第19話 ミナレット・ラーントルク
ミナレット・ラーントルクが龍種を初めて斬ったのは、十四歳になった夏の晩であった。
猛烈な血の匂いと共に、人肉を噛み砕く飛竜を見上げ、ミナレットはその時笑っていた。
自らがこれから行う行為は正義以外の何物でもなく、その光景を前にして、自分が何と幸運な星の元に生まれ来たのかと、ミナレットは喜びを隠せなかった。
その一件にて
魔獣殺しは政治に何ら影響を与えない。何の柵もなく、純粋に魔獣に怯える人々を救う事が出来る正義そのものであった。
しかし、それは子供が好む英雄譚で語られる物語の一つの側面でしかない事にミナレットは直ぐに気づく事となった。
騎士という存在は人を護る事を使命とする。しかし人を護る事は決して正義だけによって為される訳ではない。利害関係を加味すれば、良心に背く事も行分ければならない。
魔獣を討伐するような正義の執行だけが己の義務では無いのだと、その事実を知るようになってから彼はその心を殺さざるを得なかった。
今となって、ミナレット・ラーントルクは自分が王国における近衛騎士団長として過ごした時間を誇りに思う一方で、自分が両の手で守れる範囲は決して広くはない事を自覚していた。正義という物は、見方によって、その行為の是非が変わる厄介な産物であると理解していたからであった。
七英雄の血筋であるラーントルク家は人魔大戦以降、人間の護り手としてその力を磨き続け国にその身を捧げてきた。
それが彼らにとっては自然な生き方であり、誇りであった。しかし同時に気が付いた時にはその両手を矛盾が蝕むようになり始めていた。
ミナレットは前国王が弑逆される様を、
前国王のシュタルクはミナレットにとって幼い頃、良く剣の稽古を付けて貰った事もある良き師であり、決して縁遠い人物では無かった。だと言うのに、国への忠義と利益に則りただ、彼が死にゆく様を傍から眺めるだけであった。
ミナレットが被る鉄面皮に一切の動揺は無かった。王国の近衛騎士団長として動揺を見せる事は許されなかった。
けれどミナレットは彼女に会った時、自身の檻に囚われた心を、確りとしまい込んだ筈の心を、どうしようもなく剥き出しにされていた。
「ミナレット・ラーントルク。嘗ての私の騎士よ。貴方は私をも、父と同様に見殺しにするつもりですか? 強く、優しく、正義に生きる騎士は何所に行ったというのですか? 貴方の正義は一体どこに消えてしまったのですか?」
強い、凛とした眼差しを向けられた時に、ミナレットは自らが思い描いた正義を思い返していた。
嘗て、自らの憧憬として胸を焦がし続けた彼女の瞳、その問答から一切逃げる事を許さぬ強烈な意志を持った瞳に射抜かれた時に、ミナレット・ラーントルクは魂を檻から放ち、再び人間として目を醒ました。
この人を護りたい。
そう心が叫んでいた、子供が泣きじゃくるようにな魂の呼び声が身体を芯の底から震わせていた。
「私の正義は……目の前に、貴女と共に、確かに在るのです」
絞り出した答えを前に、ミナレットはオリヴィアという一人の女性を、彼自身の正義から見捨てる事が出来なかった。
国に忠誠を誓い、国王を見殺しにし、人の存続の為に力を注ぐべしと育てられた彼にとって、その行動はこれまでの自分に、そして人魔大戦を乗り越えた先祖に対する反逆であり、侮辱その物であった。
「それでも、私達は良心を捨ててはならないのです。常に自分自身の心に従って生きるべきなのです」
柵は時として人を強くするが、その人間の人生を縛る枷にもなる。ミナレットは選択を迫られた時にそう悟った。
「貴女を護ります。この命に代えたとしても」
嘗て彼が指揮を執り、同胞とした者達に刃を突き立てながら、それでも尚、生涯に渡っても自らの信じる正義を行う為に、二度と過ちを犯さない為に、ミナレットは自分の人生を自らの意志で切り開く事をその心に誓いを立てた。
両の腕で抱きとめた彼女の温もりをミナレットは二度と離すまいと心に正義を灯した。
そう、ミナレット・ラーントルクは、彼は愛すべき人を護る為に、彼の人生を投げ打つ事の出来る男であった。
◇
「かあー、マジかよあいつ」
ミナレットは訓練を終えたラクロアを見送ると、身体を側にあった木に預け、ずるずると地面へ腰を付けた。
「ふむ、やはり末恐ろしい子よな。どうやら体力的にも模擬戦終了後には直ぐに快復していた当たり、全く堪えていなかったようであった。ああ言った存在を正しく魔力の暴力と言うのであろうな」
シドナイも驚いたと素直にラクロアを評価した。ミナレットは先ほどまで平静を装っていたがその実は度重なる戦技と呼ばれる武器を媒介とした魔法の連続発動によって限界近くまで体力を消耗させられており、満身創痍の状態であった。
ミナレットはラクロアが居なくなった今では誰に格好つける訳でもなく、最早立ち上がる気力も既に失っている有様であった。
「ありゃ異常だぜ。俺の戦技も魔翼に傷一つとして付けられなかった。それになんなんだ、あの魔法障壁の分厚さは。俺の剣だったからこそ障壁突破までは出来たが、恐らくあのまま突ら貫いていたとしても
ミナレットが用いた長剣はその簡素な装いに似つかわぬ細工を施された特別な一振りであった。剣芯に特殊な魔石を用い、触媒となる鋼は魔力伝達に優れたミスリル鋼を用いて特別に鍛造された物であった。
この剣は魔力を流し込む事で魔法術式を発動を可能とする、いわゆる魔剣として分類される武器であった。一般的に魔剣は人間の扱う武器の中でも上位に位置付けられ、特に過去から現在まで伝えられる名工ラスタニス・ランカスターが手掛けた魔剣については、その剣一本で王都に家が立つと言われる逸品であった。
ラクロアの魔翼を跳ね除けたのもこの魔石に込められた魔法術式の効果であり、一度の斬撃で視認する物体を同時に切り伏せることが出来るという、対人戦であれば反則級の能力を秘めた、正真正銘の魔剣であった。
「名工ラスタニスの一振りか……。あの七英雄も持ち合わせた業物であってもラクロアを御しきれぬか」
「真名解放無しでは、今の俺の力ではあれが限界だな。全盛期であれば分らないが、既に実戦から放れて十年が経つからな……。だが、魔族のあんたならやれない事も無いだろう?」
「最早二年以上前に見た幼子とは違う故に、先日の手合わせでも本気は見せていなかった事を鑑みると……ふふ、やってみなければ分からぬが、楽しみではあるな」
シドナイは楽しそうに喉を鳴らしながら、どのようにラクロアを育てるかを思案しているようであった。
「全く、人族の限界ってやつをまざまざと見せつけられた気分だが、それだけにラクロアがこの世界をみ知った時に何を思うのか。ここで育った事を糧にして欲しいもんだがな」
「そうであるな。ラクロアが我ら魔族と人族の架け橋となる事を祈るしかあるまい」
シドナイはミナレットに手を差し出し、ミナレットはそれを握って疲れ切った身体に鞭打って立ち上がった。
ミナレットは何の気無しに空を仰いだ。そこには雲一つない蒼穹が広がり、太陽が燦々と照り付けていた。また夏が来ると、ミナレットは村で過ごす幾度目かの季節に想いを馳せながら、遙か遠くに造られた魔族の首都へと続く道程を思い描いていた。
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