第11話 長老バニパルスは語る


 私はノクタスとの訓練を卒業してから、暫くは自由な時間を与えられた。


 私はこれまで日課となっていた訓練を一人でも欠かさずに続ける事としていた。魔力操作の基礎的な修練と魔翼の操作、そして魔法術式発動の速度向上の為に精を出していた。しかしそれは努力、と言うよりは暇潰しに近いルーティンであった。


 実のところこれまで訓練の合間を縫いながら夜な夜な読み進めていた全三十巻に及ぶ魔族の歴史書は既に読破し終えており、魔王が敷く立憲君主制の実情が私の中で露わになり始めていた。それと同時に、魔族によってこれまで試みられた人族との宥和政策についても――魔族側からの一方的な見解ではあるが――紐解くことが出来るようになっていた。


 私にとっても驚きだったのは、ほんの三十年程前まで魔族はシュタインズグラード公国と交流を持っていた事実が綴られていた事であった。


 その実態は魔王と王国の国王との定期的な会談であり、メライケ大森林を超えたロシュタルト砦がその会談場所であった。


 数年置きに開催されていた会談は主に魔族側が人族の政治状況等を情報収集する為に用いられていたようで、情報だけではなく、時として交易に近い形で当時の王国と遣り取りが為されていた事が密に記されていた。


 魔族は王国が持つ技術力と、人族の文化的な指標となる物品を好んで取引していたようで、豪奢な刺繍等が装飾された民族衣服や魔術的要素が込められた装飾品等、様々に取引が行われていた事が図解と共に歴史書には記されていた。一方で魔族は魔大陸で獲れる鉱物や魔石と言った天然資源を取引材料としていた様であった。


「ラクロアや、今日も早くから精が出るのう」


 不意に私に声を掛けてきたのはこの村における人族の長老を務めていたトーレス家出身のバニパルスであった。


 齢六十を数え、この村で生まれた一代目の世代である事も有り、魔族、人族どちらからも信頼の厚い人物として扱われているのを聞き及んでいた。


 彼は長老としてこの村の歴史を口伝形式で語り伝える役目を持っていた。勿論バニパルスは文字を書く事が出来たが、自分が生きている内は自ら子供達と向き合い語り聞かせる事に意味を見出しているようで、私もここ最近では良く彼の話を聞くようになっていた。


 現状トリポリ村に住まう人族は、バニパルスにとって曽孫世代まで存在しており、バニパルスは良くその世代の子供達を集めては過去にあった出来事を物語を諳んじるようにして伝えていた。


「おはようバニ爺。今日はどんなお話を聞かせてくれるんです?」


 バニ爺と言うのは、彼の血族として直系に当たる曾孫のライ・トーレスという私と同年代の少女がバニパルスの事をそう呼ぶ事も有り、その呼び方が定着したものであった。長老に対して子供達が砕けた付き合いが出来るのもバニパルスがそうした距離感を好ましく感じているからであった。


 実のところ私は彼が語る村の歴史を楽しみにしていた。彼の語りはただの物語では無く、彼の生き様其のものであり、同時に村の歴史に誇りを持っている事を窺わせるものであった。そこには愚直に誠心誠意、日々を生き抜いてきた人間が見せる魂の輝きが存在していると言って過言では無い。私はつまるところ、彼が見せるその輝きに惹きつけられていたのであった。


「ほっほっほ。ふうむ、そうじゃな。時には儂からの一方的な語りではなく、お主の聞きたいことに答えるとしようかのう」


「じゃあ、三十年前に魔王が人間の国王と会った時の事って覚えてる?」


 それであればと私は歴史書に記載されていた中でも、魔族と人族との人魔大戦以降の関わり合いについて情報が欲しいと考えていた事もあり、当時の交流について聞いてみる事とした。


 私のその質問は想定外であったのか、バニパルスは白髪となった長い髭を撫ぜながらどうしたものかと少し迷った様子を見せた。


「ほう、その話を知るという事は既にトマムから歴史書を供与されたという事じゃな? ふむ、まあ良いじゃろう。しかしラクロアよ、決してこの話を他の子らが成人を迎えるまでは話さぬと約束出来るか?」


 バニパルスはいつになく真剣な面持ちであった。それは歴史を語り聞かせる時に見せる好々爺とは違う、どことなく恐れや躊躇いを孕んだ人間の顔つきであり、その話が決して心地の良い物では無いのだと私は直感していた。


「ええ。その点については約束します」


 私もまた五歳児らしからぬ言葉遣いを用いて応えた後に、居住まいを正した。それを見たバニパルスは、うむと頷くと滔々と当時の出来事を語り始めた。


「わしがまだ三十も半ばの齢であったときじゃな。当時の国王であった、シュタルク・ベルクロイ・クラード・サウダース三世と魔王バザルジード様の三度目の会談であった。それまでは魔族側からの会の出席者は魔族のみであったが、三度目にして初めてこの村に住う人族を連れて王国との会談に臨んだのじゃ」


 バニパルスは懐かしそうな、そして切なそうな、どちらとも取れる表情をその深く刻まれた目尻の皺をより一層深くしながら、かつての記憶に想いを馳せているようであった。


「儂は当時の長老であった父、サルファ・トーレスに連れられてその場に赴いた。私は側に控えるだけであったが、父は魔族の事、村に住う自分達の事、如何にして人魔が共存可能であるのかを、あるがままを語った。その時に国王が見せた驚愕の表情は未だに覚えておる。今思えばかの国王が見せた驚愕は、宥和に向けた歩み寄りへの理解ではなく、人族を支配する魔族という通り一辺倒な考えを強めるだけであったのかも知れん。あの会談を最後に魔王と国王の会談が開かれる事は無くなった。伝え聞くところによるとシュタルク国王は謀反によってその王位を追われ、新たな国王による治世へと変わった事も一つの要因であろうな」


「それが会談が途絶えた原因として、それまでの間は会談を続けてこれたとすると、当時の国王は何を基に会談を続けていたのでしょうか?」


「敵情視察、そう考えるのが妥当かのう。当時の国王は魔族がどれほどの脅威となるのか確りと見極めたかったのじゃろうなあ。人間の歴史書の中にももしかすると何か記述が残されているかもしれんが、あの反応を見るからに決して友好的には描かれてはおらんじゃろう」


 ああ、私はバニパルスの話を聞いて彼が何故私にこの話をする事を躊躇ったのか理解が出来た。


「バニ爺さんが他の子供達にこの話をしないのは、人族が魔族を相変わらず恐れている事を知って欲しく無い……というよりも、僕たちが人族の中でも異端であるという事を隠したいから?」


 私の言葉を聞いてふぉっふぉ、とバニパルスは寂しそうに笑った。


「上手く隠そうとしても、隠しきれぬものよのう……。そうじゃ、かの皇帝は父へ、そしてその場にいた私へこう言ったのじゃ『人間でありながら魔族に恭順する裏切り者共よ。その神をも恐れぬ振る舞いはやがて業火によって罰せられるであろう。我々人間は人の尊厳を守るために生まれ、そして死ぬ。この場で我が剣に掛からぬ事を心から安堵するがよい』とな。そう、人間にとって我々は裏切り者であり異端者なのじゃ。我々は人間世界に馴染め無かった。追放された流浪の民の行末として、魔族との宥和を選んだに過ぎない。高潔な意思ではなくただ生存本能に従った、そうした思いを未だに拭えずにいるのも、また事実なのじゃ」


 バニパルスはどこか吐き出すように語ると、自分達の在り方を悔しそうに噛み締めていた。しかし彼の考え方は必ずしも万人の考えとは異なると、私は感じていた。


「僕は当時の事は確かに知らない。人族、人間の多くは僕達に対して未だに忌避感を覚えるのかもしれない。けれど、僕たちは現にこうして魔族と共に生きている。それも魔族による支配とは全く別の形で彼等と共生している。種族を超えた関係をこの村の人達が連綿と積み上げてきた歴史、それを僕はバニ爺を通して知る事が出来た。僕は何よりもその事を誇りに思うよ」


 そうかと、その時漸く私は気がついた。この老人が語る言葉の端々から感じる思いの丈は、『魔翼』を持つ私自身が既に抱いていた想いと、どこか似た物であると。異形の者たちが宥和を以て生活を営むこの世界が如何に理想的な形であるのか……その実現の難しさを識るが故に私は彼に尊敬を抱かずにはいられなかったのだと。


「うむうむ。そうじゃな。その通りじゃな」


 バニパルスは自分に言い聞かせる様に頷くと、今まで通りの穏やかな表情に戻り私の頭を軽く撫でた。


「いつかお前さんにも選択の時が来るじゃろう。その時まで、その気持ちを大事にしておいてくれると嬉しいのう」


 バニパルスは私の元を後にすると、その姿を見た何人かの子供達に再度捕まり何処かへと連れて行かれていった。同じ年頃とは言えど、精神年齢的には彼等よりも成熟しているであろう私にとって、無邪気にはしゃぐ子供達の行末に幸多くあらん事を、今はただ祈らざるを得なかった。

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