大作家への道程

松長良樹

大作家への道程


 ――大都会東京の片隅に鹿沼巧かぬまこうと言う名の作家志望の青年がいた。

 

 巧は作家になる事を夢見る真面目でとても熱心な青年だった。彼は物心つく頃から漫画を読み始めたが、文学に目覚めたのは小学四年の頃で内外のミステリー小説が巧の最初の興味の対象であり、最も面白いと思った読み物の一つだった。

 

 しかし完璧主義である巧はそれらを夢中で読んだが、なかなか書く事が出来なかった。まだ自分はものを書く力量がないという思いが巧にはあった。だから巧はひたすら様々な小説を読み漁った。

 時は過ぎ、巧は一流大学を首席に近い成績で卒業した。巧の家系は旧華族とも深い関わりのある裕福な一族だった。


 大学を卒業した巧はまず、小説を書くにはそれなりの場所が必要だと考えた。周りが静かで神経を集中できる環境こそもの書きには大事だ。と巧は考えた。

 そこで巧は東京を離れ白樺の美しい軽井沢に書斎を設けた。巧の父は実に寛大な人で巧が作家になりたいと言うと「そうかそうか、それも良かろう」と言って援助を惜しまなかった。それを嬉しく思った巧は父の為にも大作家になってやろうと心密に誓った。


 巧は小説には書き方があると考えた。どんなものにも作法があるように文章にも作法があるだろうと推測した。まあ、学校の授業のおさらいのようなつもりで文章作法関連の本を沢山買い込み、日夜勉強した。


 次に巧は小説を書くにはストーリー性・どんでん返し・伏線・起承転結。これらが非常に大切な要素だと改めて考えた。そこで小説の書き方についての本を沢山買い込んだ。それぞれが微妙に違うのでどんどん本を買い漁り、気がつけば膨大な本の山が出来て家の中は本の倉庫と化した。


 ある程度の納得が出来たので机のパソコンのキーボードにむかったが、そこで待てよ、と又考えた。優れた小説を書くのなら、やはり優れた文学を完璧に読んでおく必要があるのではないかと。

 

 そこで巧は世界文学全集を読み出したが、それは永く膨大な時間を要した。そのうち巧はこれは一生をかけても読みきれるものではないと悟った。

 仕方なく巧は日本文学全集をまた読み出した。そして純文学も良いが大衆小説とて馬鹿に出来るものではないと考え、大衆娯楽小説を読み耽った。

 

 気の遠くなるような年月が流れた。SFも異世界ファンタジーもホラーもハードボイルドもミステリーもその中に入っていた。青年だった巧はその頃にはもう中年になっていた。

 そしてやっとある程度の自信が出来たので机のパソコンのキーボードにむかった。

 

 しかし巧は又考えた。小説を真剣に書くのなら、それを裏付ける知識を習得しなければならないと――。

 

 そこで巧は学者のような勉強を始めた。政治経済から始まって、物理化学・哲学・心理学・随筆・能楽・古典・芸術、それは多岐に渡り、興味の対象はとどまるところを知らず、占星術・易学・兵法書・妖術・忍術にまで及んだ。

 この頃から巧の眼つきは常人の域を超え始めた。究極のオタクと化し、脳は肥大していた。


 その頃の巧は輝くばかりの美しい白髪をなびかせ、鶴のように清く痩せた老人だった。老年のゲーテ、リスト等を髣髴とさせる荘厳ともいえる面構えだった。


 それから又、長い年月が経過した頃に巧は形而上学に興味を持ち始めた。ついに巧は聖人か、或いは仙人のような風貌を持つようになっていた。霊性を帯びた深い表情はもはや誰にも追従できない神に近いものだった。


 あるとき巧は無言でどっかりとパソコンの前に座った。はたして何台目のパソコンであるかもわからないが、巧は眼を閉じ座禅でも組もうとする体勢であった。


 そして長い時間眼を閉じていたかと思うと両眼がかっと見開かれた。その眼差しには鬼気迫るものが宿り、ついに巧の脳内に流れるように文章が湧き出してきた。

 

 汲んでも汲んでも尽きないような、優雅で繊細で流麗な文章の束。巧の身に言霊が降りてまるで身体が打ち震え、涙さえ溢れ、興奮で呼吸さえ苦しい。

(さあ、今こそ書こう!)

 

 そう思って巧はその指をキーボード上に持っていった。そしていよいよ文字がパソコンのモニターに躍るかと思われたが、巧の身体は既に極限までに衰弱していた。長い年月は巧の肉体を確実に老化させていたのだ。

 

 まるでミイラのようだった。いや、まったくミイラそのものだった。

 

 ――もはや巧の干乾びた指にはキーボードを押す力は残されてはいなかった。


 窓の隙間から風が吹き込むと、巧の身体はその場に砂のように崩れ落ち、ちりのごとく宙に舞った……。



 ああ、鹿沼巧はこれほどまでにして、ついに何も書かずに死んでしまったのだろうか?


 いや、それは違う。巧は今でもものを書こうとする人の背後にいる。そして言霊ことだまとなって、もの書きの心に忍び込み、彼らの背を押す。さあ書けと。声のない言葉で密かに声援を送り、彼らにものを書かせようとするのだ。


 ――鹿沼巧は必ずしも死んではいない。決して死んではいない。




               了


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大作家への道程 松長良樹 @yoshiki2020

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