幻想世界と実在論

ソフィア・フレデリクス

ある冬の日

窓の外に見えたのは、冬の夜の冷たい風景だった。

空気の冷たさが肌を撫で、優しい夜の静まり返った風景に、星々の輝き、流れる雲の筋がうっすらと流れている。

そんな落ち着ける空間の中で、僕はただ何かを見詰めていた。



「……い、おい、ひふみ? 大丈夫?」

「……!」



肩に乗せられた手に、優しい声で呼ばれる僕の名前。

振り向けば、親友の雄也が不思議そうに僕を見下ろしていた。



「なにを見ていたの?」

「冬の静かな夜で、冷たくて優しい風が吹いていたんだ」

「そうなんだ。俺も一緒に感じてみたいなぁ」

「冬になったら、きっと見れるよ……」

「そうだね。図書館が開くから、そろそろ行こっか」


雄也は僕の手を引いて、いつも2人で通っている図書館に向かい始めた。


僕と雄也は同じ寮に住んでいる大学生で、図書館で出会った。

僕は大学の文学部で、古い物語や神話を読みたくて講義の後や休日に図書館に通っている。

雄也は心理学部で、自分の気になっていることを独学で勉強したくて通っている……と言っていたはずだ。

図書館のテーブルで童話を読んでいた時、正面の席に本を積んでノートをまとめていたのが雄也だった。

いつもお互いに同じ席を使っていて、何度も顔を合わせるうちに友達になった。



「最近、どんな物語と出会った?」

「『クノイストと3人の息子』っていうやつ……」

「どういう話?」

「クノイストという男に3人の息子がいて。目が見えない子と、足が不自由な子と、裸の子。ウサギを目が見えない子が銃で撃ち、足が不自由な子が捕まえて、裸の子がポケットにしまうんだ」

「不思議なお話だねぇ……」

「うん……悪魔なのかもしれない」



図書館へ入った後、お互いの本を取りに別れた。

僕は受付に向かい、図書館司書に書庫の中の本を読ませて欲しいとお願いする。

僕が読みたいと思っている物語の初版は普通の書架ではなく、古い資料や大切な資料を保存するための『書庫』と呼ばれる場所に保管されているからだ。


僕は司書から3冊の本を受け取り、いつも雄也と使っているテーブルへ向かった。

雄也は既に座っていて、凄い量の本が積んである。



「ひふみ、今日はなに借りたの?」

「この間の続き。グリム童話の初版……」

「そうなんだ。俺が知ってる話も載ってるかな?」

「あるかもしれない……」



僕は正面の席に座って、雄也が積み上げた本のタイトルを眺めた。

心理士の参考書が半分、もう半分は恐らく、精神病に関する横文字の本。



「ひふみ、また何か面白そうな物語があったら教えてね」

「うん……」



雄也は積んだ本が不安定だと思ったのか、崩れないように整えながら言った。

それがどうしてか僕には、なんの本が積んであるのかを見ないでほしいと言っているような気がする。

僕は手元の本に視線を落とし、物語の世界に入った。



――……



ひふみの本名は「陽文(はるふみ)」で、俺からこう呼んでいいかと頼んだ。

あだ名を付けると親近感を与えられると、どこかで読んだからだ。

最初は自分が呼ばれている実感がないような反応だったが、しばらくしたらすぐに振り向くようになってくれた。


……出会った時から、彼の行動の不思議さには気付いていた。

窓の外を眺めた状態で長時間固まったり、読書中でも文字を追う視線が止まる。

何か考え込んでいるのかと思ったが、その時間は長く、そして頻繁にこうしていた。

俺が4~5冊の参考書をノートに写し終える頃に、ひふみはやっと1冊目の裏表紙を閉じる。



彼は固まっている間、何が見えているのだろう。

なにか珍しい精神疾患を抱えているのだろうか。

それが知りたくて彼と接触しようと決めた。

知的好奇心や探究心から来る「目の前の物を徹底的に調べ尽くしたい」という、まるで研究者のような動機で、俺はひふみと親しくなろうとしていたのだ。



図書館に通いながら彼を探し、決まった曜日の開館直後、いつも同じテーブルを使う事がわかった。

何度も正面の席を使い、まずは顔を覚えてもらう。

「いつもここ使ってますよね」という、白々しさしかない言葉を最初にかけた。

話し掛けるのは、ひふみが本を閉じて顔を上げた時。

偶然を装って同じタイミングで本を閉じ、ペンを置きながらひふみを見詰めて話し掛ける。

何度も繰り返し話題を広げていき、同じ大学で同じ寮生だという事も聞き出すことができた。

それからは寮で待ち合わせて一緒に図書館に通っている、というのが今までの経緯だ。



ひふみが見入っているのは、実際に見えている景色ではないらしい。

図書館に来る前に寮の窓の外を眺めていたが、ひふみに見えていたのは雪が降る冬の夜と言った。

実際は夏の午前中で、半袖を着ていても少し汗ばむくらいには暑い。

セミの鳴き声が今でも聞こえている。



ひふみが見ているのは過去か、未来か、あるいは異世界か。

それとも俺が見ている世界の方が偽物なのか。

そんな不思議な感覚に触れているうちに、ひふみの世界に魅了された。

別世界の欠片に触れている気がして、何が見えるのか聞くのが楽しみになった。

さっき伝えた『俺も一緒に見てみたい』という言葉には、建前も嘘も偽りもない。

なぜ同じ物を見ることができないのだろうか、という寂しさまで感じているほどだ。




それと同時に罪悪感もある。

普通の人とは違う動機から、計画的に近付いた。

珍しい精神疾患か、どんな原因があるのか……そういう興味の持ち方だった。

俺が見付けてないだけで、こういう精神異常は実際にあるのかも知れない。



純粋に彼の世界を垣間見れることが楽しい。

だが積んでいる本の中に、ひふみの世界の答えを探すための精神病の本が積まれているのが現実だった。



「雄也、考え事……?」

「え?」

「手が止まってるから……珍しいね、雄也が考え事なんて」

「あぁ、ちょっとね……」



ふと呼ばれた声に顔を上げれば、不思議そうな顔をして首をわずかに傾げながら俺を見詰めているひふみが居た。


……ひふみが俺に興味を持つとは思ってなかった。

普段は1冊読み終わるまで絶対に顔を上げないのに、今はページを押さえて俺に話し掛けている。

それ以前に、ひふみから話し掛けてくること自体が珍しい。



「雄也、あのね……お礼を言いたいんだ」

「急にどうしたの? 俺なんかしたっけ……?」

「うん。僕にとっては、凄く嬉しい事なんだ……いつか言いたいなって思ってて……」



ひふみは本を閉じて机の上に置いた。

普段は幻想的な世界を映し出す瞳が、今はただ俺だけに向いている。



「……僕と友達になってくれて、ありがとう」

「ど、どうしたんだよ急に、恥ずかしいって」



幻想の世界を見詰めるその瞳が、人間を見詰めているのを見たことがない。

だからか、妙な緊張を感じていた。



「僕には普通の人には見えない、『まぼろし』が見えてるみたいなんだ……」



俺は今まで想像すらしていなかった。

誰からそんな指摘を受けたのだろうか。

まさか、自覚があるだなんて。

自分が見ているものが幻覚であると解りながら、あんなにも幻想的な世界を見ていただなんて。



「そんなことない! 幻なんかじゃない! …… 見えてるなら、そこにあるんだよ。俺にとってもそうだよ、ひふみにとってそこにあるなら、俺にとってもそこにあるんだよ……!」



俺はひふみの世界が好きだからこそ、ただの幻覚だとは答えたくなかった。

一緒に見たいと思えるくらい、ひふみに見えているものは俺にとって現実の世界より魅力がある。

だが、答えが良くなかったのか、ひふみは表情を歪めて俯いた。



「ひ、ひふみ……?」

「ごめん……嬉しくて」



ひふみは顔を上げて、見たことのない微笑みを浮かべていた。

笑っているところを見たこと自体が初めてだった。



「小さい頃は、他の人には見えてないって、わからなくて……話すと、変だって言われたり、いじめられたり……したんだ」

「そうだったんだ」

「雄也にも最初は話すつもりなかったんだけど……なんか、大丈夫かもしれないって思って。雄也、僕が見てるとき、いつも『なに見てるの?』って聞いてくれるから……」

「うん」

「こんな風に、僕が見てるものに興味を持って、受け入れてくれるって、今までなかったから……さっき、一緒に見たいって言われて、凄い嬉しかったんだ」



そこまで話し終えてひふみは笑みを消し、普段通りの表情に戻った。

迷うように視線を落とし、テーブルの上に置かれた本を見詰めている。



「僕、雄也の事を親友って、勝手に思ってて……」

「言わなくても、俺たちは大親友だよ」

「本当?」

「本当。これからも何が見えるのか教えて?」

「うん……!」



今までどれだけ、ひふみの世界は孤独だったのだろうか。

自分にしかない世界を他の人から否定されて、辛い思いをし続けていたに違いない。

そんな幻想の世界を俺が『ある』と認めることで、その孤独な世界はきっと終わったんだ。

それだけでひふみを笑顔にできるなら、俺はこれからもその世界をきっと共有していくだろう。

ひふみの目に映る世界の中にも、俺は確かに存在してくれていたようだ。


誰かに認識され、初めて存在する。

そんな哲学の理論があったような気がすると思いながら、ひふみに親友だと言ってもらえた幸福感に浸っていた。

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