(4)

 そこに、男の見惚れた娘の顔はなかった。

 まるで別人の顔がそこにあった。

 見覚えのある顔だった。

 かつて自分が食い物にした娘の一人。


「な、な、な」


 言葉が言葉にならなかった。

 勢いのあまり、座敷の縁から踏み固められた三和土の上に落ちる。

 そのまま座敷の上の娘を見上げれば、娘はゆらりと立ち上がり、無表情極まる能面のような青白い顔で、奈落のような漆黒の瞳で、ことりと首を傾げて男を見下ろしていた。


「ねぇ、どうして『ワタシ』を裏切ったの?」


 感情の一切を欠落させたような淡々とした声だった。


「『ワタシ』が遊ばれていただけだと知ったとき、何を思ったのかわかる?」

「く、く、くるな!」


 腰が抜けて立ち上がることが出来なかった。

 ゆらり、ゆらりと、歩くたびに頭を左右に倒しながら、娘は近づく。

 男は逃げる。尻もちをつきながら、後ずさる。


 状況に理解が追い付いていなかった。

 何故ここに、この顔の娘がいるのか?

 絶対に違ったはずだった。可憐で美しい娘のはずだった。

 それが、何故?!

 と、混乱極まる中で、


「ねぇ」


 と、突如、目の前に娘の顔が現れる。

 互いの息が掛かるほどの至近距離。

 男の背中は置かれた卓の脚に当たりそれ以上下がれない。

 好都合とばかりに娘は男の腹の上に跨って問い掛ける。


「どうして『ワタシ』を裏切ったの?」

「な、なん、なんで」

「ねぇ」


 と、さらに娘が問い掛けたとき、不意に娘は顔を激しく振りながら仰け反って、次の瞬間。


「どうして『ワタシ』を騙したの?」


 頭突きでも食らわさんばかりの勢いで、再び男と顔を突き合わせたとき、すでにその顔は別のものになっていた。


「ねぇ、どうして?」「どうして?」「どうして?」「どうして?」「どうして?」「どうして?」


 問うたびに、娘の顔は変わった。声音も変わった。

 それでも、能面のような無表情は変わらなかった。感情の欠落した口調は変わらなかった。


 どうしてどうしてと問う声が、一人二人と重なって。三人四人と重なって。何重もの重なる声が責め立てた。

 男は恐怖に体が震えていた。

 恐怖以外の何物でもなかった。

 見知った顔が代わる代わる現れる。中には見知らぬ顔もあったが、ただただ、ただただ恐ろしかった。


 胸元に置かれた娘の五指が食い込んだ。

 耳の奥。頭の中にまで広がる不快な音の塊が、男の魂を震え上がらせた。

 何が起きているのか分からない。

 何を言われているのか分からない。

 分からなくなるほど何重にも声は、言葉は、重なっていた。

 休む間もなく、息継ぎすらしていないかのように淡々と繰り返される問い掛け。


 どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして。


 いっそのこと激情にでも駆られていれば良かった。悲しさに沈んでいれば良かった。絶望が籠っていれば、怒りが滲んでいれば、声に感情が籠っていれば、違っていたかもしれなかった。


 だが、音は淡々としていた。十重二十重にも重なる呪詛のごとき音の集まり。雑音と化し男の周りを激しく回る。

 娘の顔も瞬きするたびに変化する。

 これまで男が騙して来た娘の数だけ。いや、それ以上に。

 恐ろしさのあまり、男は無意識に目を閉じた。

 これは何かの悪い夢だと思い込もうとするかの如く。

 しかし、


「っ?!」


 ぎゅっと細い指が首に巻き付き絞められたなら話は別。

 男は驚愕に目を見開いた。


「ねぇ、どうして?」 「どうして?」「どうして?」


 壊れたからくり人形のごとく、同じ文句を繰り返しながら、何の感情も浮かばぬ顔で、娘の指がゆっくりと男の首を締め上げていく。


(殺される!)


 たとえ夢だとしても看過できるものではなかった。嫌だった。殺されたくなどなかった。死にたくなどなかった。


(別に俺は誰かを殺したわけじゃない!)


 男がしたことは単なる遊びだった。

 淡い恋心を叶えてやっただけだった。

 娘たちだって本気で結ばれるとは思ってはいなかったはずだった。

 束の間の夢を見させてやった。ただそれだけなのに、何故自分が殺されなければならないのか。


「俺は! 悪くない!」


 気が付くと、男は娘の頭を力の限り殴っていた。

 ぐらりと娘の頭が傾ぐ。僅かながら首を絞める力が緩む。

 だが、束の間のことだった。


「何故?」


 ひび割れた声が問い掛けて、陥没した頭で娘は問い掛けて来た。


「何故?」


 男の全身に鳥肌が立った。


「何故なぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜ」


 壊れたように繰り返される問い掛け。


「なぜなぜなぜなぜ――」


 それがふと、


「なぜ?」


止まる。


「ワタシが――醜いから?」


 カタリと止まって問い掛けられ、男は全身の産毛が逆立つのを感じた。


「醜いから捨てられた?」

「可愛くないから捨てられた?」

「面白かった?」

「楽しかった?」

「掌で踊らされていた『ワタシたち』は愉快だった?」


 割れた頭から淡々とした声が溢れ出た。


「ひっ」


 男は見た。割れた頭の隙間から、きょろりきょろりと小さな小さな眼が見つめて来るのを。

 目だった。紛れもなく、人の目だった。


「な、な、な」

「『ワタシたち』は悲しかった。悲しくて悲しくて」

「それでも『ワタシたち』は忘れられなかったの」

「あなたのことが」「あなたのことが」「あなたのことが」


 娘の割れた頭から、小さな顔がぽこりポコリと生まれ出て、能面のごとき顔が唱和する。


『忘れられなかった』『忘れられなかった』『忘れられなかった』

『待ってた』『待ってた』『待っていたの』

『あなたのことを、待っていたの』


 目に見えぬ手が男の体に纏わりつく――感触が、男を襲った。


「た、助けてくれ」


 掠れた声で助けを求めた時だった。


「あ~腹減った」


 陽気な声と共に、雀の羽のような髪色の少年と、整ってはいるものの無表情極まりない顔立ちの男が現れた。


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