ある嵐の日に
薄暗い夜道を歩いていた。
街灯の暗がりで足元は見えず、歩道橋に似た階段を迷いなく登っていく。
その先にあったのは鉄格子と、淡い色をした扉が1枚。
格子戸を開け、淡白な扉も開けば、その先には明るい廊下が続いていた。
左右には部屋が並び、そこには人の気配がある。
僕はゆっくりと歩きながら、それぞれの部屋を覗き込む。
3~4人が過ごせる病室になっていて、どこもベットは埋まっていた。
一階ずつ階段を使い、各部屋の様子を僕は見渡していく。
『先生、こんにちは』
背後の声に振り向けば、小さな女の子が僕に手を振っていた。
気付いていなかったがこの『回診』は、僕一人ではなく何人かのスタッフと一緒らしい。
『こんにちは、具合はどう?』
『先生、あのね。いつもありがとう』
女の子はそう笑顔で僕に言い、すぐに後ろを向いて僕の元から走り去っていった。
あの子の名前は、確か……、
「ひふみ、危ないよ」
「……!」
両肩を強く掴まれたことに驚き、前に進みかけた足が止まった。
横断歩道の手前、信号は青だが点滅している。
「歩きながらは危ないね、今度からは座れる場所とか探そうか」
「あの子の名前、僕は知ってる……」
「え? あの子って?」
変わりかけた信号の手前で止めてくれた雄也は、横断歩道の向こう側に誰か知り合いが居るのかと視線を送った。
向こう側には誰も居ないと分かったようで、車が横切る道路から僕へと視線を戻す。
「……何が見えてたの?」
「病院だった、たくさん人がいて……でも、僕にはまるで、牢屋みたいに感じたんだ……」
「牢屋みたいな病院……? そこに、名前を知ってる子が居たの?」
「そう、あの子の名前は……、あれ、えっと……」
僕は知っていると感じた名前を口から出そうとしたけれど、既に記憶から霞んでしまい、その子の顔すら思い出すことが出来なくなっていた。
「無理に思い出すことはないよ」
「そう、だね……うん」
「…………」
「たくさん、患者さんが居たんだ……僕はそこで、みんなの事を診てた……診てる側だった……」
思い出せそうな感覚に記憶を探っていたが、雄也は咎めるような目で僕を見つめてくる。
何か大切なことを忘れているような気分で、どうにも心が晴れない。
僕の憂鬱さを知ってか、雄也もそれ以上は止めてこなかった。
「牢屋みたいって、どうして思ったの?」
「……病院の入口のドアに、鉄格子があったんだ。患者さんは自由に出られないんだと思う」
「鉄格子? 刑務所みたいな?」
「ううん、相部屋だったし、子供もいた……」
「そっか。じゃあ、精神科かな?」
「わからない……そうかもしれない……」
僕は道路を走る車が止まり、信号が青になるのを見て歩き出した。
雄也も僕に続くようにして横断歩道へと進み出す。
現実に紛れた幻想の世界は、いつもと違って何か大切なことを伝えようとしている気がしてならない。
けれども、意識がはっきりとしてしまっている今、その断片的な情景はほとんど霞みの向こうだ。
空想の中で僕は、確かに診る側だった。
医師としてあの病院を歩いていた。
でも、僕はなんの医師だったんだろう。
あの子は、退院できたのだろうか……?
「ひふみ? 大丈夫? 起きてる?」
「起きてるよ……どうしても気になるんだ、あの子が元気になったのか……」
「……どんな子?」
足取りがおぼつかなかったからか、雄也はそっと肩に手を乗せながら起きてるか聞いてきた。
少し顔を寄せ、小さい声で優しく囁かれている。
……空想の世界にいる僕にも、いつも同じように優しく聞いてくれているんだろうか。
まだ見ていた景色の事を考えていると知ってか、雄也は少し口を尖らせた後、そう聞かれた。
「小さい子供。幼稚園か小学校低学年くらいの女の子。元気そうだったんだけど、どこが悪いのか分からなかった」
「え? あ……なるほど、ふーん」
雄也が想像していたものとは違ったのか、きょとんと目を丸くした後、視線を僕から外してどこか遠くを眺め始める。
何か考え込んでいるように見えたから、話し掛けないでおくことにした。
今日は休日。雄也に誘われて曇り空の中、傘を片手に最近できた喫茶店へ向かっているところ。
雄也にも雨が降るかもしれないと伝えたが、俺は大丈夫と言って小さいボディバッグ1つだけ。
雲行きは怪しいけれど、雨の前にするあの匂いはまだ感じられなかった。
――……
出会ったばかりの頃は、休日と言えば一緒に図書館で過ごしていた。
ひふみはずっと童話の初版ばかり読んでいて、俺はずっとひふみの『幻』の正体を探していた。
もちろん今でもその答えを求め続けている。
珍しい精神疾患の可能性を視野に入れ、最初は図書館の書籍だけだったが、医師の書いた論文にも目を通し、最近では時間をかけながら外国の論文も訳して読んでいる。
ただ、本人の目の前で調べるという事はしていない。
最初は俺に興味すらない様子だったが、最近は俺がひふみを観察しているのと同じように、よく様子を見てくるようになった。
ひふみの疾患についての文献を探している事を知られたくなかった。
本人には幻想的で好きだと伝えているのに、『病気』という角度から文献を調べているというのを、どうしても秘密にしていたい。
これは俺なりの思いやりの心と、酷い罪悪感だ。
似たような症例はいくつか見付けてはいるが、ひふみ本人から詳しい『自覚症状』を直接聞くようなことはしたくなかった。
だから、どんな時にこうなるのか、こうなる前後はどんな様子なのか、近くでずっと経過を観察し続けて来た。
こうやって休日に連れ出すのも、一緒に過ごす良い口実になってくれている。
……本当の口実は、どっちなのだろうか。
『あの子を知っている』と聞いてざわついた心を落ち着かせるために、わざわざこんな事を改めて思い返しているのだと思うと、自分の大切な軸が振れてしまいそうだった。
幻想的で好きだ、それは確かに嘘じゃない。
でも、どうしてもその幻想の正体が気になって仕方がない。
ひふみの事をもっと知りたい。
どんな精神疾患なのか解明したいという欲求は、幻想の欠片に触れて心を動かしている俺の背中に、いつでもぴったりと付いてきている。
いっそ、聞いてしまおうか。
どんな症状があるのかを。
「雄也、紅茶で占いができるって知ってた?」
「……え? そうなの? 面白そうだね」
砂糖とミルクをタップリと入れたミルクティーを飲みながら喫茶店に並んでいた雑誌を眺めるひふみは、俺が考え込んでいる事には気付いていなさそうだった。
ひふみが見下ろしているページには、紅茶についてまとめられた記事が載っているらしい。
「紅茶のカップをひっくり返すんだって……お店では出来ないね……」
「店員さんに変に思われちゃうかもね」
「うん……やってみたいな……」
残念そうに呟きながら周りを見渡し、恨めしそうに自分の手の中にあるカップへと視線を落とした。
仲が深まる前は想像していなかったが、ひふみはいろんな物に興味関心を持ちやすい。
些細な事にも目が向くようで、街を歩いていて風変わりな物をよく見付ける。
子供みたいに小さく指で差して、変わったものを見付けたと俺に教えてくれるんだ。
ひふみは雑誌を俺の向きに直して、紅茶の占いについて書いてある場所に人差し指を添えた。
紅茶を飲んだ後ソーサーの上にカップを被せて水気を落とし、カップの底に残った茶葉の形が何に見えるかで占うらしい。
俺は心理学科である程度の事を学んでいたからか、茶葉がカップの底で模様になっている写真を見た時に『ロールシャッハテスト』を思い出した。
インクの染みを見せて何に見えるか、どんな言葉を使うかを聞いて診断をするテストがある。
占いらしい不思議な手順があるが、模様から感じるものを答えるというプロセスが似ていると感じた。
「よし、やってみよっか」
「うん……え?」
「自分の部屋にカップ置いてある?」
「ま、マグカップならあるけど……」
「茶葉の紅茶は?」
「確か、ティーパックのなら……」
考えている事は、2つあった。
ひとつは、これを利用してひふみの診断をある程度できるのではないか、という探究心。
それは精神疾患の紐解きに役立つ可能性がある。
もうひとつは、ひふみがやりたいと言ったことを、ただ純粋に一緒にやりたいと思った。
それに、疾患というのを抜きにして、単純にひふみについて知りたいという気持ちもある。
……疾患について探りたいという考えがある以上、純粋と言うには少し汚れているかもしれない。
俺の突然の発言に困惑しているのか、ひふみは不思議そうに首を傾げながら部屋にあるかを思い出してくれているようだった。
「俺もやってみたくなったんだ。この後はひふみの部屋に行ってもいい?」
「え、だ、ダメだよ……! 恥ずかしいよ、掃除できてないし……!」
今までひふみの部屋には行った事が無いから良い機会だと思ったが、ひふみは顔を赤くして首を横に振った。
断られると思っていなかったのもあって、俺は落ち込んだのを上手く隠せていなかった。
「……そうだよね、急にごめん」
「ら、来週にしよう……? ちゃんと掃除しておくから……あと、せっかくなら美味しい紅茶も買いたいし、それに、お菓子も今は、なにも無くて……」
ひふみに気遣わせて申し訳ない気持ちもあるが、嬉しい気持ちも確かにあった。
断られたくらいで落ち込んでたらいけないと、気を取り直していつも通り笑みを浮かべる。
「わかった。何か甘い物を買っていくから、紅茶頼んでもいい?」
「う、うん……」
「ごめんね、突然無理なこと言って」
「ううん……その、……」
ひふみはまだ顔を赤くしたまま視線を彷徨わせ、その後は俺の手元へ視線を落とした。
「い、家に友達が遊びに来るの、今までになくて……初めてなんだ、その……」
「そうなんだ」
「なんか、今から緊張する、ね……」
今まで友人が居なかったという話を思い出し、俺は俯かせてしまったひふみから視線を外した。
悪い意味で俯いている訳では無いと分かってはいるが、俺はなぜか申し訳なかった。
ひふみはそれから帰り際までそわそわしていた。
普段ならもう一度くらいは幻を見るのだが、なぜかずっと意識を持っていて、俺は紅茶を飲むのかとか、好きな香りはあるのかとか、珍しく様々な質問をされていた。
俺は幻を見始めない事に違和感を持っていて、もしかしたらひふみに変な態度を取っていたかもしれない。
普段はあまり動揺している素振りはないが、何か落ち着かない様子で視線を酷く揺らしていた。
俺達は寮生で帰る先は同じだが、寮の門の手前でひふみは用事を思い出したと言って街の方へと戻って行った。
暗くなるから今度にした方が良いと言ったが、振り向きもせずにその背中は遠退いていく。
大きな声で何度か呼び掛けても、戻ってくることはなかった。
夕食の頃に連絡を一通だけ送ったが、忙しくしているのか返事は無いままだった。
明日、少し早めに起きてもう一度連絡を入れよう。
そう思い電源を落とし、明かりを消してベッドに潜り込んだ。
眠りに落ちかけていた頃、スマホの着信音で目が覚めた。
うるさいバイブレーションに慌てて手に取り、重い瞼を開いて画面を見る。
そこには2:36の表示と、ひふみからの通話着信の表示だった。
普段は俺への連絡で通話だった事は一度もない。
「ひふみ? どうしたの?」
『ーーーー』
通話ボタンを押してそう呼び掛けたが、ノイズが酷くて何を言っているのかが聞き取れない。
カーテンに僅かな隙間があり、街灯の薄明かりの中で窓に付いた雨の雫が複数落ちていくのが見える。
土砂降りの雨の音のせいで、ひふみの声が掻き消されているらしかった。
「今から行くよ、何棟だっけ……?」
『……Bーー7……5』
「わかったB棟ね」
部屋の番号は聞き取れなかったが、そのまま立ち上がって何も持たずに部屋を出ていった。
寝静まっている廊下をなるべく急ぎながら静かに通り過ぎ、自分のいるD棟の玄関を出る。
傘を忘れたことを思い出した。
それと同時に、酷い雨の中を傘も差さずこちらに歩いてくるひふみが視界に入った。
「ひふみ、どうしたの……ずぶ濡れだよ?」
「思い出せない……思い出したのに……」
「…………」
昼間に一度聞いた、あの子の事だろうか。
俺はひふみの手を掴み、玄関の中へと引き入れる。
雨のせいで気付かなかったが、どうやら泣いていたらしい。
「思い出したって、あの子のこと?」
「違う、違うんだ……あの子だけじゃない……」
「……何を思い出したの?」
そう問い掛けたが、返事を期待してはいなかった。
立ち尽くしたまま雨と共に涙を零しているひふみに何もしてやれない悔しさから、言葉だけでも掛けていたかっただけだった。
幻想世界と実在論 ソフィア・フレデリクス @noctem_venandi
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