ある日の夕暮れ
「ねぇ、ひふみ? ねぇ……そろそろ帰ろう?」
かれこれ1時間はこうしているだろうか。
俺の親友、葉落 陽文は大学の講義後の黒板を見つめていた。
講義が終わった後、講師が乱雑に黒板消しで白く汚した黒板には、なんの文字も図式も書かれていない。
それでも何かを読み取ろうとしているかのように、ひふみは眉間に皺を寄せてそれを睨み続けている。
なんにもない場所を眺めながら動かなくなるのは、ひふみの悪いクセだ。
目を開けたまま夢を見ている……あるいは、ここじゃないどこかの世界の光景を、独りで垣間見ている。
出会った時からこんな具合で、何が見えていたのか後で教えてもらうのが俺の楽しみだ。
邪魔をしたくなくて、普段ならひふみが俺の居る世界に戻ってくるまで何もせずに待っていた。
だが、そろそろ部屋を出ないといけない。
受けていた講義は六限目、もう締め出されてもおかしくは……、
「……どうしたの、烏丸くんと葉落くん?」
「あ、先生」
「鍵を掛けに来たんだけど……おじゃまかな?」
後ろの扉から聞こえた足音に振り向けば、さっきまで講義をしていた講師が戻ってきていた。
臨床心理学講師の雨宮先生だ。
「すみません、ひふ……あ、葉落くんが……」
「具合でも悪いんです?」
「えっと……」
ひふみが人知れず別世界を見ている事は、おそらく誰にも知られていない事だ。
俺はそれを話したいとは思えなかった。
……せっかく俺だけが、ひふみの見ている世界を教えて貰える、唯一の親友なのに。
他の誰にも、教えたくなんかない……。
「葉落くん、葉落陽文くん?」
「…………」
先生はひふみの前に回り込んで、肩を掴んで軽く揺すり始めた。
俺は慌てて立ち上がり、ひふみと先生の間に入り込む。
「あの! 大丈夫です、僕たち今すぐ帰りますんで!」
「え? でも葉落くん、なんか様子が変……」
「ほんとに大丈夫です!! ほらひふ……葉落、帰ろ……!」
ひふみの見た目通りに細い肩を両手で掴み、無理やり立たせて引きずるように教室から出た。
背後から雨宮先生の呼び止める声が聞こえていたが、振り向かずにそのまま大学の外にある近くの公園を目指す。
途中で何度か倒しそうになりながらも、公園のベンチに辿り着き何とか座らせる。
教室にノートと教科書を入れているカバンを置き忘れたことに気付いたのは、自販機で飲み物を買う時だった。
貴重品は持っているから、取りに戻る必要はない。
雨宮先生が見つけてくれるだろうから、明日取りに行けばいいだろう。
「ひふみは、ほんとに謎が多いよ……」
ひふみが座る近くにミルクティーをそっと置き、俺は近くで立ったままカフェオレの蓋を開けた。
夏場に人を抱えながら急ぎ足で歩いたせいで、まとわりつくような汗が滲んでいる。
ひふみは場所が変わっている事に気付いているのだろうか。
近付いて顔色を伺うも、黒板を見詰めていたその視線が近くの垣根に変わっただけで、ひふみは何も変わっていなさそうだ。
その後ひふみが我に返ったのは、日が暮れて世界がほんのり橙色に染まった頃だった。
――……
もう、どうにもならない。
断頭台に引きずり出され、僕のすぐ隣で罪状を読み上げる声が、沸き立つ観衆の騒ぎ声で掻き消されている。
数人の兵士から追い回されて、僕は服を掴まれたのがきっかけで派手に転んだ。
擦りむいた手や頬が、今でも焼けるように痛い。
たくさんの兵士らしき人達にもみくしゃにされながら、こんな所に連れてこられた。
僕はいったい、なんの罪で……?
台座に身体を押し付けられたまま人集りに目を向ければ、聞き覚えのない国の言葉が僕を罵倒している。
頭の上に吊るされた刃が滑り落ちてくる音に背筋が凍りつき、僕は目を固く瞑った。
「……!」
「ひふみ、大丈夫?」
腑抜けた声に振り向けば、雄也がどこか不安そうな顔であたりを見渡していた。
……また、僕は幻を見ていたようだ。
「お帰り。何が見えてたの?」
「せ、戦争? ……ううん、違う、なんだろ……でも……」
「落ち着いて。これ」
動揺している僕に、結露で濡れたペットボトルを差し出してくれた。
先週、初めて図書館じゃない場所に一緒に出掛けた。
その時に立ち寄った喫茶店で何を注文したのか、覚えてくれていたのだろうか。
僕が好きなミルクティーだった。
「……ありがとう」
「ごめん、講堂は鍵を掛けるって言われて、勝手に連れてきたんだ。怪我とかしてない? どこかにぶつけたりしなかった……?」
「ううん、大丈夫……」
雄也は不思議そうに、いや……ほんの少しの興味があるかのように、僕の顔を覗き込んだ。
僕はそれが少し恐くて、顔を逸らして視線を逃がす。
あの場に集まっていた人々の怒声が頭から離れてくれない……。
「見えてたの、そんなに恐かった?」
「……うん」
「もう大丈夫だよ」
何が見えていたのか、今までなら僕から話していた。
でも、今回はあまり話す気にはなれない。
その態度が雄也にも伝わっているのか、聞きたそうにはしているけれどそれ以上は聞いてこなかった。
何をしようと思ったのか、雄也は手を差し伸べて来たけれど、僕が気付いて手の行き先を追ったら戻していた。
行き場の失ったその手は、膝の上に戻って固く握りしめられている。
「雄也は、コーヒー好き?」
「うん……え?」
何回か瞬きをしながら俯いている雄也に声を掛けたら、普通に返事をした後に驚いた顔をして振り向いた。
「この間の、喫茶店? カフェ? また行きたいなって……」
そんなに変なことを言い出したつもりはないけど、雄也は目を少し丸くした後、クシャッと笑った。
「うん! でも、今日は別のお店にしよう? お腹空いたし、ファミレスとか」
「わかった」
そんなに嬉しかったのか、雄也は僕の頭に手を乗せた。
そのまま少し髪を混ぜて、そっと戻し、幻の中で擦りむいた頬を撫でられる。
同じように擦りむいた手を取られ、座っていたベンチから立ち上がり雄也が行きたいと言ったお店に向かい歩き始めた。
手も頬も傷も痛みもないし、もちろん首も繋がっている。
それを目の当たりにしてようやく、現実の世界に戻ってきていてあれは幻だったのだと実感できた。
僕はひっそりと胸を撫で下ろし、足取りも軽く雄也の横に立ち並んだ。
「……ねぇ、雄也」
「ん?」
「雄也はどうして、僕の見る世界に興味があるの……?」
いつも話している幻想の世界を、今回は話せない。
それがなんだか後ろめたかった。
それに雄也の態度がいつもよりも暗い気がして、僕はなにか別の話題が欲しくなっていた。
「キレイなものが好きって事に、なにか理由が必要?」
「え、っと……?」
「俺はひふみの見ている世界がキレイだと思う。キレイなものを見ていたいって事に、理由なんてないと思うよ」
言っている意味がよく分からなかった。
なにを綺麗と表現されているのか分からない。
それに、雄也は僕が見たものを僕の言葉で聞いているだけで、何かが目に見えているというわけではない。
雄也の目に何が見えているのか、僕には分からなかった。
僕はそれを知りたいと思った。
だけど、どういう言葉で問かければ知りたいことを教えてくれるのかが、僕には分からなかった。
僕はそれを教えて欲しいという気持ちで雄也を見つめる。
前だけを見て歩く雄也は、視線に気付いているのかいないのか分からない横顔をしていた。
それが僕には『それ以上聞かないで欲しい』という反応に思えてしまった。
それと同時に僕は、まっすぐ前だけを見据えている雄也の横顔が、とても綺麗だと思った。
「僕も、綺麗なものは、ずっと見ていたいな」
「……そうでしょ?」
雄也の言っている意味はまったく分からないままだ。
だけど、『綺麗なものは見ていたい』という言葉には共感できる。
雄也から少し安心したような声色の返事はあったけれど、視線は一瞬だけ僕の方をチラリと見ただけで、また前を見据えた。
まるで、僕が雄也の綺麗な横顔を見ていたいという意味で言ったのが、伝わってしまったのかと感じるくらいで。
僕は雄也が連れて行ってくれるファミレスまで、その綺麗な横顔をずっと眺めていることを許してくれたような、そんな気持ちにさえなっていた。
僕の見ている白昼夢を知りたいと言ってくれる友達は、今までいなかった。
むしろ僕は、今まで友達と呼べるような存在は上手く作れなかった。
僕は今まで、人と上手く付き合う方法を知る機会もなくここまで生きてきてしまった。
もしかしたら、僕はどこかで自覚もないまま、雄也に酷いことをしたのかもしれない。
歩いている途中そんなことを考えていたけれど、ファミレスに着いた瞬間に雄也が満面の笑みを浮かべたことで、全部吹き飛んでしまった。
「さ、入って」
ドアを開いて押さえながら、先に入るのを促すように背中に手を添えられる。
僕の知っている、いつも通りの優しい雄也だ。
「雄也、あの……」
「なに?」
「今日のご飯は、僕に奢らせて……」
「……は? え??」
どこかで酷いことをしているかもしれない。
いつも通りの雄也なのに、それをここに来るまで疑っていた。
僕はせめてもの罪滅ぼしがしたくてそう口走っていた。
雄也は目をまんまるにして、その後に何度か瞬きを繰り返して、それから困ったような、でも楽しそうな笑いを零した。
「ダメ、割り勘です。ふふっ」
「でも……」
「ふふ、ダメです」
「僕、どうしても……」
「ふふふっ、絶対に割り勘です!」
雄也はそうハッキリと言い切り、僕の背中を強く押した。
お会計は結局、僕がトイレに行っている間に雄也が勝手に済ませていた。
割り勘どころか、雄也の奢りだ。
お店を出た時に雄也はしてやったりな、イタズラをして楽しんでいる子供みたいな顔で笑っていた。
この感情は、なんだろう。
わからなかったけれど、僕は雄也をまっすぐ見つめた。
「悔しそう、ふふ! 俺の勝ちだね」
「……悔しい」
雄也の言葉を繰り返した時、僕は初めて今の感情が『悔しさ』であると知った。
もしかしたら、僕よりも雄也の方が、僕の気持ちが分かっているのかもしれない。
「雄也は僕のこと、よく分かるね」
「俺はひふみのこと、よく見てるからね」
「……僕も、雄也のことよく見てれば、いつか分かるようになる?」
「…………、なるんじゃないかな?」
雄也は得意げな顔をしたけれど、僕の問いかけが変だったのか、目を丸くして小さく頷いた。
そのまま何も言わずに歩き出したから、僕は横に並んで雄也の横顔を見つめる。
さっきと違って、チラチラと僕の方を見ながら歩いてる。
そんな風に、さっきとの違いは沢山見つけられた。
だけど今の僕にはそれがどんな気持ちの現れなのか、まだ分からなかった。
これからはもっと、雄也のことをよく見ていよう。
そんな決意を胸に、別れるギリギリまで雄也の横顔をずっと見詰めていた。
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