(4)

「た、助けてくれ!」


 男は、天の助けだとばかりに救いを求めた。

 だが、


「へい。らっしゃい。この雨の中よく来てくれたね」

「帰るついでにあったかいソバが食いたくなったんだよ」

「おう。ありがたいねぇ。この雨で商売あがったりだったからねェ。この際おまけしてやるよ」

「ほんとか?! ありがとよ、オヤジさん♪」

「いいってことよ」


 調子のいいやり取りが、当たり前のように男の頭上で繰り広げられた。

 それまで何度呼びかけても出て来なかった店主はいた。

 注文はつつがなく通されて、


「楽しみだな、佐倉」


 少年は年上の同伴者に投げかける。

 何故? と、男は恐慌状態に陥った。

 何故、自分の声が届かないのか。

 何故、自分の足元で繰り広げられている異常事態に気付いてくれないのか。


「た、助けて……」

『ねえ、『ワタシ』を見て』『見て』『見て』『見て』


 助けを求めて伸ばした手。向けた視線を強制的に振り向かせるひび割れた声。


「!!!!」


 目の前で、娘の顔が崩れ始めていた。

 その頭上で、


「はい、お待ち」

「いただっきま~す」


 何も気が付かぬままに、蕎麦を啜る音がする。

 美味い美味いと喜ぶ声がする。


「た、たすけ……」

『さあ、約束を果たしてください』

『ともに一つとなりましょう』


 娘は崩れる。ぼろぼろと。

 その破片が男の上に降り積もり、瞬く間に液状と化す。

 ねっとりと重いそれは、恐ろしく冷たかった。


「や、やめろ! やめてくれ!」


 誰にも気づかれない異常事態。

 娘だったものを振り払おうと腕を振り回せば、当たった場所から娘は崩れた。


 ぼろぼろ、ぼろぼろ。

 ぼたり。ぼたり。


 呪詛と化した黒い雫が男の体の上の水溜りに落ち、着物を通じ、皮膚を通じ、男の体に染み込んでくる。

 ああ。嗚呼と、歓喜の感情が、怖気と共に湧き上がる。


『ああ、嬉しい』『ああ嬉しい』

『ようやく一つになれるのですね』

『嬉しい』『嬉しい』『嬉しい』

「やめろ! やめてくれ! 俺が悪かった! だから! だから――んぐ」


 泣き喚く男の言葉は、口元まで覆った黒い液体によって塞がれた。

 冷たく温かいモノが口の中にまで侵入してくる。

 耳の奥に、歓喜の声が木霊する。

 息が、出来なかった。苦しかった。怖かった。恐ろしかった。


(し、死ぬ……!!)


 身近に迫った死の恐怖に怖気立つ。

 すでにまともな思考などできなかった。

 何故だ何故だと繰り返す。

 何故気が付いてくれないのか。何故助けてくれないのか。何故こんな目に遭っているのか。

 これは夢なのか現実なのか。

 だが、そんなことなどどうでもよかった。

 夢でも現実でも、死にたくはなかった。助けて欲しかった。

 ずぶずぶと、体が沈み込んでいく感覚にまで陥って、さらに頭の中が白くなる。

 その白を塗り潰さんと、自我をも飲み込まんと言わんばかりに、黒い感情が侵食していく。


 自分が自分ではなくなる感覚。

 自分が何者かに侵されていく恐怖。


(殺される!)


 怖気も震えも止まらない。

 涙が溢れた。

 それさえも、ドロドロに溶けた黒い水面の底に消え、光が奪われ漆黒の闇に包まれた時だった。


 嫌だ嫌だ嫌だと死に抗う男の耳に。

 言葉ですらなくなった感情の渦巻く音の中に。


「なあ、佐倉。もういいだろ? オレ本当にもう、腹が減ってたまらねぇよ。もう十分だ」


 やけにはっきりとした声が聞こえて来たかと思った瞬間――


「分かった」


 ざぁ――っという音がした。

 まるで激しく振る雨の音。

 それが、下から上へ昇りゆく。

 数多の小さき礫が男の体の中を貫き上る感覚を、男は感じていた。

 そのたびに何かが抜き取られるような冷たさを伴って。

 漆黒の闇に塗り潰された世界が開けて行った。

 普段は頼りない蝋燭の暖かな光を目にしたとき、男は泣いた。

 ハラハラと涙をこぼして、男は泣いた。


 助かったのだと理解する。

 戻ってこられたのだと安堵する。

 呼吸がいつの間にか楽になり、全力で空気を肺腑へ送り込む。

 そこへ――


「よお。涙と鼻水と涎で色男も台無しだな」


 悪意の籠った声と共に、にやりと笑った少年が突如男を見下ろして来たから堪らない。

 それは初め、男の助けを求める声をまるっきり無視した少年だった。

 男がぎくりと体を強張らせると、


「おお。おお。たまんねぇ顔するじゃねぇか」


 黄金色の瞳をきらりと光らせ、舌なめずりをする。


「な、な、な」


 今度はなんだという不安と恐怖から、まともに口もきけない中、少年すずめ丸は、男と視線を合わせるようにしゃがみ込むと、冷ややかな笑みを浮かべて問い掛けた。


「ちゃんと思い知ったか? 色男」

「な、なに、なにを?」

「わかんねぇか? お前みたいな連中が、これまで騙して悲しませてきた女たちの気持ちだよ」

「気持ち?」


 そんなもの、知ったことかと男は思った。

 アレが、あんなものが女たちの気持ちだとしたら、逆恨みもいいところだと、怒りさえ覚えていると、


「君が先ほどまで相対していたものは、君に騙された娘たちの悲しみによって作られたものだ」


 すずめ丸の背後に立った、能面のような無表情な顔の男が淡々と告げて来る。

 その横には、まるで靄のような輪郭のはっきりしない影が、常に蠢きながら寄り添っていた。

 男はそれが、自分を襲ったものだと本能的に察した。

 だからこそ、一連のことが能面のような無表情な顔の男――佐倉によって仕組まれたことだったと分かった瞬間、


「てめぇの仕業か!」


 一気に怒りが爆発した。

 怒りに任せて立ち上がろうとするが、


「黙れよ」

「がっ!」


 すずめ丸によって胸元を踏みつけられて卓の脚元へ押し付けられる。

 見下ろしてくるすずめ丸の目は欠片も笑ってはいなかった。

 冷水を浴びせられたかのようにゾッとしていると、


「その娘たちの悲しい気持ちが《泣き女》に引かれて奪われ捕らわれて、救いを求めてやって来た」


 意味が、分からなかった。


「解からんか」


 解かるはずがなかった。


「だが、解かる必要はないのかもしれない」

「な、んだよ、それ」

「解かったからと言って、改心したからと言って、時はすでに遅いのだ」


 意味が解からないまでも、佐倉の淡々とした物言いが、むくむくと男の胸の内に不安と恐怖を膨れ上がらせた。


「お、遅いって、どういうことだよ」

「こういうことだよ」


 動いたのはすずめ丸。

 佐倉の傍で不安定に揺れていた靄を掴むと、グイッと男の目の前に突き付けた。

 目を閉じることすら出来なかった。その靄を構成している《もの》を見てしまったから。

 それは、細かな細かな文字のようなものだった。

 文字の集合体だった。

 そんなものがあり得るわけがないと、青ざめる。

 それが凝縮して、泣いている女の顔を模った一拍後。再び崩れ去ったのちに現れたのは、


「――っ?!」


 男は目を丸々と見張り、息を飲んだ。

 目の前に、男の顔があった。

 見間違いようのない男の顔。恐怖に彩られ、助けを求めて泣き叫んでいる顔。

 先ほどまでの己の顔。

 それが、目の前で反転するように別なものへと移り変わる。

 現れたのは、安堵の笑みを浮かべた女の顔。

 しかしそれもすぐにほどけて、再び助けを求める己の顔になり声なき悲鳴を上げていた。


 その顔が、突如漆黒の液体に飲み込まれ始める。

 靄で作られた影は、闇から逃れようとするかのように、まるで川で溺れかけている男のように上向き、空気を食んでいるのか助けを求めているものか。何度も何度も口を開閉させながら、それでも無情に飲み込まれ――


 気が付くと男は、目の前にすっかり凝縮されて光沢すら放つ美しい球体が突きつけられているのを見ていた。

 まるで今まで見ていたものすべてが、大人の手のひらにすっぽりと収まる漆黒の球体が見せていた悪夢だとでも言わんばかりに。

 だが、よくよく目を凝らせば、球体の中で闇が蠢いている様が見えた。

 ざわざわと、さわさわと、数多の囁きが折り重なっているかのような、無数の羽虫が羽ばたくような音が聞こえた。


 異様な胸騒ぎが男を襲った。

 鼓動が速くなる。呼吸が浅くなる。吐き気が込み上げ、震えが止まらない。

 何か、良くないことが起きる。

 顔が青ざめ、冷や汗が頬を伝う。

 それを、すずめ丸は満足げな笑みを浮かべてみていた。


「これ、なんだか解るか?」


 分かるわけがなかった。

 分かるわけがなかったのだ。すずめ丸は言った。


「これな、《心球(しんきゅう)》って呼んでるものさ。心の球って書くんだぜ」

「し、ん、きゅう?」

「そうそう。《心球》オレの大好物」

「?」

「これは、あんたの恐怖心で出来てるんだ」

「?」

「オレはな、人の心の中でも特にこの《恐怖心》ってのが大好物なんだ。人の食いもんも美味いには美味いけど、ちょっとばかし物足りなくてな」


 何を言っているのだろうかと男は思った。


「おかげで久々に腹いっぱいになれそうだぜ」


 すずめ丸は笑う。口の端から涎を垂らし、何も理解できない男に向かってぐっと顔を近づけて――


「なぁ、知ってるか?」


 声音を抑えて、囁くように――


「心を失った人間がどうなるか」


 嘲りを過分に含んだ囁きが、最終通告のように突きつけられる。


「精々気をつけて生きることだな」

「まっ、待て!」


 と、男が得も言われぬ恐怖心を抱きながら手を伸ばし、すずめ丸のすることを止めようとするも、すずめ丸は余裕で躱し、男に見せつけるように、一口で《心球》を口の中に放り込んだ。


 到底すずめ丸の口の中に収まるような大きさではなかった。

 だが、《心球》は収まった。収まって、


「や、やめ……」


 懇願する男に対し、これまで何度となく向けて来た残酷で見下した満面の笑みを向けて、すずめ丸は――


 ガリッ


 盛大な音を立てて、噛み砕いた。


「?!」


 刹那、男は自分の胸に風穴が開いたのを感じた。

 文字通りの風穴。前から覗けば後ろが見える穴が、胸の中心に開いた感触を。

 それと同時に、大切な何かが消え去ってしまったことを。

 視界がゆっくりと闇に閉ざされていくのを見る。


 心が、喰われた……。


 それがどういう意味なのか分からないままに、男の意識はゆっくりと途絶えて行った。

 故に、男は見ることはなかった。

 己が今までどこにいたのかを。

 寄り掛かっていた卓が何で出来ていたのかを。

 男がいた空間がゆらゆらと揺らぎ、ざぁぁぁぁぁっと細かな雨粒が降り注ぐかのような音と共に、空に向かって崩れ去っていく。


 後には、それまで男がいたはずの食事処の通りに倒れ伏す男だけがぽつんと一人取り残され、正真正銘の食事処から帰ろうとした客たちが発見。

大騒ぎになった様を、十日ぶりに曇天が一掃された天上で、冷笑のごとき白い三日月が、小さき星々と共に見下ろしていた。

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