第27話 月夜に咲くは鎮魂の花 その2『冥府』


 強迫観念とも違う、明確な死のイメージを受けながら、私は動けずにいた。


 側にいる筈のライは姿を消し、時が止まったかのように空間が静止していた。いや、言葉の通りこの場を支配する存在によって、


 緩やかな歩で私に近づく得体の知れない存在。私は指一本たりとも身体の自由が利かず、額に滲む汗もそのままに、自分に迫る死神を見据える事しか出来ずにいた。


(一体何が……?)


 その濃密な魔力のせいで全貌を把握することは出来なかったが、ぬっと伸びる指と思わしき物が私へと近づき、私が動けぬまでも張り巡らせた魔法障壁にその先端が触れた途端、魔力障壁が一瞬にして瓦解し、霧散してしまった。


『ッ!!……貴方は、一体何者なんだ?』


 存在が冒瀆的であり、畏怖を覚えさせるその形容し難い存在に対して、生物としての絶望的なまでの差を感じながらも、辛うじて声を紡ぎ出しその存在へと問い掛ける。


『生者にして魔を宿す不滅の獣よ。我は魂の回廊の護り手にして、冥府の王。即ち、不滅を誅する者である』


 私を見下ろす冥府の王と名乗った存在は宣告を下すかのように黒々と淀み切ったした魔力マナを私へと向ける。


 死そのものを体現したかのような漆黒の魔力マナに私は一切の抵抗を絶たれ、絶命を免れぬと直感する。


 死を感じる刹那、私の魔翼を通じて、新たな声がその場に響いた。それは私にとっては救いの声であると同時に、冥王にとってその動きを止めるに足る存在であった。


「冥府の王よ、その矛を納めるが良い」


 絶界と思われた空間で、泰然自若に世界を嬲らんとするもう一つの存在が、平然と次元を引き裂いて現れると共に、厳かに、そして憂いに満ちた声を上げる。


 その一声に込められた威圧感と、次元を跳躍する魔力量だけで、この場を完全に支配していた冥王がその動きを止めるに足る……。そんな異様な存在が降臨したと言えた。


『暫くであるな、魔の王よ。眷属が為にその身を晒すか』


 次元の裂け目から姿を見せたのは他でも無い、魔大陸をその手中に納め、あまつさえ人族をすら懐柔しようと試みる天地天明、絶対的な覇者として君臨する魔族の中の神性存在、即ち魔王本人であった。


「無論。わが眷属なればこそよ。悪戯に獣を目覚めさせる事能わず。今はただ時を待つが良い……」


 冥王と魔王、二人の魔力は相反するように鬩ぎ合い、その狭間の空隙は歪み、捩じれ曲がっていた。


 ふと、止まった筈の世界に二名の魔力によって舞い上げられた月下草の白い花弁が、ひらりと舞い降りた。


「ふふ、冥王よ。この場所を吹き飛ばすのはお主にも都合が悪かろう。回廊に影響が出れば、人族に対し睨みが利かなくなるのではないか?」


『……よかろう』


 冥府の覇者は互いの力が周囲に与える影響を鑑み、空間を満たそうとしていた魔力をその身に封じ込めた。


『我らは世界の支柱なり。世の理を保つのが役目なれば、努々その義務を忘れるな』


 冥府の王は私に一瞥をくれると、自ら虚空に裂け目を作り出し、その中へと姿を消した。


 その途端に身体を締め付けていた圧力が解け、私の身体に自由が戻った。


 時が止まった空間に残されたのは巨躯を誇る魔王と、私だけになった。


「冥府に取り込まれるとは異な事よのう。人の身にして魔翼を持つ故か、かの獣の力故か、はたまた、かの巫女の導きか、冥府への誘いをその強く身に受けていると見える。ふむ、も既に済ませているか……」


 バザルジードもまたその力の片鱗を抑え、私に静かに語りかけて来た。私が理解出来ない言葉が幾つか出てきた為に意味が取りきれず、彼の言葉にただ頷くしかなかった。


(冥府、獣、対話、一体何を……?)


 筋骨隆々な体躯に細かな魔法陣が刻まれた漆黒に染まった厚手のローブを纏い、その風貌は幾つかの生物を混ぜ合わせたような不気味な相貌であった。


 人の顔に見えるような獅子の顔に見えるような、それでいて悪魔そのものであるような、認識が齟齬を起こしているかのようにして安定しない。


 しかし何故かその魔王が放つ雰囲気は、恰も私の親類であるかのような、妙な親近感を私に抱かせた。


 そしてまた、私が持つ魔翼が持つ魔力の質と極めて近しいものを魔王の魔力からも感じることが出来た。


ひょっとすると彼が私を眷属と呼んだ事と何等か関係があるのでは無いかと疑問が湧く。


「ふむ、暫し待つが良い。空蝉では少々形を取るのに手間取るのでな……」


 自身の顔が安定していない事に気づいてか、魔王は懐から魔力が込められた仮面を取り出し顔を覆い隠した。


 用意が出来たとばかりに魔王は此方に向き直り、繁々と私を眺めていた。


「貴方が、魔王、なのですか?」


「如何にも。我が真正の魔王バザルジードである。お主の時間感覚では久方ぶりであるな」


 ああ、とそこで私は得心する。何故私が魔族のトマムに育てられ、村に置かれたのか。それは目の前の人物による差配であったと言う事だ。


「赤子の私を拾ったのは、貴方でしたか……」


「如何にも。空間を超え我が前に現れたお主は目すら見えぬ程に小さき者であったが、見ぬうちに随分と成長を遂げたように見える。生物の成長とは一様に面白き物よな」


 魔王の顔は仮面で覆い隠されていたが、恐らく笑みを浮かべているのではないかと思える声音であった。


「それで、先程の存在は何なのです? 冥王と名乗っていましたが……」


「ふむ……確かにお主が知り得ぬ疑問は幾つかあろうが、冥府に長く降り立つ事に意義は見出せぬ。語り合いはお主が魔都へ訪れた時に緩りとしようぞ。今は子供らとの時を大切にするが良い」


 バザルジードは私にそれ以上の質問を許さず、魔力を込めて指を鳴らした。彼の魔力が空間に浸透すると静止した世界は突如として動き出し、失われた熱が取り戻された。


 その時には既に魔王の姿は掻き消えており、一瞬の白昼夢であったかのような奇妙な錯覚を味わっていた。


 冷えきった身体に熱が灯ると共に、どっと湧き出すー滝のような汗を改めて全身で感じ、先程のやり取りが現実であった事を今更になって実感し始めていた。


「ラクロア、本当に大丈夫?」


 ライは何度か私に声を掛けていた様だが、返事をしないままであった私を心配気に気遣っていた。


「今の、見えたかい?」


「え? 何のこと? 魔獣でもいた?」


 ライは何も分からないと言うように首を振り私に質問を返す。


「いや、何でも無いよ。大丈夫……、少しこの景色に驚いただけさ」


 ライは怪訝な顔で暫く私の様子を窺っていたが、まあいいかと無理やりに納得したかのようであった。


「んー、まあ問題ないならいいよ。みんな湖の方に行くって、早く行こう?」


「ああ」


 ライの後ろから付いて行きながら、先程の出来事を反芻する。冥府、冥王、魔王、獣、義務……思い返しても言葉だけでは理解が十分には出来ない超越者達に共通の理解、そして私の知らない世界の仕組みが隠されている様であった。


 特に何故冥王が私を殺そうとしたのか、何故それを魔王は阻めたのか。自身の生殺与奪を巡るやり取りに対して疑問が湧くばかりであった。


「魔大陸の首都か……」


 混乱を続ける頭で、魔王バザルジードが治める魔都に行けば何か分かるかもしれないと思いながら、今は出来る限り今回の出来事から意識を逸らす様に努めた。


 そうしなければ冥王によって齎された行き場のない恐怖に押し潰されてしまいそうだった。

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