第一章『やまずの雨』

(1)

「今日も今日とて雨だな」


 まるで覇気のない、感情の伴わぬ淡々とした声が静かに零れた。

 天気が良ければそれなりに明るい長屋の一室だが、分厚い雲が空を覆い、当然のことながらお天道様の姿さえ隠しているこの数日。いや、十日間。室内は明かりを灯さないと暗かった。


 暗くなれば寝てしまえ。魚油は臭くてたまらない。明かりをつけるのはもったいない――


 という精神で、朝は日の出とともに行動し、夜は日が沈めば早めの就寝を心掛けている人々だったが、まさか暗いからと言って昼間っから寝続けるわけにもいかず、さりとて、外働きをしている者たちは降り続ける雨のせいで仕事にならず、物売りを生業としている者たちですら、売り物が手に入らなければ売ることも出来ず。


 それでも、食っていかねばならないと、この雨の中、雨に打たれながら物売り根性を出して売り歩く者は大変重宝がられるこの頃、佐倉さくらが薄暗い室内の中で、恐ろしく何の感情も籠らない淡々とした声音と口調で呟けば、


「そうだな」

 と、楽しそうな少年の声とともに戯作をめくる音が返って来た。


 あえて佐倉が顔を向けなくても、暗がりの中、同居人であるすずめ丸が腹ばいになって佐倉の書いた戯作を読み耽っていることは解っていた。


『外に出られないなら、佐倉の戯作を読んでるからいい』


 そう言ってもらえるのは嬉しかったが、著作が決して多くない佐倉にしてみれば、いい加減読み飽きたのではないのかと思わなくもなく、つい、


「本当に飽きないのか?」


 これまで何度となく繰り返した問い掛けを淡々と繰り返してしまった。


「飽きないよ。全然」

 と、これまた何度となく返してきた答えを返すすずめ丸。

 故に佐倉は不思議だった。

 戯作者を目指し、戯作者となった今でも、それほど売れているとは言い難い作品たち。

 それをすずめ丸は、一言一句違えることなく、諳んじられるほどに読み尽くしているというのに、未だに飽きず暇さえ見つければ改めて戯作を開く。


 本来であれば、暗記してしまっているのだから紙をめくる必要すらないはずなのだが、すずめ丸は暗がりの中、佐倉では絶対に文字など読めない暗がりの中で、一定の速さを保って紙をめくる。

 何がそれほどまでにすずめ丸の心を捉えたのか、作者の佐倉ですら分からなかったが、本人が本当にそれでいいならそれでいいと完結させる。


 室内に、パラパラと物悲しげな雨音だけが静かに響く。

 気が塞いでいるものにとって危険な音だった。

 永遠に開けぬ雨の音。

 失望絶望からは抜け出せぬと思い込んでしまいかねない静かな音。

 いったい誰が泣いているのだろうかと佐倉は思う。

 何が悲しくて泣いているのかと、心の中で問い掛ける。

 暗いならば火を灯せばいいものを、灯すことなく紙を置いた文机の前に姿勢正しく座り考える。


 女がさめざめと泣く姿ばかりが思い浮かんだ。

 怒りを伴う号泣ではなく。

 激情に駆られて慟哭しているのでもなく。

 絶望にむせび泣いているのでもない。

 ただただ悲しみだけがこぼれて落ちる。

 悲しい悲しいと、言葉にならない想いが降り続け、枯れぬ涙は町を濡らす。


 町はどこも水浸しだった。水の層が出来ていた。

 ただでさえ水はけの悪い裏長屋。

 聞こえて来るのは蝉の声ではなく雨音ばかり。

 長雨に対しての不平不満の声も、十日も降り続けば聞こえない。

 気力を根こそぎ奪い去ろうといわんばかりに、悲しみに沈めと言わんばかりに、天上は雨を降らし続け、人々は気力を削がれ――


 ぐぅぅぅ~と、遠慮気味に主張するのは腹の虫。

 唐突に自分の世界から現実に戻され、佐倉は言った。


「腹が空いたな」

「なんだ? どっかに食べに行くのか?」


 途端に声を弾ませるすずめ丸。

 背後で戯作から顔を上げて目を輝かせている様が容易に佐倉の頭の中に浮かんだ。


「まぁ、久方ぶりに食べに行くでもいいが……濡れるぞ?」

「オレは全然かまわねぇよ!」


 降り続ける雨の陰鬱さを吹き飛ばすような明るい声に、佐倉は部屋の中の暗さが若干薄らいだような気がした。


「で? で? 何食べに行く?」


 暗がりの中から、すっかり湿ってくたびれた畳の上に手をついてやって来たすずめ丸の顔が現れる。

 年の頃は十五、六。思わずかき回したくなるようなふわっふわの髪は、とても珍しい雀の羽のような色合い。久しぶりに部屋から出るかもしれないという期待で輝いている瞳は黄金色。

 健康的に伸びた手足は細身ながらしっかりと引き締まり、親を慕う子のように、ぴたりと佐倉の傍に寄り添うように胡坐をかくと、下から見上げるように佐倉の顔を覗き込んできた。


(やはり、退屈だったんだな……)


 ある年齢に達した女人であれば、見上げて来るすずめ丸に対して思うところがあっただろうが、生憎と相手は佐倉。あるとすれば母性ではなく父性。だが、それすら今の佐倉には芽生えぬもの。故に佐倉はただただ静かに見下ろして、いざ口を開こうとした時だった。


「もし。もし。戯作者の佐倉殿はご在宅だろうか?」


 どこか緊張を孕んだ声が室内に流れ込んできた。

 一体誰かと、聞き覚えのない声に二人揃って首を傾げ、どちらさんだい? と問い掛けたのはすずめ丸。

 対して、声の主は答えた。


「できれば、その、相談に乗ってもらいたいんだ」


 それだけで、佐倉にもすずめ丸にも男の要件がどんなものなのか想像がついた。

 無言のままに黄金色の瞳を輝かせ、それに負けぬぐらいに表情も輝かせて、すずめ丸が佐倉を見やる。対して佐倉は静かに瞑目してすずめ丸を促した。


「今開けるからちょっと待ってな」


 嬉々としてすずめ丸が土間に降りて障子戸を開けると、そこには雨笠をかぶり、蓑を背負った若い男が、雨に打たれながら思いつめた顔で立っていた。

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