第二章
[2-1] まだ終わらないで! 溶け合うハーモニー。
「かなり治ったわね。もうキズテープ貼らなくていいんじゃない?」
「そうですか? えへへ、よかった。すっごく恥ずかしかったんで」
水城先生は、きょうもすっごくキレイ。
最近は、お昼休みになると、こうして保健室にお邪魔することが多い。
実はあれから、三条くんとはぜんぜんしゃべってない。
「でぇ? あの三条聖弥から誘われたっていう話、結局どうなったのよ」
「え? あー、いま、イチゴが旬でとっても忙しいし、あたし、そんなよく知らない男の子と一緒に歌なんて歌いたくないし」
「ふぅん。まぁ、正解かもねぇ。あいつ、ちょっと面倒くさそうだから」
「いいんですか? 先生がそんなこと言って」
あたしの足から剥いだキズテープをクシャっとして、ゴミ箱に放り投げた水城先生。
先生は、あんまり三条くんのこと好きじゃないみたい。
「私はさぁ、ああいう『俺、金持ちで、イケメンで、めっちゃスゴイっしょ』みたいなやつが一番嫌いなのよねぇ」
「あはは。でも、そこまではない気もするけど」
「へぇー、もしかして、パンツ見せろなんてデリカシーのないこと言われたのに、けっこう好きになっちゃった?」
勘弁してください。
あたしも、ああいうタイプは苦手です。
結局、あの「俺と一緒にプロを目指そう」には、「あたしは別にプロになんてなりたくない」って即答した。
確かに、彼の歌はスゴイと思った。
そりゃ、CD出したことあるくらいだし、一般人とは違うよね。
でも、あのデリカシーのなさと傲慢な感じは、どうしても好きになれない。
先生の話によれば、三条くんは先生たちの間でもけっこう有名らしい。
どうも、入学前に三条くんのお母さんが学校へ来てちょっとトラブルがあったらしくて、それでみんな知ってるんだって。
どんなトラブルだったのかは、詳しく教えてくれなかったけど。
「イチゴの旬って、どんなことしてんの?」
「あー、とにかく摘んで詰めて、摘んで詰めて、です。お昼はお母さんがひとりで摘み取りやってるんで、あたしは帰ってから箱詰めのお手伝い。それと、夕ご飯の用意とお洗濯!」
「うわぁ、大変。夜遅くまでやるの?」
「はい。でも、いまの時期だけなんで。これを乗り切っちゃえば、あとは冬になるまでは子苗作りだけでイチゴはお休みだし」
「ふぅん。あんまし無理しないようにね」
あたしは大丈夫。
無理をしているのは、お母さん。
この一年、お父さんのぶんまで頑張って、たぶんもうクタクタになっているはず。
あたしは、お手伝いをすることしかできない。
本当なら高校も辞めて、ずっとお母さんのお手伝いをやりたいんだけど。
今日は、ちょっと重要なお手伝いを任せてもらった。
帰りに農協の裏の箱屋さんへ行って、追加でお願いしたイチゴの箱の代金を支払うという重要な任務。
それが終われば、早くお家へ帰って夕ご飯の支度をしないと。
あたし、ちょっとはお母さんの役に立ててるかなぁ。
「ジャム子っ、あんたいまから、アタシの代わりに音楽室の掃除に行くのよっ」
「……はい?」
今日は特別教室の清掃日。
週に二回、図書室や音楽室などの特別教室を、放課後にそれぞれの委員が清掃することになっている。
小夜ちゃんは、音楽委員。
あたしは農園の手伝いがあるので、先生が委員から外してくれた。
「アタシを差し置いて聖弥くんと歌の話をした罰よっ! 思い知りなさいっ!」
はいはい。思い知らせていただきます。
「もうっ、悔しいっ! 聖弥くん、アタシが一緒に合唱やろうって誘ったらソッコーで断ったのに、あんたとは一緒に歌いたいだなんてぇっ!」
「あー、ところで小夜ちゃん。あたし今日、用事があるの。音楽室の掃除はできないなぁ」
「はぁ? そんなの認めないわっ! アタシも用事ができたのよっ。あんたの用事より、アタシの用事のほうが重要であることは間違いないわっ!」
そうですよね。
小夜ちゃんの用事のほうが重要に決まってます。はい。
ガタガタと椅子を鳴らしてみんなが教室を出て行く中、小夜ちゃんがあたしの前に立ち塞がってアゴをしゃくっている。
こういう感じになったときは、もうどう言っても彼女は引き下がらない。はいはいと言うことをきいてあげたほうが、ムダな時間を取られなくて済む。
まぁ、でも代わりを頼むということは、一応、掃除に対して責任は感じているっていうことよね。
サボってしまおうってならないところが、小夜ちゃんらしい。
「分かった。仕方ないな。あたしが代わりに行ってあげる」
「当然よっ! もうひとり、ほかのクラスの委員が来るから、力を合わせてやりなさいっ!」
ぷいっと背中を向けて歩き出す小夜ちゃん。
あー、箱屋さんが営業しているうちに支払いに行けるかなぁ。
しかーし。
ふふふ。
こんなこともあろうかと、今日、箱屋さんへ支払うお金は、あらかじめ持って来たのです。
これは、お母さんにはナイショ。
本当は、昨日の夜、お金をお母さんから預かったとき、「学校には持って行かないで、一度家に取りに帰ってきてから行ってね」と言いつけられた。
でも、箱屋さんは高校のすぐ近くだし、お金を取りに帰って時間をとられると夕ご飯の支度やお洗濯も遅くなって、箱詰めのお手伝いをたくさんできなくなっちゃうかもしれないし。
だから、こっそり持って来ちゃったの。
音楽室の掃除で少し遅くなるかもだけど、お家に一度帰らなくていいから、セーフ。
音楽室は、渡り廊下の向こうにあって、上から見るとカタツムリのツノみたいに校舎から突き出ている。美術室も同じ。
さぁ、さっさと掃除を済ませてしまおう。
そう気持ちを切り替えて渡り廊下をとっとこ走っていくと、ちょうど半分くらいのところでピアノの音が聞こえた。
誰かが音楽室でピアノを弾いている。
手前にある音楽準備室は戸が開いていて、中には誰も居ない。椅子が引かれた高橋先生の机が、ちょっと寂しそう。
髙橋先生が弾いているのかな。
そのまま準備室の中を通って、それから音楽室へ入る扉をそっと開けた。
うわ、なんで居るの?
そこには、想像もしていなかった……、彼の姿。
グランドピアノに向かっている、三条聖弥くん。
その隣には、三条くんの手元を覗き込みながら、なにか教えている様子の高橋先生。
え?
三条くん、ピアノ弾けるんだ。すごい。
でも、なんかちょっと難しい話。
コードがどうとか……、和音の話かな。
「そうだね。この進行でちょっとだけジャズ風のテイストを足すなら、ここにオーギュメンテッドを挟むといいよ」
「なるほど……、ん?」
あ、やば。
ゴチッ!
痛ぁぁーーいっ!
顔を引っ込めた瞬間、ドア枠に思いきりぶつかった頬。
思わず両手で頬を押さえてしゃがみ込む。
ううう……。
そして、じわっと目を開けると……。
「お前。こんなとこでなにしてんだ」
うわ、出た。
子供に話し掛けるみたいに、膝をついてあたしの顔を覗き込んでいる三条くん。
ズバッと立ち上がる。
「あああ、あたしはっ、そのっ、小夜ちゃんの代わりに掃除当番をっ」
「え? お前が代わりに来たのか……。あー」
なに?
どういうこと?
「そりゃすまなかったな。小夜に用事を作らせたのは……、俺だ」
「はぁ?」
「こんなもんでいいか。けっこう砂が上がるんだな。渡り廊下のせいか」
小夜ちゃんが言った『もうひとりの委員』は、三条くんだった。
四組の音楽委員だって。
小夜ちゃんは、一緒に掃除する当番が三条くんだって知らなかったみたい。
彼の話によると、小夜ちゃんの用事はネイルサロン。
今日の三組の当番が小夜ちゃんだという情報を入手した三条くんが、彼女に駅前のネイルサロンの無料お試し券をあげたんだとか。
なんでそんなもの持ってるのよ。
「小夜
なるほど。
どうも、そのネイルサロンは三条くんのお父さんの友だちのお店らしい。
「先に出て。あたし、音楽室のカギ、職員室に返してくる。三条くん、先に帰っていいよ」
ピアノの上のカギに目をやりながら、「さぁ、行って行って」と三条くんに手を振ると、彼はバッグのストラップに手を伸ばしたところで、突然動きを止めた。
え? なに?
彼がすっと視線を上げる。
「お前、『翼をください』って歌、知ってるよな」
はい。もちろん知ってますとも。
お父さんとお母さんが大好きな歌で、あたしも温室で水やりするときによく歌ってるし。
答えずにいるあたしの目をじっと見つめると、それから三条くんはバッグに伸ばした手を引っ込めて、ゆっくりとピアノのほうへ歩き出した。
カタンとピアノの椅子が引かれる。
なんなのよ。
あたし、箱屋さんへ支払いに行かないといけないんだけど。
そう言おうとピアノのほうへ一歩踏み出すと、あたしのことなんかお構いなしに、バーンと清潔感のある和音が響いた。
突然、ピアノを弾き出した三条くん。
これは、『翼をください』のイントロだ……。
なに?
あたしに歌えってこと?
グランドピアノに向かう三条くんの横に立って、茫然とするあたし。
知らず知らずのうちに、鍵盤を叩くその繊細な指先に目を奪われていると、イントロに続いて、もうこれ以上にないくらい澄んだ甘い声がふわりと広がった。
「♪ Mu~」
三条くんのハミング。
キレイな声。
伴奏が進んでいく。
そして、サビに差し掛かる寸前、その吸い込まれそうな彼の瞳が、スーッとあたしを捉えた。
思わず息を吸う。
「♪ この~」
勝手に声が出た。
急に背筋が伸びて、ちょっとだけかかとが軽くなる。
揃えたつま先まで浮き上がるみたいに、スーッと心の中に青空が広がった。
手元に目を落とした三条くんが、もう一度あたしを見上げる。
彼もあたしに合わせて、ハミングを歌詞に変えた。
素敵なテノール。
彼のテノールとあたしのアルトがオクターブ越しに重なって、透明に湧き上がるハーモニーの泉になった。
楽しい。
歌うって、本当に楽しい。
彼のピアノが弾く弦の響きが、頬を優しく包んでいる。
素敵、素敵、素敵。
本当に素敵なハーモニー。
ああ、もうすぐ終わってしまう。
待って。
まだ終わらないで。
もう少し、もう少しだけ、このハーモニーの中に溶けていさせて。
「♪ ――たい~」
バーンと響いた和音。
その和音は力強く音楽室の隅々まで染みわたると、それからしっとりと空気に溶けて消えた。
三条くんは鍵盤に手を置いたまま、まだ下を向いている。
あたしは最後に深く吸った息を、長くゆっくりと吐いた。
鍵盤から手を離した三条くんが、椅子の背もたれに寄り掛かりながらあたしを見上げる。
「やっぱり、いい声だ」
そうかなぁ。えへへ。
え?
あたし、褒められたの?
「お前、どう聴いても音域はソプラノだな。このキーじゃ低くてちょっとキツイだろ。どうして合唱部ではアルト専門だったんだ?」
「え? あー……」
別に、アルトを専門にしてたわけじゃない。
そりゃ、ソプラノは主旋律が多いから、『ガオカ』の子がみんなやりたがるし。
パートの最大人数は決まってるから、結果的にあたしはいつも別のパートになってたってだけで……。
あたしはね? パートはどこでもよかったの。
あたしは、ハーモニーの中に入れてもらえるなら、パートなんてどこでも構わない。もちろん、音域が違えばキレイな声では歌えなくなってしまうけど……、別に構わなかった。
中学生の部活動なんだから、みんなが楽しく歌えることが一番。
それに……、あたしは人と争ってまで歌いたくなかったもん。
「えーっと、あたし、あんまり目立つのは好きじゃないし。歌が歌えるならパートなんてどこでもいいの」
「へぇ」
ちょっと口を尖らせた三条くん。
なに? あたし、なんか変なこと言った?
三条くんは、その尖らせた口のままじっとあたしを見て、それからポツリとつぶやいた。
「もったいねーな」
え? よく聞こえなかった。
ガタンと椅子が鳴って、三条くんがゆっくりと立ち上がる。
うわぁ、またなんか怒ってるの?
ほんと、どこに不機嫌のスイッチがあるのか分かんない人。
思わずちょっと肩を強張らせてキヲツケすると、立ち上がった彼はゆっくりとあたしを見下ろして、ちょっと膝を曲げてあたしの顔を覗き見上げた。
「なぁ、六月にユアシスプロモーションが主催するオーディションがあるんだが――」
ん?
「お前、俺と一緒にそのオーディションに出ないか?」
「おっ、おっ、おーでしょんっ?」
いやいやいや、謹んでお断りしますっ。
そんなの三条くんが『ガオカ』の子たちに声を掛ければ、すぐたくさん希望者が現れるでしょうに。
「お前と俺が一緒に歌えば、充分に可能性があると思うんだ」
うわっ、そんなに顔近づけないでっ。
「そしていずれは、ふたりで作詞作曲した歌を世に出して――」
ふぅん……、作詞作曲かぁ。
あー、それで高橋先生にレッスン受けてたのね。
それにしても、なんであたしなんだろ。
一歩さがって、ちょっと肩をすぼめて彼を見上げた。
「あああ、あのっ、あたし、基本的に目立つのは苦手だからっ、そのっ、おーでしょんとかは、ちょっと……。そっ、それに、そもそも物理的に不可能っていうか……」
「物理的に? 農園の手伝いで忙しいってことか?」
「えっと……、うん」
微妙な沈黙。
不意に、壁の時計のチッチッという音が耳元のすぐそばで鳴っているような気がした。
三条くんの唇の端がグニャリと曲がる。
そんなに理解できないこと?
家業のお手伝いしている子、あたし以外にもたくさん居ると思うけど。
あっ、お手伝いっ!
早く箱屋さんに行かないとっ!
「まぁ、どうしてあたしなのか分かんないけどっ、そういうことだから勘弁してね? カギ、あたしが返しとくから先に帰ってっ」
バッグを肩に掛けながら、ピアノの上の音楽室のカギに手を伸ばす。
すると突然、三条くんがそれをパッと横取りした。
え? なに?
「カギは俺が返す。お前、すぐ帰るのか? ちょっとコーヒーおごらせろよ。お前が小夜の代わりに来ることになった詫びだ」
「え? いやー、あたし用事があるから」
「あ? オーディションの話はもうしないから心配するな」
うわぁ、また怖い顔。
「そうじゃなくて、本当に用事があるの。このお金を箱屋さんに持って行かないと――」
ん?
あれ? 確かにここに……。
ハッ? ない。
三条くんに封筒を見せようと手を入れたバッグのサイドポケット。
今朝、間違いなくここに入れたはずなのに……、手応えがない。
ひぇぇぇぇ!
ないっ!
お金が入った封筒がないっ!
ドサリとバッグを足元に投げ置いて、しゃがんでもっと深くポケットに手を突っ込む。
「ん? どうした」
「えっと……、なんでもない」
「いや、お前、嘘が下手すぎだろ」
そりゃー、嘘の笑顔がとってもお上手なあなたに比べれば……、いやいやいや、そんなことどうでもいい。
なに?
どういうこと?
今朝、間違いなくこのポケットに封筒を入れたはずなのに。
えええ? どっ、どこで落としたんだろうっ。
「そそそ、そのっ、三条くんっ、にはっ、関係っ、なっ、いもん」
「カタコトになってんぞ。お前、なんか失くしたんだな?」
バッと立ち上がる。
こうしちゃいられないっ。
「ごめんっ。カギ、返しに行ってくれる? あたしちょっと用事がっ――」
「待て」
グイッと引かれた手。
「正直に言え」
うわぁ、怖いよぅ。
そんなに顔近づけないで。
頭ふたつ高いところから、三条くんが鬼の顔で見下ろしている。
「えええ、えーっと、今日はっ、その、イチゴの箱の業者さんに、だっ、代金を支払いに行かないといけなくてっ――」
「まさか、その金を失くしたのか。いくらだ?」
「いや、お家に置き忘れてきたのかもしれないしっ。とりあえず、いったんお家へ戻って――」
「いくらだっ?」
ぴえぇぇん。
なんでそんなに怒ってるのっ?
「その……、に、二万……五〇〇〇円」
一瞬きょとんとして、それから、はぁーっ……と、深い深いため息をついた三条くん。
いや、ほんとにもう急ぐんで。
「あああ、あのっ、カギっ、よろしくねっ! ごめんっ」
とりあえず、お家に帰れば、辞書に挟んだお年玉がある。
いまならまだ、箱屋さんの営業時間中に間に合うはずだ。
仕方ないっ、捜すのはそのあとっ。
うわっ。
またもや、グイッと手が引かれた。
「ちょっと待て。その箱屋ってのはどこだ。もう閉まるんじゃないのか?」
「もうっ! 急ぐって言ってるでしょっ? 箱屋さんはそこの農協の裏っ!」
「近いな。それなら先に支払いに行こう。捜すのはそれからだ」
「だからっ、お金は家に帰らないとないのっ!」
「うるさいっ!」
うわぁ、もう本気で怖いよぅ。
え? なに?
あたしを睨みつけながら三条くんがお尻のポケットから取り出したのは、それはそれは立派な皮のお財布。
彼が唇の端をしかめながら、チラリとその財布の中に目をやる。
おおう、いかにも『ガオカ』っぽいお財布だ。
あたしの赤リボン白猫の小銭入れとは大違い。
「家に帰っている暇はないだろ? すぐ行くぞ」
「え? でも……」
ギロリとあたしを睨みつけた三条くん。
「俺が立て替えてやる。二万五〇〇〇円だろ? それくらいはいつも持ち歩いてるから心配するな。さっさと支払いを済ませて捜すほうに専念するぞ」
「え? ええ? ええぇぇーーっ?」
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