ落ちて来る。

 生暖かな雨のように。ぽたり、ぽたりと。


 ――さあ。オレの腹の中で一つになろうぜ。


 男の声で《女》が告げる。

 吉次郎の目の前で、《女》の口が大きく開く。

 吉次郎の頭など一飲みに出来るほどの大口。

 涎の糸を引きながら開けられた大口。

 吉次郎は見ていることしか出来なかった。

 闇が己を飲み込む様を。

 やけにゆっくりと。ただただゆっくりと迫る死を。目を見開いて、吉次郎は見た。


 ――お前の心、いただくぜ。


 それが、吉次郎の聞いた最期の声になる――はずだった。


   ◆◇◆◇◆


「また読んでるのかよ、お久」

「当り前じゃない、お兄ちゃん」


 お久は小さな冊子をパタリと閉じて得意げに答えた。

 太吉の遣いに同行し、太吉が出てくるまでの間の愛読書。

 戯作者佐倉の書いた連作。最新作。巻の二十四。《心喰い》。

 自分の話が元になった物語。

 内容は同じようで少し違って。でも、同じで。


 佐倉に相談してから早一月半。今か今かと店頭に並ぶのを待ちに待ち。見つけた瞬間借りていた。

 手習いよろしく書き写し、それから何度も何度も繰り返し読んでいた。

 何度繰り返し読んでも飽きなかった。楽しかった。心が躍った。


「よくもまぁ、飽きねぇもんだな」

「いいじゃん。お兄ちゃんもちょっとは出てるんだよ」

「本当にちょっとだろうが。しかも空回り」

「外れてないじゃん」

「お前なぁ」


 と、他愛ない会話を繰り広げながら川沿いを歩いていると、前方に人だかり。


「なんだろ? あれ」

「人死にでも出たか?」

「ええ~」


 と、嬉々とする太吉とは対照的に嫌な顔をするお久だったが、


「ちょっと見物していこうぜ」


 嫌がるお久の意見など無視し、人だかりの中へ突入して行く兄を見て、お久はため息一つついて後に続いた。


 そして見た。川面に浮かぶ一人の男を。

 見間違いようがなかった。

 顔形が変わるほどに殴られて、簀巻きにされているその男を。

 そして聞いた。


 ――ああ。やっぱりこうなったか。

 ――死にたくなかったら手を出すなって言ってたのに……。

 ――絶対にその娘さんにだけは手は出さないって言っていたのに……。


 こそこそと囁く声。声。声。

 それを聞いて、お久は嗤った。薄く薄く。冷たく冷たく。

 遠くない過去の話。

 一度は惚れて憧れて。共に暮らすことを夢見て望んだ男の死。

 悲しくはなかった。まったくと言っていいほど悲しくはなかった。

 その代わりのように、男の名前を叫んで河原に駆け降りる娘の姿を見た。

 かつての自分。何も知らない自分。バカな自分。

 同情も何も浮かばない。

 ただただお久は見下ろして嗤った。


 ――恐怖心は自身を守るための本能。それが喰われて無くなれば、奴らは勝手に死を招く。


 作中で書かれた《心喰い》の言葉。

 恐怖心があれば。死を恐れる心があれば、決して越えない一線。誰もが持っている一線。

 だが、恐怖心がなければ抑制は効かない。結果――


(同じになった)


 戯作と同じく、防衛本能を失った男は自ら死を招き入れた。


(《心喰い》が現れてくれたおかげで、私と同じ思いをする子が減ったのね)


 それだけでお久は満足だった。

 その耳に、「お久……お前……」とどこか怯えの籠った呼びかけが。

 見れば目の前で太吉が顔を引きつらせて立っていた。


「どうしたの? お兄ちゃん?」


 いったい何に怯えているのか分からずに、一度背後を振り返って問い掛ける。

 対して太吉は何かを言いかけはするものの、最終的には口を閉じ、


「い、いいや。何でもない。行こう」

「うん。そうしよ。気味悪いもん」


 口を尖らせて同意するお久に対し、太吉は引きつった笑みを浮かべて「ああ」と一つ頷いたが、お久は全く理解できないとばかりに頭を傾げ、


「ま、いっか」


 すぐさま気持ちを切り替え、胸に大事に戯作を抱いて太吉の後を追いかけた。

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