宇宙人少年と超常現象少女

琴野コロボックル

第1話

──空が飛べたら、どんな気持ちだろうか?


──叶うなら、死ぬ前に、鳥みたいに、空を飛びたい。




 僕が生まれ育った街は海沿いの街なんだけど、海が見えなかった。なんでかって言うと、海沿いは埋立地の工業地帯で高い煙突や工場や倉庫がその眺めを塞いでいたから。

 地図上では自宅から海岸線まで一キロほどしかないのに、海の存在をこれっぽっちも感じなかった。見えないし、工業地帯を通り過ぎた海風はとうに潮の匂いが打ち消されている。海は夏に旅行に出かける他県のもの、そんな印象だった。

 すぐそこにあるけど、遊べるような海じゃないし、近づいてみたこともなかった。

 だから、高台にある高校に通うまでは、その身近にある海を見たこともなかった。

 高校の西校舎から高い煙突の向こう側に、海が見えたとき、僕は、はじめて、海沿いの街に住んでいたんだと知覚した。

 西校舎は鉄筋コンクリートの三階建てで、美術室とコンピュータ室しかない、あとは空き教室だった。校舎の入り口もほとんどの時間、施錠されているから、西校舎からの景色を眺めるために、僕は、よく外階段を上った。二階と三階の間の踊り場まで上がると、工場の向こう側の海がよく見えた。

 あの日の放課後もなんとなく、食堂横の自販機で缶コーヒー買って、西校舎の外階段を上がった。ほとんど人が来ない、僕だけの秘密の場所だと、あの瞬間まで思っていた。

 人がいた。

 尖った鉛筆で幾重にも幾重にも線を重ねたような長い黒髪をなびかせて、手すりに足をかけた女の子がいた。うちの高校の制服を着ているから同級生か、先輩か。

 彼女は、スラリと細く長い足で、今にも手すりを蹴って、空中に身を踊らせようとしていた。

 二階と三階の踊り場だけど、西校舎の裏のフェンスの向こうは断崖絶壁に近い斜面になっていて、かなりの高さがある。ゆうに十メートルあると思う。

 飛び降りようとしている。自殺しようとしている。僕は、そう思った。

「待って」

 手を伸ばしたけど、僕の手がとらえるより、彼女が手すりを蹴ったほうが早かった。僕の指先は艶のある黒鉛みたいな黒髪を掴むことさえできずに空振った。

 ふわっと浮いた彼女が、こちらを向いた。驚いたように瞳を大きく見開いて、僕を見た。

 長い睫毛に縁取られた猫のような黒目がちの瞳と目があった。

 落ちる、と思った。

 だが、彼女は、そのまま前へ飛んだ。

 翼もない、生身で。

 何が起こっているのか、僕にはわからなかった。

 女の子が飛んでいる。

 彼女の高度は、飛び立ったままの高さからほぼ変わらず、風に乗って滑空しているように見えた。

 後ろ姿がどんどん小さくなっていった。

 豆粒みたいになっていった。

 そして、徐々に高度が下がって、夕日に照らされてオレンジ色に染まっている。眼下の街並みの海の近くの工業地帯に消えた。

「嘘だろう……」




 ──先生、この子はふつうになれますか?


 母が泣いてる。

 これが、僕の最初の記憶。

 なかないで、かあさん。

 そう言いたかったけど、声には出ない。

 この頃の僕は、ほとんど話せなかったから。


 ────くんは、地球に生まれて、まだ四年です。まだ地球の生活に慣れていないから、ゆっくりやっていきましょう、お母さん。今は宇宙人みたいですが、根気よくソーシャルスキルトレーニングなどの療育を頑張れば、改善するケースもあります。地球に馴染むこともできますよ。


 これを言ったのは、誰か、は覚えていない。


 でも、僕は『宇宙人』だと言われたことは覚えている。




 僕は、昨日見たものを、幻覚だと定義した。

 僕は、そこそこ心を病んでいる。

 太宰治みたいに自殺願望に取り憑かれる程度に心を病んでいる。

 太宰治は、教科書に載っていた『走れメロス』ぐらいしか読んだことないから、正確には知らないけど。

 それで、なんでそんなに心を病んでいるのか、と言われたら、説明すると、まあ、こんな感じだ。

 僕は小学生のとき、親に連れられて、発達外来だの何だの、児童精神科に通わされていた。

 僕はふつうではなくおかしな子供だったらしい。

 おかしい、と親や学校や病院や行政が認定したから、そうなんだろう。

 でも、今は病院に通っていない。

 かつては発達の遅れを指摘されていたが、現在は偏差値が中の上ぐらいの公立高校で中ぐらいの成績を辛くも維持している。

 傍から見れば、今の僕はふつうの高校生だ。

 両親はふつうになったと喜んでいる。

 早めに療育とやらを受けさせてよかった、と言っている。

 でもそれは、僕が、ふつうになろうと、ふつうに合わせようと、大人たちの言うとおりに努力を重ね、頑張った結果。

 今もなんとかふつうを演じているだけだった。

 ふつうと言われる行動をなぞっているだけに過ぎなかった。

 そんな僕が自殺、という概念はを理解したのは、小学三年生の頃だった。

 この世界から消えるために自ら命を断つという方法があると知ってから、おかしなままふつうになれずにどうしようもなくなったら、死ねばいい、と思った。

 正直、救われた。

 周りが望むふつうになれなかったら、死ねばいいと思っていた。

 今も、ギリギリのギリギリの線でふつうに踏みとどまっているけど、もし疲れ果ててどうしようもくなれば、自殺しようと思っている。

 どの方法が一番楽なんだろうと、調べたりもした。

 でも、やっぱり死ぬのは痛そうだな、と漠然と思った。

 ただ、どれが本当に一番痛くないか、こればっかりは、死んだ人にしか真実はわからないから、調べようがなかった。

 まあ、そんな精神状態だから、傍目からはふつうに見えても、そこそこ病んでいる。

 だから昨日、見た光景は幻覚だと思った。とうとう、幻覚を見るような、まずい頭の病気を発症したのか、と眠れなかった。

 死ぬか、親に話して病院の精神科で薬を処方してもらうべきか悩んでる間に夜が明けた。

 とりあえず、すべてを保留にして、親には何も話さず、ゲームをしてたら朝だったんです、と至極ふつうの高校生にありがちな言い訳を考えて、でも、それを披露することもなく、寝不足の重い体を引きずり登校した。僕が演じている役はふつうで、なおかつ、真面目な高校生なので、サボるという選択肢は取りづらかった。

 昼休み、僕は、自分の机に突っ伏して、怠そうにしていた。真面目だけど、休憩時間ぐらいは居眠りをする。友達はいないわけじゃないけど少ないし、面倒なときはたいてい眠ってるフリをしているから、違和感はないはずだ。

 ふっ、と何が妙な気配を感じて顔を上げたが、眼鏡を外していたから、ぼやけて、よくわからなかった。僕の視力は裸眼で〇.一しかない。何が、変だったが、再び机に突っ伏した。

 幻覚かもしれないなら見たくはない。

 しばらくして、声が聞こえた。

「おーい、山本」

 幻聴ではない、と思う。

 クラスメイトの声だ。

 たぶん僕を呼んでいるのだと思う。『山本』は、この地方では学年に平均で三人〜五人はいる名字なのだけど、今年のクラスには、僕一人だけだ。

 ゆっくりと顔を上げ、眼鏡をかけたら、クラスメイトが教室前方のドアの近くで僕を見て手招きをしていた。

 僕はのろのろと立ち上がり、ドアの近くに向かった。

「山本、お客さん」

 変だな、と思った。僕は部活に入っていないので、他のクラスや上級生に知り合いはいない。部活に入っていないのは、時間を取られたら、勉強の時間が確保できずに、ふつうの成績を取れなくなってしまうからだ。

 誰だ、と不思議に思いながらも呼ばれるままに行くと開け放たれた引き戸の向こう側の廊下に昨日の幻覚がいた。

 鉛筆で丁寧に線を引いたような長い黒髪に、少しつり上がった猫のような黒目がちの瞳。昨日は広がった長い髪で見えなかったけど、制服のリボンタイは赤だから二年生だ。

 ちなみに今年の一年が青で、三年が緑、うちの高校の場合入学年度で色が違うのだ。僕は、一年だから青色のネクタイをしている。

「少し付き合ってくれない?」

 幻覚が、鈴のような声で言って、首を傾げた。


 どうやら、彼女は、僕だけに見える幻覚ではないらしい。

 おそらくは相対的に整った容姿をしている彼女が廊下を歩くと、時々人が振り返るから、みんなの目にも同じように見えている。間違いないようだ。

 高校生男子として平均的な見た目をしている僕が歩いたところで、誰も振り返りはしないから、これだけは断言できる。

 教室がある北校舎を出てレンガ敷の中庭を抜けて、食堂の前を通り、人気のない西校舎まで来た。

 コンクリートの外階段を上がる。

 昨日、彼女が飛んだ、そう見えた二階と三階の踊り場までくると、彼女は、僕の方を振り返った。

 綺麗だけど、ちょっとキツめの目鼻立ちだから、なんだかとても迫力があった。

 彼女は、腕組みをして僕に聞いた。

「昨日、アレ、見たよね? 誰かに話した?」

 僕は、ぶんぶん、と頭を横に振った。

 この時点でそもそも何のこと、ととぼければ良かったのに、彼女の迫力がそれを許してくれなかった。

「黙っててくれるよね?」

 僕は、ぶんぶん、と頭を縦に振った。

 もう誤魔化せない。

 でも、幻覚じゃないことは、証明された。

 彼女が飛んだのは、この目が見た、現象だったんだ。

 おかしな脳が見せた幻覚ではなかった。

 よかった、と思った。

 見たことは、認めちゃったけど、ここで、じゃあ、と逃げ帰り、見たことを忘却し、ふつうを演じ続ける日々に戻ればよかった。

 戻れば、良かったのに。

 どうしても、好奇心が出てしまった。

「黙ってる代わりに、気になることを聞いてもいい?」

 この一言が、僕が必死でしがみついていた、『ふつう』の線から大きく外れるきっかけになってしまった。


 彼女は──七瀬さんは重力に干渉できるのだと言った。重力を抑える力。何もないところから飛び立つことはできないらしい。僕が見て思った、滑空、で間違いないらしい。魔法か、さもなければ、超能力か何かの類なんだろうが、それ以上は教えられない、とのことだ。

 おとぎ話かSFか。

 どちらにせよ、激しく現実味が薄い。

 やっぱり、彼女の存在自体、幻覚とか妄想の類なんじゃないかと思えた。

 でも、好奇心がわいてしまったので、とりあえず彼女の言うことは現実であるということを前提に質問してみた。

「じゃあ、誰かと一緒に飛べる?」

 もし、これができるならちょっと試してみたい。

「君、飛びたいの?」

「まあ、少しだけ」

「君、何キロ?」 

「え?」

「体重」

「え、この前の身体測定で五十八キロ」

 高校一年生の平均的体重だ。

 ちなみに僕は食にあまり興味がないので、油断するとすぐに体重が落ちてしまう。

 いつも必死で食べている。

 七瀬さんは顎に手を当てて宙を見上げた。

「うーん、理論上できる、ちゃー、できるけど……お兄ちゃんと一緒には一回だけだからなあ。でも、その頃のお兄ちゃんもうちょっと軽かったから大丈夫かどうかはなんとも……落下スピードは私一人のときより早かった気がするし、お兄ちゃんは二度とゴメンだって言うから試してない」

 七瀬さんには兄がいるらしい。

 本心を言えばどうでもいいが、こういう情報は覚えておいたほうがいい。

 他人の個人情報に興味がないことがバレてしまうから。

 ふつうは、みんなこういうの覚えてるし、覚えておいてほしいんだ。

「うーん、でも、せっかくだから、試してみる?」

 七瀬さんはビシっと僕を指差した。

「人を指ささないで……」

 さすがに、思わず抗議してしまって、途中で口をつぐんだ。

 気を悪くしていないだろうか、と気にしたけど、七瀬さんは、あっけらかんと言った。

「ああ、ゴメン、ゴメン。こっちでは行儀悪いんだっけ」

 世界中どこでもマナー違反だと思うけど、と考えながら、僕は、話を本題に戻した。

「…………落ちないって保証は?」

「ないね!」

 きっぱり言い切った。

 それはちょっと怖いかもしれない。

 でも興味はあった。

 それに、僕は、どうせ──いつ死んでもいいんだ。

 迷う必要なんてないだろう?

 もう、疲れていないかい?

 昼休みの終わりを告げる予鈴がなった。

「予鈴が」

 真面目な役の僕は言ったけど、七瀬さんが、手を掴んだ。

 彼女がコンクリートの地面を蹴ると、体が浮かび上がった。

「ひっ」

 跳びあがった彼女が、外階段の手すりを大きくひと蹴りすると、僕の身体は完全に宙に投げ出されていた。

「絶対、手を離さないで!」

 七瀬さんが叫んだ。

 僕の身体は風に乗った。

 子供の頃、空を飛べたらどれだけ自由だろうと思った。

 このふつうにならなければという牢獄から逃げられると思った。

 自殺するなら、飛び降りがいいな、と密かに思っていた。

 一瞬でも空が飛べるなら。

 そう思っていた。

 だけど。

 感じたのは、開放感ではなく。

 ただ、ただ、恐怖だった。

 おとぎ話のような感動はなかった。

 高い、風が強い、怖い、しか思い浮かばなかった。

 残念なことに。

 それもそうだ。

 人間はもともと飛べるようにはできていないのだ。

 超常現象を纏う彼女は別として。

 僕は声にならない悲鳴を上げた。

 

 海を目隠しするように立ち並ぶ工業地帯の向こう側、埋立地の雑草が生い茂る空き地に着地した。

 ふわり、ではなく、転がるように。

 制服は破れはしなかったけれど、泥まみれになった。

「思っていたよりは飛べた! 海まで来れた!」

 七瀬さんは満足げに笑ったが、僕は放心状態だった。

 おとぎ話はおとぎ話のままにしておくのが一番だと思った。

 やっぱり、ふつうが一番なんだと思った。

 頑張ってふつうにしがみつこうと思った。

 そして、自殺をするときは飛び降りだけはやめておこうと思った。

 怖い上に、飛べない人間は地面に叩きつけられるのだ。とんでもなく痛いに違いない。ごめん被りたい。

 僕は、彼女の兄が昔言ったことに、全力で同意だ。

「オレも二度とゴメンだ」 

 僕はそう言って、生まれてはじめて間近に見たこの街の海に視線をやった。

 工業地帯の海だから、近くで見ればさぞかし汚いだろうと思っていたが、思っていたよりは、青かった。

「ええー! 楽しいじゃん、飛ぶの!」

 かつて宇宙人、と言われた僕より遥かにふつうじゃない彼女は、腰を抜かしたままの僕を見て、楽しそうに鈴を転がすように笑った。

 魔法使いか、超能力者、もしくは本物の宇宙人か。

 なんにせよ、彼女は僕の知る常識では推し量れない生き物な気がする。

「ところで、どうやって帰るの? スマホしか持ってきてないけど……」

 しかも、ポケットから取り出したスマホはさっきの衝撃で画面が割れていた。最悪だ。

 そして、七瀬さんは予想通りの回答をくれた。

「あっ、考えてなかった!」

「やっぱり、考えてなかったのか……昨日は?」

「お兄ちゃんに迎えに来てもらった!」


 ──このあと案の定、大学生らしいお兄さんからは『今から講義だから知らん』という回答を得て、財布とICカードが学校に置きっぱなしの鞄に入ったままの僕たちは、十キロ以上距離の、しかも海抜差百メートル近い、緩く続く上り坂を延々歩いて戻った。

 五限と六限のサボりが決定してしまった。

 真面目な役としては痛恨の失態だ。

 そして、途中、なんでこんなことして、大騒ぎにならないんだ、と七瀬さんに聞いたら、

『これ以上追求したら、山本はNASAの秘密を知ってしまって消されるよ』

と、大真面目に言っていたから、本当にわけがわからない。

 僕たちが学校に戻れた時には、もう夕暮れで、運動部の奴らぐらいしか残ってなかった。

「やっちゃったね」

 ぐったりした、僕とは違い、七瀬さんの体力は、やはり人外だった。

「またね、山本」

 と彼女は言って帰っていったが、また、はゴメンだ、と思った。

 僕は、ふつうでいたいんだ。

 今日、君と空を飛んでしまったけれど。

 どう考えても、おかしいけれど。

 誰かに話したら、頭がおかしくなったって思われてしまいそうだけど。

 だから、これ以上、君と関わったら、どう考えてもふつうじゃない日々になりそうだから、ゴメンだ。

 それは避けたい。

 ふつうになりたい。

 ふつうでいたい。

 必死なんだ。

 そのために頑張ってるんだ。

 魔法使いか、超能力者か、本物の宇宙人か、何にせよ超常現象少女とは関わり合いたくない。

 住む世界が違う。

 でも、七瀬さんは。

 ふつうじゃないけど。

 超常現象を纏っているけど。


 きっと、毎日、楽しそうだな……それだけは少し、羨ましかった。

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宇宙人少年と超常現象少女 琴野コロボックル @corobokkuru

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