第四章

[4-1] 待って、どういうことっ?三条くんが消えた!?

「脳……腫瘍?」

「うん。良性だから、切れば良くなるんだって」

 あのあと、小夜ちゃんはなぜかバッティングセンターへ行くと言い出して、翔太を引っ張って宝満農園をあとにした。

 卵焼きのことはすっかり忘れてたみたい。

 でも、あのふたり、けっこうお似合いかもね。

 ふたりが帰ったあと、あたしは弟たちの夕ご飯の用意をして、それからお母さんの病院へ。

 もう面会時間ギリギリ。

 病室の窓の外、ちょうど同じ高さの街路灯がちょっとだけ寂し気に灯っている。

「ただ、腫瘍ができている場所があんまり良くなくて、もしかしたら手術でぜんぶ切れないかもって。 そのときは、手術のあとも放射線治療が必要になるんだって」

 起き上がらなくていいって言ったのに、ベッドの上で半身を起こしたお母さん。

 やっぱり今日も辛そう。

「でも、心配しないでいいから。突然、死んじゃうような病気じゃないからね?」

「うん。手術はいつ? 手術が終わったらすぐ退院できるの?」

「手術は、まだはっきり決まってないけど、六月下旬だって。そして、退院は――」

 お母さんがちょっとだけ手元に視線を落として、小さく息を飲んだ。

 どうしたの?

 お母さん、ぜんぶ話して?

 あたし、もう小さな子供じゃないよ? 

「――退院は、まだ分からないの。稀にだけど、手術が成功しても手足に麻痺が残ったり、言葉がしゃべれなくなったりすることがあって、そういう場合は退院まで時間が掛かってしまうって」

 そうなんだ……。

「それでね? 農園のことなんだけど……」

「農園は心配要らないよ? あたしと晃たちでしっかりやるから!」

「うん……、でもね?」 

 分かってるよ?

 お母さんが言おうとしていること。

 でも、それじゃお母さんが夢を諦めてしまうことになっちゃうもん。

「お母さん?」

「日向、お母さんはもうこれ以上、日向やみんなに迷惑を掛けたくないの」

「でもっ」

 思わず、ベッドのお母さんに顔を寄せた。

 お母さんは静かに微笑んでいる。

「あのお家はしばらくはそのままで、農園だけ閉めてしまおうと思う」

「お母さん……」

「難しい話だけど、イチゴに切り替えてからずっと借り重ねてきたお金、すこしずつ返しているけど、もう……、無理かもしれない」

 苦笑いのお母さん。

 それも知ってる。

 どれくらいのお金を借りているのかは知らないけど。

「大丈夫。あたし、高校辞めて働くから。お昼は農園をやって、夜は――」

「ありがとね……、日向。でも、それはあなたがすることじゃない」

 思わず、上を見上げた。

 天井がゆらっとする。

 お母さんが、そっとあたしの手を握ったのが分かった。

「もし、お金が返せなくなったら、あのお家と土地を代わりにあげる約束になってるから、なんにも心配は要らない」

「あたしは……、あたしは……」

「吉松のおじさんにも相談したけど、もう頑張らなくていいんじゃないかって……」

 突然、頬を暖かい雫が伝った。

 イチゴ農園がなくなっちゃったら、あたしはもうお母さんの夢の手伝いができなくなる。

 お母さんに償うことも、あたしの居場所を見つけることもできなくなる。

 それはイヤ。

 お母さんがもし働けなくなっても、あたしが代わりにぜんぶやるもん。

 高校を辞めて、農園の仕事の間に短時間のアルバイトをして、夜は居酒屋さんでも働いて……、あたしが弟たちをちゃんと高校まで行かせるもん。

「日向……」

「お母さんは心配しなくていいから。いまはとにかく手術のことだけ考えててね? あたし、帰る」

「あ、待ってっ、うっ!」

「お母さんっ!」

 あたしを呼び止めたお母さんが、頭を押さえて顔をしかめた。

「お母さん、ごめんなさい。お願いだから無理しないで」

「大丈夫よ? でも日向、お願いだからあなたも無理しないで? 本当にお願い。だって三条さんが……」

 え?

 三条くん?

 彼がどうしたの?

「だって、このままじゃ三条さんがかわいそうだもの」

 かわいそう?

 あたしが目を丸くすると、お母さんは眉をハの字にしてちょっと笑って、それからゆっくりとベッドに横になった。

「三条さんがね? 晃が成人するまで自分が農園を手伝うって言ってくれたの。もし晃が農園を継ぐ気持ちがなくなったら、自分がそのまま継ぎたいって」

「え? どういうこと?」

「どういうことだと思う? 日向と一緒に、農園を頑張りたいってことでしょ?」

 お母さんが、床頭台に置かれていたハンカチタオルを取って、そっとあたしの頬に当てた。

「彼、表情には出さないけど、日向のことがとっても好きなのね。『農園を継ぎたい』って、『娘さんを僕にください』って意味だもの」

 三条くんが、そんなこと……。

「どうしてそんなに日向のことを好きになってくれたの? って聞いたら、ニヤッとして、『可愛いですから』……、だって」

 えっ?

 えーっと。

 そんなの冗談に決まって――。

「冗談ぽく言ってたけど、でも……、そのあとね? 『それに、日向には感謝しきれないくらい、救われましたから』って……。日向、彼になにかしたの?」

 救われた?

 あたし、なんにもしてないのに。

 あたしは、彼になにか特別なことをしてあげたことはないし、それよりあたしのほうがたくさん救われてるもん。

 正直、よく意味が分からない。

 あ……、でも。

『そのお前の歌は、ちゃんと誰かを勇気づけている』

 三条くんの、あの言葉。

 もしかしてあれって……。

 ゆらっとした窓の外の街路灯。

 言葉が出ない。

「お母さん、とっても嬉しい。あんな素敵な男の子が日向のことを好きになってくれて。でもね? お母さんは、彼の人生までこの農園に縛りつけたくない」

 ちょっと震えた、お母さんの唇。

「お母さんは、三条さんにも日向にも、農園なんて関係なく、素敵な恋をしてもらいたい」

 分かってるよ? お母さんの気持ち。

 これは、三条くんをお父さんみたいにしたくないってこと。

 実は、お父さんは養子だった。

 お母さんは、宝満養鶏場のひとり娘。

 お父さんとは高校の合唱部で出会ったらしい。

 お父さんのほうが、お母さんより一年先輩。あたしと三条くんと同じ。

 お母さんが高校を卒業するちょっと前に、お母さんのお父さんが病気で亡くなってしまって、お父さんはそれから養鶏場の手伝いをするようになったって。

 そして、お父さんは大学を中退して、お母さんと結婚して養鶏場を継いだらしい。

 お父さんは、本当にお母さんのことが好きだったんだと思う。

 でも、イチゴ農園に切り替えたことで、歯車が狂ってしまった。

 ぜんぶ、あたしのせい。

 お母さんは、お父さんと同じそんな思いを三条くんにさせたくないって、そんな必要ない苦労をさせたくないって、そう言ってるんだ。

「このままじゃ三条さんがかわいそうだって思う。せっかく日向を好きになってくれたのに。だから、日向。農園のことなんか忘れて、女子高生らしく、三条さんと素敵な恋をして。もしかして、十六歳になったとたん、プロポーズされるかもね?」

 もうされてます。

 めっちゃはぐらかしましたけど。

「いやー、それはないでしょ。お母さん、この話はまた今度ね? 今日はもう休んで?」

 お母さんを驚かせないように、ゆっくりとベッドから離れる。

「日向……」

「あたしも彼の夢を奪いたくない。あー、でも、どうしてあたしがOKすることが前提で話が進んでるの? あたしにも選ぶ権利があるんだけどっ?」

 そう言ってあたしが唇を尖らせると、お母さんが口を押えてププッっと吹き出した。

「日向、おやすみ。気をつけて帰ってね」

「うん。お母さん、おやすみなさい」

 音を立てないように、静かに閉めた病室のドア。

 農園は絶対に閉めない。

 お母さんができなくなったら、絶対あたしがやる。

 悪いけど、三条くんを巻き込むわけにはいかない。

 これは、あたしの夢。

 あたしだけの、あたしのための夢。 

 だから、三条くんがどんなにあたしを好きだって言ってくれても、あたしはそれに応えられない。

 ごめんね、三条くん。

 ありがとう、三条くん。


「え? 小夜ちゃん、野球部のマネージャーになったのっ?」

「ほんと困っちゃうわっ。ちょっと練習を見に行っただけなのに、あのジャガイモの集団から懇願されたのよっ?」 

 週明け、小夜ちゃんは学校に出て来た。

 どういうわけか、昨日の月曜の朝、小夜ちゃんのお家まで翔太がお迎えに行ったらしい。

 そして、小夜ちゃんは一日中、翔太にベッタリ。

 放課後は野球部の練習を見に行くと言って、翔太とふたりで早々に教室を出て行ったけど……。

 火曜の今朝、意気揚々とあたしに野球部のマネージャーになったことを話す小夜ちゃんは、なんともハレバレとした顔。

「どういうこと? 翔太」

「俺もよく分かんねぇけど、顧問の先生からの発案だったんで、おそらく立ち直り支援ってぇやつだな。水城先生の差し金だろ」

「ふうん。あんた、ほんとは小夜ちゃんのこと好きなんでしょ」

「バッ、バカ言うなっ! 俺は日向ひとすじっ……、あああ、いや、なんでもない。そっ、それより、三条が昨日も今日も休んでるらしいけど、お前、なにか知ってるか?」

「え? 三条くんが?」

 三条くんのクラスは隣。

 昨日の月曜日、確かに一度も三条くんの顔は見ていない。

 休んでたなんて、まったく知らなかった。

 どうしたんだろう。

 風邪かな。

 熱を出して寝てるのかな。

 ご飯、ちゃんと食べてるかな。

 あの部屋で、ひとりで動けなくなっていたらどうしよう。

 最後にメッセージで話したのは、日曜日の夜。

 お母さんの病気が『脳腫瘍』で、手術が終わったあともしばらく入院が必要かもっていう話を、ほんのちょっとだけした。

 三条くんの最後の返事は、【手が要るときは遠慮なく言え。ひとりで無理してなんでもやるな】だった。

 昨日の月曜日は、まったくメッセージのやり取りをやってない。

 大丈夫かな。

 放課後になったらすぐアパートへ行ってみないと。

「……なた? おい、日向?」

「あ? え? なに? ごめん、考えごとしてた」

「ふん。三条のことになるといつもそんなだな。小夜がどうしてもお前の卵焼き、ちゃんと作り方を教えて欲しいってさ。今度、時間をつくってやってくれよ」

「え? う、うん」

 うわ、翔太ったら、『小夜』だって。

 もう、そのまま付き合っちゃいなさいよ。

 まぁ、そうとう大変だと思うけど。

「あ、そういえば日向、天気予報見たか? 今夜から大雨みたいだぞ? 風も強いらしい。週末までずっと台風並みの集中豪雨が断続的に来るってよ」

「え? そうなんだ。早く帰ってハウスの補強しとかないと」


【学校休んでたんだね。具合悪いの? ご飯、ちゃんと食べてる?】

 校門を出てすぐ送ったメッセージには、結局、我が家に帰り着いても返信はなかった。それどころか、既読にもならない。

 どうしたんだろう。

 まさか、倒れてるんじゃ……。

 なんだか胸騒ぎがする。

 風が強い。

 玄関戸がガタガタと鳴っている。

「ただいまっ、行ってきます」 

 あたしは、家に入ってすぐ土間から居間へ向かってバッグを放り投げると、それからまた外へと引き返した。

 左を見る。

 雑木林がザワザワと葉を鳴らして揺れている。

 庭の向こう、温室の先、石垣の上。

 三条くんのアパートは、いつもと同じ。

 真っ黒な雲が、アパートの横の揺れる雑木林の上を、まるで煙のように流れている。

 思わず駆け出した。

 雑木林のトンネルをくぐる。

 卵の自販機越しに、『星降が丘』から下ってくるメインストリートが見えた。

 信号待ちしている、たくさんの車。

 三条くんが、あたしをおぶって運んでくれた道。

 びゅうびゅうと耳をかすめる風。

 見上げると、もういまにも雨が降り出しそう。

 雑木林が切れたところで、アパートへ続く砂利道へ駆け入る。

 砂利が弾かれる音。

 見えた。

 三条くんのアパート。

 二階へと続く、象の鼻のような鉄製の外階段は、相変わらずボロボロだ。

 でもなぜか、今日はぜんぜん怖くない。

 あちこち開いているサビだらけの穴なんか目もくれず、あたしは足がちぎれるくらい力いっぱい階段を駆け上がった。

「三条くんっ!」

 ドアを叩く。

 返事はない。

 どうしたの?

 「三条くんっ! 三条くんっ!」

 もっと激しくドアを叩いても、まったく反応は無し。

 あーっ、もうっ!

 思わず、ドアノブに手を掛けて思いきり引っ張った。

 うわっ!

 なんの抵抗もなく開いたドア。

 カギが掛かっていない。

「三条くんっ! 入るよっ?」

 そう声を張り上げて、あたしは部屋の中へ踏み込んだ。

「え……? どういうこと……?」

 薄暗い、三条くんの部屋。

 息を大きく吸って、もう一度、落ち着いて見回す。

 ない。

 なにもない。

 ベッドも、テーブルも、マグカップも……、なんにもない。 

 ローファーを脱いで、そっと板張りへ上がる。

 あたしが不法侵入したお風呂場は窓がしっかり閉められていて、お風呂のフタが手前の壁に立て掛けられていた。

 畳の部屋にはカーペットだけが残されていて、その真ん中に、あたしが足を引っ掛けたガラステーブルの脚の跡が、ほんの少しくぼんで残っていた。

 どういうこと?

 先週末まで、お部屋には灯りが点いていたはずなのに。

 振り返って台所のほうを見ると、流しの下の隅っこにポツンと不燃物の袋が置かれていた。

 何気なく、袋の中を見る。

 入っていたのは、たくさんのガラス瓶。

「これって……」

 ぜんぶ、ぜんぶ、あたしのジャムの空き瓶。

 そして、そのいくつかの瓶の中には、小さくてシックなメッセージカード。

『とっても美味しかったです。また楽しみにしています』

 あの郵便受けに入れられていたジャムの空瓶のメッセージとまったく同じ、その文言。

 どういうこと?

 あれって、三条くんだったの? 

『あああ、あの、ごっ、ご飯はどうしてるの?』

『メシか? 外食はあんまりしないな。買って来たものを食うことが多い。一番食うのは食パンだな』

 もしかして、食パンって、あたしのジャムを食べるため?

 もうっ、なんなの?

 お礼を言わせてよ。

 どこに行ったの?

 これはなに?

 引っ越し?

 あたしには、ひと言もそんなこと……。

「日向ちゃん」

 うわっ。

 びっくりした。

 突然、後ろから掛かった声。

「やっ、山家さんっ」

「ごめんよ。びっくりさせて」

 開いたままのドアに手を置いて、こちらを覗き込んでいたのはお隣の山家さん。

 山家さんなら、なにか知ってるかも!

「ねぇ、これ、どういうこと? 三条くん、どっか行っちゃったの?」

「すまねぇ。俺のせいだ」

「え? 山家さんの……せい?」

 もっと意味が分からない。

「聖弥くん、お母さんの説得を受け入れて、昨日、家に帰って行ったよ」

「説得?」 

 山家さんが、ゆっくりと板張りに腰をおろして土間に足を投げ出した。

 聞こえた大きなため息。

 ポケットから取り出した、一枚のカード。

「俺、聖弥くんの監視役だったんだよ」

 監視役?

 山家さんがあたしに見せたのは、カラーで印刷されたちょっと品のいい名刺。

『株式会社三条建設 建築デザイナー 山家健人』

 ええ?

 待って、どういうこと?

 山家さん、在宅で仕事しているなんちゃってデザイナーだって……。

「日向ちゃんには悪いけど、三条くんが日向ちゃんと仲良くしていることも、ずっと報告してた」

「報告っ? 誰に?」

「聖弥くんのお母さん、つまり、俺からすれば社長夫人だ」

 遠くで聞こえ始めた、ザーっと重たい雨の音。

 土間の外、開け放たれたドアの向こうのコンクリート通路の色が、みるみるうちに濃い灰色に変わっていく。

「えっと、ちょっと急すぎて、よく意味が分からないんだけど」

 あたしがポカンとして板張りにゆっくりと座り込むと、山家さんはドアの外へ目を向けたまま、独り言のように言葉を続けた。

「俺、大学卒業してからずっと、三条建設で建築デザイナーやってんだ。このアパートは三条建設の持ち物で、社宅代わりに住まわせてもらってる」

「聖弥くんが、俺の隣の部屋に通い出したのは、去年の春。社長からは、『お前の隣を勉強部屋として使わせるからよろしくな』って笑って言われた。でも、そのあと、社長夫人から別に呼ばれて、命令だって言われて」

『山家くん、あなたの隣の部屋が聖弥の勉強部屋になるから、あなたは聖弥に「悪い虫」が付かないようにちゃんと監視するのよ? そして毎日、聖弥の様子を必ず私に報告するの。いいこと?』

「そりゃ、抵抗があったよ。スパイみたいなもんだからな。でも、不思議だろ。家はすぐそこなのに、なんで通いの勉強部屋が要るのかって」

「詳しくは教えてくれなかったけど、とにかく名門私立高校に入学させるためだって、そう言ってた。どうも、中学三年現役のときの名門私立受験は全滅だったらしいし」

「社長も同じ気持ちだったのか、『受験勉強は、家を離れた集中できる環境で』って言って、この部屋を彼に与えたみたい。だから去年一年、彼は、寝泊り以外はずっとこの部屋で過ごしてたんだ」

「それなのに、なぜか聖弥くんは今年、お母さんが合格を願っていた名門私立高校を一校も受験しなかった。それどころか、お母さんが一番嫌がっていた、地元の公立高校、日向ちゃんの高校を受験して、そして進学したんだ」

「そのうえ、もう受験は終わったのに、家に帰らないでここで独り暮らしするなんて言い出したもんだから、お母さんはもう怒りまくって手がつけられなかったみたい」

「でも、入学してすぐ、聖弥くんが『高校生の間にいろんなオーディションを受けて、実力での芸能界復帰を目指す』って言ってたと報告したら、お母さんはそれでだいぶ落ち着いたみたいでさ」

「ごめんよ、日向ちゃん。この春のイチゴの旬のときから、日向ちゃんのことを報告する機会が多くなった」

「そして、ついこの前、仕方なく報告したんだ。『聖弥くんが、もう芸能界復帰はやめて、隣の農園の手伝いをやりたいって言ってます』って」

 そこで、山家さんは言葉を切った。

 あ……、それって、彼がお母さんに言ったのと同じ。

 三条くん、本気だったんだ。

 本気で、あたしと一緒に農園を頑張ろうと思ってたんだ。

「それで昨日、お母さんがここへ来て、そして聖弥くんと話して……」

「聖弥くん、俺にはなんにも言わなかったけど、俺がお母さんに情報を流していたことに……、たぶん気づいていたんだと思う。お母さんが来ても驚かなかったし……」

「きっと、分かってて、敢えて、その決心を俺に話したんだ」

 そっか。

 でも、そこでちゃんとお母さんの気持ちを聞いて、そして思い直したんだね。

 それが一番いい。

 そうでないと、三条くんのお母さんがかわいそう。

 三条くんのことを思うあまり、ちょっと厳しくなってるのかもだけど、でも、子どもを想わない親はいないもん。

 お母さんが三条くんを大切に思っている気持ちが、ちゃんとまっすぐ彼に伝わっていないだけだもん。

 これでいい。

 これでいいの。

「だから、日向ちゃん……、聖弥くんのお母さんは、たぶん、日向ちゃんのこと……」 

 山家さんが、ゆっくりとあたしのほうを向いた。

 メガネの奥の瞳が、ちょっとうるうるしている。

 大丈夫だよ? 山家さん。

 ちゃんと分かってるから。

 これって、山家さんが悪いんじゃないもん。

「じゃ、あたしは、三条くんのお母さんからすれば、彼に付いちゃった、めっちゃ『悪い虫』だね」

 あたしのせいだ。

 あたしのせいで、三条くんのお母さんの夢まで壊してしまうところだった。

「ごめん。ほんとにごめん」

「大丈夫。あたし、なんとも思ってないよ? だって、山家さんの報告は仕事なんだし、お母さんだって、三条くんのことが心配だから様子を知りたかったんだし」

「日向ちゃん……」 

「気にしないでね。でも、あたし、ちょっとだけ気持ちの整理が必要かも……。山家さん、教えてくれてありがと。もう、帰るね。風がもっと強くなる前にハウスの補強しないと」

 山家さんが傘を貸してくれるって言ったけど、大丈夫って言って階段を駆け下りた。

 空っぽになった三条くんの部屋を見て、初めて、彼が居なくて寂しいと思った。

 ううん、初めてじゃないね。

 いままで、何度も何度もそう思った。

 声が聞きたい、隣に居て安心したい、そう思った。

 でも、それは望んではいけないことだって、そう自分に言い聞かせてた。

 あたしには、人を好きになる資格なんてない。

 三条くんに、好きになってもらう資格なんてない。

 お父さんとお母さんの幸せを壊して、弟たちの未来を壊して、三条くんのお母さんの夢まで壊してしまうところだった。

 でも、彼がちゃんと納得して、お母さんのために頑張るって思い直してくれたのなら、それが一番いい。

 彼は、たくさんの人に囲まれて、そのまなざしを集めて、自分を自分らしく表現するのが似合っている。

 彼の人生は、とっても素敵な主旋律。

 その主旋律は、『ソプラノ』のように華やかで輝かしい。

 あたしは、その『ソプラノ』を、少し離れた場所で支える『アルト』がいい。

 三条くんの隣に、あたしは似合わない。

 彼に、イチゴ農園の仕事なんて、まったく似合わない。

 これでいい。

 これでいいの。

 だからね? 三条くん。

 あなたはあたしのことなんてほっといて、素敵な主旋律の人生をまっすぐ歩いて行って。

 あたしは……、あたしは大丈夫だから。


「うわ、姉ちゃん、どうしたんだよ。ずぶ濡れじゃねぇか」

「あ……、晃。ごめん、ちょっとタオル取って」

「帰って来たらバッグが居間でひっくり返ってるし、どこ捜しても姉ちゃんは居ねぇし。どこ行ってたんだよ」

「ごめんね? 風が出て来たね。ハウス大丈夫かな」

「その前に、すぐシャワーしろよ。風邪ひいちまう」

 足元の土間に、ぽたぽたと落ちる水滴。

 制服スカートの裾が、まるで泣いているみたい。

 トントンっと飛んで水滴を落として、後ろ髪をギュッと絞った。

「ほら、タオル」

 心配そうな晃。

 ごめんね。

 わけはあとで話すから。

 居間から一段下りて、晃がタオルを持った手をこちらへ伸ばした。

 その瞬間、玄関の外で地面を叩く雨の音が一層激しくなって、ピカッと稲光が走った。

 そのときだ。

 玄関戸の模様ガラスの向こうに見えた、誰かの影。

 ドン、ドン……。

 続けて、その影が弱弱しく玄関戸を叩いた。

 誰?

 もう、いつもなら日が暮れる時間。

 晃から受け取ったタオルを首に掛けて、あたしはゆっくりと玄関戸へ近づいた。

 えっ? もしかして、このシルエットはっ。

「三条くんっ?」

 思わず、吹っ飛ばすように戸を開けた。

 すると、そこに立っていたのは……。

「日向……、実はちょっとわけがあって、今夜――」

 ずぶ濡れの、三条くん。

 ずいぶん古い型のセイラーバッグを手にぶら下げて、頭ふたつ高い瞳がそっとあたしを見下ろしている。

 前髪からぽたぽたと雫が落ちていた。

 そのぽたぽたと、あたしの目の前のゆらゆらが重なる。

「わけ? どうでもいいようなわけだったら、許さないんだから」

「え? いや、話すと長く――」

「山家さんから聞いたもん。なにしに来たのっ?」

「えっと、なにしにって……、その」 

「ちょっと、頭を出しなさいっ!」

 思いきり背伸びをして、肩のタオルをバッと広げた。

 目を丸くした三条くんが、ちょっと首をすくめて腰を折る。

 もうっ! 

 なによ、なによ、なによっ!

 なんで戻って来たのっ!

 主旋律の人生をって、せっかく見送ったのにっ!

「日向……」

「もうっ! 風邪ひいたらどうするのっ! 熱を出しても看病してあげないんだからっ!」

 あたしは思わず、タオルを三条くんの頭にかぶせて、それから思いきり胸に引き寄せて抱きしめた。

「うげっ」

「うげっじゃないっ! なんにも知らせないで、どういうつもりっ? ほんとに許さないんだからっ!」

 三条くんを抱きしめたまま、土間に座り込む。

 すると、いままでずっと胸の奥でチクチクしていた痛みが突然、グッと喉に押し寄せた。

 なんで?

 なんで涙が出るの?

 悲しくないのに……、辛くもないのに……。

 どうしてなのか、自分でも分からなかった。

 気がつくと、あたしは三条くんを抱きしめて、大声で泣いていた。

「ううっ、うううっ、うわぁぁぁーーーん!」

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