いつかの私と、犬のうんこを踏んだ冬
秀田ごんぞう
いつかの私と、犬のうんこを踏んだ冬
冬のよく晴れた夜。散歩の途中に空を見上げると、オリオン座が一際目立って輝いていた。そんなオリオン座の中央に並んでいる三つ星の少し下で、三つの小さな星がこっそり輝いている。小さな縦の三連星はまるで自分を鏡映しにしているようだった。本当は大きな三つ星になりたいのに、その下にひっそり隠れている小三連星がひどく憐れに思える。
雪はしんしんと降っている。大雪という程ではないが、止む間もなく一定のペースで降り続ける。気温は氷点下、吐息は白く、リードを持つ手はかじかんでいた。
こんなに寒いのに、私の愛犬ビッグはハッハッハと楽しげに尻尾を振りながら横を歩いている。
彼は道路隅のブロックに鼻を近づけて、一生懸命クンクンしていた。どこまでもマイペースな奴である。だが、そんな彼をたまらなく羨ましいと思った。
自分で言うのもなんだが、私はわりとタフな人間だと思う。
初めて挑戦することにも物怖じしないし、仕事で失敗したり、上司から怒られてしまった時もわりと立ち直りが早い方だ。ネットでちょっと悪口言われたって、すぐに塞ぎ込んだりはしない。職場ではあまり愚痴を言うこともなく、いつも落ち着いていると言われることが多い。自分でもわりと明るい方だと思っている。少しぐらい落ち込んでも、一晩寝ればケロッと元気になってしまう。
良くも悪くも私は鈍感なのだろう。
だから、電池が切れそうになるまで気がつかないのだ。
数ヶ月に一度くらい、だろうか……。プツッとスイッチが切れたみたいに思考が切り替わる瞬間がある。気づかぬうちに無理をしていて、それが蓄積して電池が切れる。自分がなんのために生きているのかわからない。存在意義が曖昧になって、この世界から自分という存在が消えたらどうなるんだろう……なんて結論など出るはずもないことに頭が悩まされる。
自分をどこか別の所から客観的に見ている自分がいるように感じる。もう一人の自分は私のことを何も言わず、ただただ無表情で見つめている。一切の感情を挟まない瞳に見つめられると、不意に、胸の底から虚しさがこみ上げてきて、ゼンマイが切れたように項垂れる。
愛想良く道化のように笑って、自分の代わりはきっといくらでもいるのに、無理して頑張ってなんになる? バカな生き方してるよな。何やっているんだろうな……って、虚無的な思考が泥沼のように頭の中でループするのだ。
心には電池がある。人によってその容量には違いがあるけど、無限のバッテリーなんて存在しない。いつかは必ず電池が切れる瞬間が来るのだ。それが明日なのか一ヶ月後なのか10年先なのかはわからないけど、その時は必ずやって来るのだ。
敏感な人間は心の電池の残量をきちんと把握していて、完全にバッテリー切れになる前に何らかの手段で充電している。私みたいに鈍感な人間はバッテリーギリギリになってようやくそのことに気づく。気づいたときにはもう遅い。泥沼にはまったような思考の渦から抜け出すのは至難の業だ。
あぁ……なんか嫌になるなあ、本当に。昔はこんなことグチグチ考える余裕はなかった。
下校途中、犬のうんこを踏んづけて大騒ぎしていたあの頃……そんなこと考えもしなかったな。下校のメンバーは家が近所のあいつら二人と決まっていて、なんでもないことがバカみたいに楽しかった。わざと誰も通っていない道を三人で歩いて足跡を振り返って笑ったりした。世界で初めてここに足跡をつけたのはおれだ! なんて偉そうに思っていた。そんなことに誰も興味を持たないなんて、考えすらしなかったし、暴力的なまでに無邪気な思考をしていた。
今もあいつらとはたまに連絡を取り合うけれど、昔のようにはいかない。お互いもう立派な社会人だ。仕事も忙しいし、中々会えない。最後に会ったのはいつだっけ……成人式の時かもな。一人称もいつの間にか「おれ」から「私」に変わった。
この間、久しぶりに会わないかってメッセージが届いたけど、イマイチ乗り気になれない自分がいる。会ったところで、何を話せばいいのかわからない。
風が樹上の雪を乗せて運んでいく。雪の欠片がつぶてのように当たって、冷たくて頬がヒリつく。
充電が必要だ。きっかけは不明だが、今の私は心のバッテリーが切れかかっている。
雲一つ無い夜空には、私なんかお構いなしに無数の星々が瞬いている。
たくさんの星が輝く中で、私がわかる星座はせいぜいオリオン座くらいだ。もともと星に詳しくない私でもオリオン座だけは知っている。だから、ふと夜空を見上げたとき、ついオリオン座を探してしまうんだ。
星に詳しい知り合いが前に言っていたことを思い出す。オリオン座を構成している星の一つが現在急速な変化をしていて、近い将来、オリオン座の形が変わってしまうかもしれないらしい。
心の電池が切れそうになっている私なんかお構いなしに、無数の星群の中でオリオン座は自らをこれでもかと主張していた。中央の三つ星の下の小さな三連星も今日はよく見えた。小さな三連星を見ていると、不思議と心が凪のように静かで、何も考えずぼーっと空を見上げていた。
どれくらいの時間そうしていたのだろう、一際強い風がびゅんと吹いて、寒さに体がぶるっと震えてはっと我に返る。
いつまで犬の散歩してんだか。いい加減、帰んないと風邪引くな。
そう思ってリードを引っ張って歩き出そうとするも、動かない。ビックは散歩中、何かに興味引かれると、よく飼い主そっちのけで鼻をクンクンさせにいってしまうのだ。
「ビック、いくぞ」
そうつぶやいて、強引にリードを引っ張って歩き出した時のこと。
ぐにょり、と。
靴底にどこか懐かしささえ覚える不快を感じた。
「うわ……ビックのうんこじゃん」
私がぼんやりオリオン座を見上げて、物思いにふけっている間に、ビックはしっかり出すものを出していたらしい。彼は私がブツを踏まないように踏ん張ってくれていたのだ。
靴の裏には茶色いうんちがべっとりくっついていた。ど真ん中をばっちり踏んでしまったようだ。……最悪だ。まさかこの年になって犬のうんち踏むとは。昨今、町を歩いていても、犬の糞踏むことなんてそうそうない。最後に踏んでしまったのは思い出せる限りだと、中学生くらいだ。
うんちを踏んづけてしまった私を、ビックはハッハッハと笑って見つめている。彼の顔はいつも笑っているように見える。
とりあえず持っていた散歩バッグからビニール袋を取り出し、踏んづけてしまったうんちを片付ける。ウェットシートでビックの尻を拭いていると、ポケットのスマホがぶるぶる震えた。
あいつらからのメッセージが届いていた。
『――日――時にお前んち集合だから。久々にスマブラ大会やろうぜ!』
『それいいな! ま、俺のプリンが優勝するけどな!』
はっ、と独りでに笑みがこぼれた。
大人になって自分もあいつらも昔とは変わってしまった、と思っていた。
確かに私は変わった。あの頃みたいに何も考えず無邪気にはいられないし、お酒だって飲めるようになったし、ぐちゃぐちゃとした悩み事が増えた。
だけど、変わらない部分もある。
そのことに気づかせてくれたのは、ビックのうんちだ。
今も昔も犬のうんち踏んで、大騒ぎするのは変わらない。「私」の中に「おれ」は確かに息づいている。
つまらないことに悩んでいた自分がひどく馬鹿らしく思えて自嘲する。
ビックの頭を撫でてから、スマホにメッセージを打ち込む。指先は寒さに凍えていたけど入力は不思議なほどにスムーズだった。
『バカいえ、優勝はおれのキャプファルに決まってるだろっ!』
メッセージを打ったら、三秒とたたずにすぐに返事があった。
『言うなお前。あとで吠え面かくなよっ!』
『あ、コントローラーちゃんと持って来いよー』
……さてと、帰るか。さっさと家帰って、あいつらに勝つために練習しないとな。
リードを持っている私を見て、ビックがニッと笑った。たまにはあえて雪が積もっているところを歩いて帰ってみよう。……昔のおれみたいに。
雪降る冬の夜空に、オリオン座が変わらぬ姿で輝いている。中央の三つ星の下の三連星もこじんまりと、しかし確かな存在感を持って輝いている。
心の電池はいつの間にか満タンに充電されていた。
いつかの私と、犬のうんこを踏んだ冬 秀田ごんぞう @syuta_gonzo
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