第6話 時の移ろい


 暗くなった部屋の中で、明かりもつけずに、ただ椅子に座っている。

 背もたれに体を預けると、そっと目を閉じて、思いに耽った。






 中学校へと上がる前の春休み、僕は一目ぼれをした。

 焼けるような夕日を受けて、はらはらと桜の舞い散る中で、その女の子はため息の出る様な美しさだった。

 だから僕は、翌月その女の子がクラスに転入してきた時には、とても驚かされた。


 彼女と一緒に過ごせた時間は、今でも僕の中で、ずっと色褪せずに残っている。

 一緒に花火をした夜は、まるで夢のような時間だった。

 暗闇に映える色鮮やかな火花は、彼女の優しい笑顔を照らし出し、白煙に包み込まれた二人きりの空間は、全ての波が共振し、幻想的な美しさで満たされていた。


 あの時の僕達は、間違いなく重なり合っていた。






 約束の時間になっても、彼女は現れなかった。

 花火が打ち上がる度に、僕の心が掻き乱されていったのを良く覚えている。

 慌てる僕を見た両親は、とても驚いていた。


「上野さんは、急に引っ越す事になったって言っていたよ。寛太には、さくらちゃんが直接伝えるから黙っていてくれないかって――もしかして、何も聞いていないの?」


 お父さんの言葉を聞いた僕は、全身の力が一気に抜けていくのを感じて、フラフラと自分の部屋に戻っていった。

 その後の事は、あまり覚えていない。

 僕の世界は、その日からひどく色褪せたものになった。






 夏休みが終わっても、彼女の姿は当然見当たらなかった。

 スマートフォンなど存在しなかった当時は、家の電話や手紙でやり取りをするしかなかった。

 僕の傷ついた心では、受話器の重みになど到底耐えられなかった。

 紙コップに書かれた桜の花びらを撫でながら、この糸電話が彼女の元にまで繋がっていれば良かったのに、と何度も思った。

 

 手紙をやり取りする中で、彼女は何度も謝ってきた。僕は、自分の想いを何度も綴った。

 やがてそのやり取りも日を置く様になり、一月、二月、数ヶ月、そして一年経っても返事が来なくなった。


 僕の初恋はうたかたの様に儚く消えた。






 高校生になった僕は、告白された相手と付き合ってみる事にした。

 同じ場所で、同じ時間を、一緒に過ごしているはずなのに、どこかちぐはぐな感じのままだった。

 そして、私達って何だか合わないみたい、と言われてすぐに振られた。


 心地良く鼓動が共振する相手は、そうそう見つかる事がなかった。


 大学生の時に付き合った女性とは、部屋の掃除をしている時に大喧嘩になった。

 古びた絵馬を捨てようとした彼女に対して、僕が声を荒げたからだ。

 過去を引きずったままのあなたは憐れだ、と言われた。同時に、私ではあなたを満たしてあげられないとも言われ、それきり連絡を取り合う事は無くなった。


 そして先日、ついに交際相手の女性から、あなたの顔が見えてこないと言われて、僕は自分の存在を否定された。


 思い返せば、僕という人間は中々ひどいものじゃないか。

 自分の事は棚に上げて、相手に初恋の幻影を重ね続けていたのかもしれない。

 最近ではもう、自分がどこへ向かっているのかすら、全く分からなくなっている。


 部屋の中に、重たく響く音が流れ込んで来た。

 今年もこの季節が巡って来たようだ。


 電気スタンドのスイッチを入れた僕は、少し目を細めた。

 羽虫がはらはらと光の方へ吸い寄せられていく。

 

「ははっ……」


 まるで僕みたいだ、と思って自嘲気味に笑った。

 光を受けてたゆたう羽虫を見ながら、どこか懐かしい光景が脳裏をよぎるが、僕はすぐさま頭を振ってそれかき消す。

 そして重い腰をあげると、机の上にある古びた紙コップと絵馬を、棚の奥へと丁寧にしまった。






 外は人で溢れ返っていた。

 花火の音が響く度に、人の波がうごめき、歓声をあげながら興奮が伝播している。

 その中にあって一人孤独な僕は、世界から取り残された異物の様だ。

 打ち寄せる波が岩を浸食していく様に、人々の喧騒が僕の心を少しずつ削り取っていく。


 この並木道から見える風景も、最近はすっかりと様変わりした。

 時の移ろいを感じながら、人の群れに飲まれていると、どことなく聞き覚えのある声が耳に飛び込んで来た。


「昔ね、このあたりに少し住んでいたのよ」

「へぇ、そうなんだ」

「でも、実際に見に来るのは初めてなの」


 重たいまぶたが一気に持ち上がり、視界が大きく開けた。

 僕は必死になって声の出所を探す。

 すると見覚えのあるような、ないような顔をした女性が、男性と仲良く手を繋いでいる姿が目に入った。


 ――それもそうか。


 あれからもう十年以上が過ぎている。


 出会ってすぐに、恋をした。

 惹かれ合って、重なった。

 その瞬間から僕達は、きっと別々の方向へ進もうとしていただけなのだ。

 そしてもう二度と交わる事はないのだろう。


 僕は憑き物が落ちた様に、気持ちが晴れ渡っていくのを感じた。

 心臓が時を刻む様に、力強く脈動を始める。


 夜空に打ち上がった花火は、いつもより少し色鮮やかに見えた気がした。



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夢幻泡影 秋山太郎 @tarou_akiyama

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