[4-2] あたし……、素直になるね!
「三十八度……、もう、やっぱり熱があるじゃない」
蛍光灯が古くなって、ちょっとぼんやりしている仏間。
お客さん用のお布団、先週干しといてよかった。
体温計をスウェットのポケットにねじ込みながら、掛布団を彼の首元まで引き上げる。
「心配するな。大した熱じゃない。でもこれ、よかったのか? お父さんのパジャマ」
「いいよ? まだ捨てられなくてぜんぶそのままだったの。下着もぜんぶあってよかった。残念だったね。イチゴ柄のトランクスじゃなくて」
じわっと口をへの字にした三条くん。
でもこれ、どういうこと?
「あんなにずぶ濡れになって、もしかして、ずっと雨の中に居たの?」
「は? そういう日向もずぶ濡れだったじゃないか。まぁ、家を出ていろいろ考え事しててさ。遊歩道のベンチに座ってたら、急に降り出したんだ」
はぁ……。
ベンチに座って、あの土砂降りにずーっと降られてたのね。
「お家に帰ればよかったのに」
「家には帰らん。そのつもりで出て来たんだ」
「せっかくお母さんと話して納得して戻ったのに、またなにか揉めたの? あーあ、ほんと面倒くさい男」
「なんだそれ、水城先生の真似か? 俺はまったく納得なんてしてない。脅し上げて無理やり連れ戻されたんだ」
「脅された? お母さんに?」
「ああ。家に戻らなければ、この宝満農園がどうなっても知らないぞ……ってな」
お母さんがそんなこと言ったの?
そんなのウソに決まってるじゃない。
「あいつは人でなしだ」
「もう。お母さんのことそんなふうに言わないの。お母さんの気持ちも考えてあげて? お母さんはきっと不安になったんだと思うよ? 聖弥くんが、気の迷いで農園の手伝いしたいなんて言い出したから」
ハッとした三条くん。
ちょっと目を泳がせて、掛布団をふわっと引き寄せた。
「聞いたのか」
「うん。山家さんから。あたしのお母さんからも。いったいどういうつもり?」
「それは……」
三条くんが、掛布団をすーっと顔まで引き上げる。
あたしはパッとその掛布団を押さえて、ググッと彼の顔に瞳を近づけた。
目を逸らす彼。
もっともっと瞳を近づける。
「あたし、OKしてないもん」
「ふん」
バサッと布団が跳ね上がって、彼が寝返りを打って背中を向けた。
ほんと、デリカシーないんだから。
「熱が下がったら、ちゃんとお家に帰るのよ? このままこじらせて声が枯れて、オーディションのとき困るのは――」
そう言ってあたしが立ち上がろうと膝立ちになると、彼がギュッと掛布団を引き寄せてポツリとつぶやいた。
「声なんて枯れていい」
「え? 『どうしても受けないといけない』って言ってたじゃない。とっても大事なオーディションじゃ ないの?」
一瞬の無言。
小さなため息が聞こえて、それから掛布団がもっと向こうへ引き寄せられる。
「うるさい。母さんが持ってきた話だ。どうでもいい」
お母さんが持ってきた話?
そうか……。
きっとお母さんは、聖弥くんが農園の手伝いしたいなんて言って、もう名門大学を目指すつもりもないんだって分かったから、また芸能界復帰のほうへ引き戻そうって思ったんだ。
はぁ……、お母さんがかわいそうだよ。
きっと、三条くんが『UTA☆キッズ』に出てたときみたいに、キラキラ輝いている姿をもう一度見たいんだよ。
その夢、叶えてあげて?
「どうでもよくない。変な気の迷いで、お母さんを悲しませないで? ね?」
「気の迷いなんかじゃない。いまの俺の夢は、お前を幸せにすることだ」
「だから、あたしは幸せだって――」
「日向」
あたしの言葉を、ちょっと強めの三条くんの声が遮った。
ちょっとだけ彼がこちらへ顔を向ける。
どうして?
本気で、本気の本気で、そんなこと言ってるの?
あたし、そんな大した女の子じゃない。
三条くんに幸せにしてもらっていいような、そんなこと許される女の子じゃない。
「あたしに、そんな資格ないもん」
「それは俺が決めることだ」
「横暴」
「なんとでもいえ。俺はもう決めたんだ」
「知らないよ? 後悔しても」
「後悔なんてするか」
「はぁ……」
あたしは膝立ちになって上げた腰を、もう一度そっと下ろした。
雪見障子の外、縁側のさらにその向こうから、激しく瓦を叩く雨音が鈍く響いている。
掛布団にくるまれた、彼の大きな背中。
あたしはなにも言葉が出なくなってしまって、ただただその背中を眺めた。
「日向、ちょっと聞いてくれ」
そう言って、ゆっくりと仰向けに戻った彼。
そして彼は、噛みしめるようにその物語をあたしに語り出した。
「いつか話したっけ。教会の聖歌隊を辞めさせられて、俺が初めてテレビに出されたのは小学校三年生のとき、番組は『UTA☆キッズ』っていう、全国から集まった小学生が歌唱力を競うやつだった」
「まぁ、俺はトーナメントの真ん中くらいで敗退……、当然だ。その程度の実力だったんだ」
「なのに、次のトーナメントが始まると、なぜか俺は準レギュラーとしてそのまま番組に出演することになった。耳を疑ったよ。なんの成果も残してないのに」
「そうやって、小学生の間、俺はキッズアイドルとしていくつかの番組に出演枠をもらっていた。そして、中学生になる直前……」
『三条さん、今年度いっぱいで契約の更新はしないことになりまして――』
「突然の契約打ち切り……。ちゃんとした理由は告げられなかった」
「でも、共演していたひとつ年上の子が俺に教えてくれたよ」
『俺、ディレクターが話してるの聞いたんだ。お前、態度が悪いから降ろされたんだよ。それにお前の母親もウザいんだってよ。なんの実力もない息子をゴリ押ししてくるから』
「俺が番組に出られていたのは、ぜんぶ母さんの強引な押しがあったからだったのさ。なのに、俺はそうとう思い上がっていたんだと思う」
「そして、俺は夢見るようになったんだ。いつか自分だけの力でもう一度ステージに立ちたいってな」
「母さんはそれからも相変わらずだった。いろんな劇団や事務所を訪ね歩いて……」
「支援してくれるのはありがたい。しかし、それではいつまでも俺は保護者付きのキッズアイドルだ。だから、俺は母さんに言ったんだ」
『歌の仕事はしたくない。普通に学校へ行って、普通に勉強がしたい』
「もちろん、辞めるのは一時的のつもりだった。母さんが支援に走らないように、再開するときにはこっそり自分だけでやるつもりだった」
「しかし、その次に飛び出した母さんの言葉に、俺は唖然とした」
『それじゃ、ママはどうなってもいいのねっ? ママの夢、聖弥がステージに立って、その母親として隣に立つというママの夢はどうなるのっ?』
「は? って思った。母さんは、俺のことを思って支援してくれていたんじゃない。俺のためじゃなかったんだ」
「つまり俺は、母さんの『芸能人の息子の母として羨望を集めるという夢』……、いや、『野心』だな。その『野心』を実現するための……、生きた道具だったわけだ」
「荒れ狂う母さんは続けてこう言い放った」
『芸能活動を辞めるなら、名門私立高校、名門国立大学を出て、一流企業に入社するのよっ? 分かったっ?』
「それも結局は自分のためだろ。優秀な息子の母を気取って、そんな自慢ばかりをし合う金持ちご近所さんたちに羨ましいと思われたい……、ただそれだけだ」
「そんな虚栄心や損得勘定だけで生きている母さんが、俺は嫌いで嫌いでしょうがなかった。そんな母さんとふたりで食うメシが、不味くて不味くて仕方なかった」
「笑えることに、母さんが受けろと言った名門私立高校はぜんぶ不合格だったよ。そりゃそうさ。俺にもともとそんな実力はない」
「そして、俺は浪人生になった」
「でもな、母さんは顔を合わせるたびに『名門へ行け』と言うくせに、家庭教師も雇わず予備校にも通わせない……。なぜだと思う? それは近所の目を気にしていたからだ」
「そして、父さんが用意したのが、あの部屋」
『まぁ、夕食と寝るのだけは家に帰らせるが、それ以外はあの部屋でのびのびと勉強させようじゃないか。来年はきっといい結果が出るよ』
「まぁ、体よく追い出されたのさ」
「最初は母さんの顔を四六時中見なくて済むと喜んだ。しかしあの部屋へ通い続けるうちに、なぜか俺の心はどんどん陰鬱になっていったんだ」
「俺はいったい何者だ。なにをしようとしているんだと……、そんなことばかり考えてな。カーテンを開ける気にすらなれなかった」
「そんなときだ。俺は、カーテンの向こうから、ときおり透き通った歌声が聞こえてくることに気がついた」
「普通は歌が外から聞こえたら気が散って仕方ないもんなのに、なぜか、その歌はまったく俺の気分を害さなかったんだ。それどころか、俺はいつも、いつの間にかその歌声に聴き入ってしまっていた」
「不思議だったよ。その歌を聴き終わると、なぜかとても気分が軽くなるんだ」
「それから俺は、カーテンを開けるようになった。部屋の中が明るくなって、歌声で気分もよくなって……。そうしているうちに、俺はとうとう……」
「彼女を見つけたんだ。ちっちゃなイチゴのような、とても愛らしい彼女……。温室の中で、まるで植物に語り掛けるように優しい歌声を響かせる……彼女を」
「親から言いつけられているのか、毎日、忙しそうに家事をこなしているが、それでいてまったく辛そうにしてなくて、弟たちと楽しそうに笑い合って……」
「来る日も来る日も、俺はその歌声に耳を傾けた。よく聞こえていたのは、『翼をください』だな」
「毎日が地獄のように辛いのに、その透き通るような歌声に包まれたとたん、俺の傷だらけの心はあっという間に癒えていくんだ」
「彼女を見つけて、俺の日常は一変した。あの部屋に行くのが楽しくて、彼女の姿を眺められるのが嬉しくて……」
「俺は、彼女に救われた」
「その秋になって、俺は勇気を出して隣の山家さんに彼女のことを尋ねた」
『隣の子、よく歌ってますね』
『ん? ああ、隣の農園の娘さんだよ』
『ふぅん。中学生くらいですか?』
『うん。聖弥くんのひとつ下、いま中学三年生だね。来年はそこの県立高校を受験するって言ってたな』
「そのとき、俺は急に思ったんだ」
『彼女と同じ高校へ行きたい』
「本気でそう思った。笑えるだろ? 突然、あふれるように思ったんだよ。そして、母親が望んだ名門私立は一切受けないと、そう決めたんだ」
「このことは、父さんにだけ話した。父さん、ゲラゲラ笑ってたな」
『まぁ、男にはそういうロマンも必要だ。その子と知り合えたらいいな』
「同じ高校へ行けたとしても、知り合う機会は訪れないかもしれない。それ以前に、彼女が別の高校へ行ってしまうかもしれない。それでも構わない。少しでも彼女のそばへ行きたいと願ったこの気持ちにまっすぐに向き合おう、そう思った」
「そして偶然にも、俺の願いは叶ったんだ」
「廊下に居た彼女を目で追っていたら突然バッグが飛んできて……、部屋で寝ていたら夜明けにニワトリと一緒に彼女が飛び込んできて……、音楽室の掃除に小夜除けを使ったら代わりに彼女がやってきて……」
「彼女がずいぶん大事なお金を落としてしまって、差し出がましく俺が立て替えたこともあったな。なけなしの生活費だったけど、それでしばらくメシが喰えなくても構わないって、本気でそう思った」
「それから一緒に交番へ行って、そして招待されて夕メシをご馳走になって……、もうずっとドキドキの連続だった」
「彼女の料理、最高に美味いんだぜ? なんか、ちょっとドジっ子系かと思っていたのに、めちゃくちゃ料理が上手くて、弟たちから慕われてて、家庭的で温かくて……」
「正直、こんな素敵な子が現実に居るなんて、信じられないって思った」
「そして、もっと信じられなかったのは、夢の話だ。彼女と、彼女の弟たちが語った夢……」
「その夢に、俺はもうこれ以上ないくらいに打ちのめされた。それぞれが思い合い、その夢はぜんぶ愛する誰かの幸せに繋がっている……。こんな素敵なことはない」
「その寸前まで、俺は、自分の実力で再デビューしたい、彼女と一緒にユニットでデビューしたいって、そう夢見ていた。でもそれが、単なる独りよがりな夢で、母さんと同じ、自分のためだけの夢だったんだって、彼女たちの夢の話を聞いて気がついたんだ」
「それからすぐ思ったよ。俺もこんな素敵な愛情あふれる中に身をおきたい……、誰かの幸せに繋がっている夢を持ちたい……。そして、ずっと……、ずっと彼女のそばに居たい……ってな」
ダメ。
泣いちゃいそう。
「そして……、彼女のお母さんに会って、その思いはもっともっと強くなったんだ。だから、日向、俺の夢は――」
すっと伸びた彼の手が、あたしの頬に触れた。
「俺の夢は、日向……、お前を幸せにすることだ。お母さんの夢を叶えて、弟たちみんなの夢を叶えることだ」
もうっ!
目が開けられないじゃないっ!
「ぐしゅん……。もういい。もういいよ……」
あたしは熱くなった目頭をスウェットの袖で押さえて、それから彼を名前で呼んだ。
「聖弥くん」
彼がゆっくりとこちらへ顔を向けた。
彼の瞳も、しっとりと雫を湛えている。
嬉しい。
ほんとに嬉しい。
思わず両手を広げた。
すると頬に触れていた彼の手が、すっとあたしの頭を抱き寄せた。
ごめん。
あたし、素直になるね。
あたしはゆっくりと、掛布団越しの彼の胸に顔を埋めた。
彼の手が、優しくあたしの背中に回る。
ベッドから後ろへ落ちそうになったあたしを支えてくれた、あのときと同じ手。
おでこが彼の頬にぎゅうっと引き寄せられた。
聖弥くんの胸の鼓動が聞こえる。
「聖弥くん……、なんだか夢みたい」
「うん」
「でも、聖弥くんのお母さん、絶対怒ると思う。いいの?」
「うん」
ちょっとだけ顔を上げて聖弥くんの顔を見上げる。
「ほんとに? ほんとにほんと?」
「うん」
おでこに伝わる、彼の温もり。
これからどうなるか分からないけど、ずっと彼のそばに居たいって、そう思った。
「聖弥くん、あっつい。明日の朝までに熱が下がればいいけど。今日はもうこのまま休んで。でも、聖弥くんのお父さんお母さん、心配してない?」
「そうだな。一応、親父にはここを訪ねることを言ってあるが――」
そのとき突然、縁側から聞こえたドドドドっと近づく足音。
ハッ、やばいっ!
次の瞬間、ドドンと開け放たれた雪見障子。
「姉ちゃん! 大変だっ! ああっ?」
うわ、晃っ!
「ごごご、ごめんっ、姉ちゃんっ」
「あっ、いや、そんなんじゃないっ!」
思わず身を起こして、聖弥くんを突き飛ばす。
「うげっ!」
「あああ、ごごご、ごめんなさいっ! つ、ついっ」
ううっと唸る聖弥くん。
真っ赤な顔で声を張り上げる晃。
「邪魔してごめんっ! でも、姉ちゃんっ、大変なんだっ。かなり風が強くなって、ちょっとハウスがあぶないっ。それとっ、たったいま温室のガラスが割れたっ!」
「えっ? ええっ? ええええーーーーっ?」
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