(6)

「お、遅いって、どういうことだよ」

「こういうことだよ」


 動いたのはすずめ丸。

 佐倉の傍で不安定に揺れていた靄を掴むと、グイッと男の目の前に突き付けた。

 目を閉じることすら出来なかった。その靄を構成している《もの》を見てしまったから。

 それは、細かな細かな文字のようなものだった。

 文字の集合体だった。

 そんなものがあり得るわけがないと、青ざめる。

 それが凝縮して、泣いている女の顔を模った一拍後。再び崩れ去ったのちに現れたのは、


「――っ?!」


 男は目を丸々と見張り、息を飲んだ。

 目の前に、男の顔があった。

 見間違いようのない男の顔。恐怖に彩られ、助けを求めて泣き叫んでいる顔。

 先ほどまでの己の顔。

 それが、目の前で反転するように別なものへと移り変わる。

 現れたのは、安堵の笑みを浮かべた女の顔。

 しかしそれもすぐにほどけて、再び助けを求める己の顔になり声なき悲鳴を上げていた。


 その顔が、突如漆黒の液体に飲み込まれ始める。

 靄で作られた影は、闇から逃れようとするかのように、まるで川で溺れかけている男のように上向き、空気を食んでいるのか助けを求めているものか。何度も何度も口を開閉させながら、それでも無情に飲み込まれ――


 気が付くと男は、目の前にすっかり凝縮されて光沢すら放つ美しい球体が突きつけられているのを見ていた。

 まるで今まで見ていたものすべてが、大人の手のひらにすっぽりと収まる漆黒の球体が見せていた悪夢だとでも言わんばかりに。

 だが、よくよく目を凝らせば、球体の中で闇が蠢いている様が見えた。

 ざわざわと、さわさわと、数多の囁きが折り重なっているかのような、無数の羽虫が羽ばたくような音が聞こえた。


 異様な胸騒ぎが男を襲った。

 鼓動が速くなる。呼吸が浅くなる。吐き気が込み上げ、震えが止まらない。

 何か、良くないことが起きる。

 顔が青ざめ、冷や汗が頬を伝う。

 それを、すずめ丸は満足げな笑みを浮かべてみていた。


「これ、なんだか解るか?」


 分かるわけがなかった。

 分かるわけがなかったのだ。すずめ丸は言った。


「これな、《心球(しんきゅう)》って呼んでるものさ。心の球って書くんだぜ」

「し、ん、きゅう?」

「そうそう。《心球》オレの大好物」

「?」

「これは、あんたの恐怖心で出来てるんだ」

「?」

「オレはな、人の心の中でも特にこの《恐怖心》ってのが大好物なんだ。人の食いもんも美味いには美味いけど、ちょっとばかし物足りなくてな」


 何を言っているのだろうかと男は思った。


「おかげで久々に腹いっぱいになれそうだぜ」


 すずめ丸は笑う。口の端から涎を垂らし、何も理解できない男に向かってぐっと顔を近づけて――


「なぁ、知ってるか?」


 声音を抑えて、囁くように――


「心を失った人間がどうなるか」


 嘲りを過分に含んだ囁きが、最終通告のように突きつけられる。


「精々気をつけて生きることだな」

「まっ、待て!」


 と、男が得も言われぬ恐怖心を抱きながら手を伸ばし、すずめ丸のすることを止めようとするも、すずめ丸は余裕で躱し、男に見せつけるように、一口で《心球》を口の中に放り込んだ。


 到底すずめ丸の口の中に収まるような大きさではなかった。

 だが、《心球》は収まった。収まって、


「や、やめ……」


 懇願する男に対し、これまで何度となく向けて来た残酷で見下した満面の笑みを向けて、すずめ丸は――


 ガリッ


 盛大な音を立てて、噛み砕いた。


「?!」


 刹那、男は自分の胸に風穴が開いたのを感じた。

 文字通りの風穴。前から覗けば後ろが見える穴が、胸の中心に開いた感触を。

 それと同時に、大切な何かが消え去ってしまったことを。

 視界がゆっくりと闇に閉ざされていくのを見る。


 心が、喰われた……。


 それがどういう意味なのか分からないままに、男の意識はゆっくりと途絶えて行った。

 故に、男は見ることはなかった。

 己が今までどこにいたのかを。

 寄り掛かっていた卓が何で出来ていたのかを。

 男がいた空間がゆらゆらと揺らぎ、ざぁぁぁぁぁっと細かな雨粒が降り注ぐかのような音と共に、空に向かって崩れ去っていく。


 後には、それまで男がいたはずの食事処の通りに倒れ伏す男だけがぽつんと一人取り残され、正真正銘の食事処から帰ろうとした客たちが発見。

大騒ぎになった様を、十日ぶりに曇天が一掃された天上で、冷笑のごとき白い三日月が、小さき星々と共に見下ろしていた。



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