[1-3] 彼の夢を? どうしてあたしが?

 なんでなんでなんでっ?

 どうしてここに三条くんが居るの?

「こっ、こら、あっち行けっ!」

 バサバサと羽を広げてベッドから飛び降りるベートーベン。

 そのベッドの上で壁に背をつけて、身をよじっているパジャマ姿の三条くん。

 そしてその三条くんに飛び乗って、しがみついているあたし。

 頭の中がごちゃごちゃ。

 目が覚めたら、小屋に居るはずのニワトリたちが庭を歩き回っていて……、居なくなったベートーベンを捜していたらこの部屋にたどりついて……、そしたら三条くんが居て……、えーっと。

「おい、いつまでそうしてるつもりだ」

「へ?」

「へ? じゃない。早く降りろ」

 ハッと我に返る。

 うわぁぁ! あたしっ、なにしてるのっ?

「ごごごっ、ごめんなさいっ!」

 あわわと彼の胸を掴んでいた両手を離して、思わずのけ反る。

 ありゃ、後ろは手をつくところがないっ。

「こらっ、危ない!」

 突然、ぎゅんと近くなる彼の顔。

 頼りなく傾きかけた背中が、ギュッとなにかに支えられた。

 反動でふわりとなった髪が彼の顔に掛かる。

 えっ?

 うわぁぁ、三条くんの手が背中にっ!

「ごごごっ、ごめんなさいっ!」

「ごめんはもういい。気をつけて降りろ」

「は、はいっ」

 今度はゆっくり体をよじって、彼に背中を向けてベッドの下に足を伸ばす。

 あ、ベートーベンが台所のほうに……。

 痛いっ!

 えっ? 

 足に力が入らないっ。

「おい、お前、ケガしてるぞ」

 ベッドの縁に腰掛けたあたしを後ろから覗き込んで、三条くんがちょっと大きな声を出した。

 お日さまが本気を出し始めて、もうずいぶん明るくなった部屋。

 よく見ると、右足のスネあたりのスウェットが赤黒く汚れている。

 あっ、三条くんのベッドのシーツまで汚れてるっ!

「ごごご、ごめんなさいっ。シーツ、弁償するっ」

「シーツ? ああ、こんなのどうでもいい。こりゃ、さっきテーブルにぶつかったときだな。大丈夫か?」

「だ、大丈夫っ! すぐにベートーベンを連れて帰るからっ!」

 そっとあたしをよけながらベッドを降りて、ゆっくりとこちらへ向き直った三条くん。

 なにかびっくりしたような顔。

「えっと……、なに? ベートーベンがどうした」

「え? あああ、その、ベートーベンは、あの……、雄鶏の……、名前」

「は?」

 三条くんが、スーッと台所のベートーベンに目をやって、それからまたすぐあたしに視線を戻した。

「ニワトリに、ベートーベン?」

「え? あ、その、この子、ヒヨコのときに小屋を修理してくれた大工さんにすっごく懐いて、ずっと後ろをついて回ってたんで……」

「大工さんって、もしかして、交響曲第九番の『第九』と掛けてるのか?」

「えっと、……うん」

 一瞬の沈黙。

 それから、三条くんはこれでもかという呆れた顔になって、深い深いため息をついた。

「はぁ……、まぁ、そんなことはどうでもいい。お前、その足じゃ、歩いて帰れないだろ」

「え? あ、大丈夫っ! すぐにベートーベンを――」

 元気よく立ち上がる。

 いいい、痛ぁぁぁいっ!

 突然、右足に激痛が走った。

 やっぱり力が入らない。

「お前は子どもか。ヒビが入っているかもしれないな。すぐに冷やして、病院へ行ったほうがいい。今日は学校休め」

「え? いや、今日は初めての音楽の授業があるから」

「そんなのどうでもいいだろ。とにかく病院へ行け。とりあえず家まで連れて行ってやる。隣のイチゴ農園だろ?」

 そう言って、あたしの前に背中を向けてしゃがんだ彼。

 どうして、あたしの家が隣の農園って知ってるの?

 それよりも、なに? これって、おんぶして運んでくれるってことっ?

 ちょっと待って。

 そんなことしてもらったら、あたしっ、もう二度と立ち直れなくなってしまう。

「い、いや、大丈夫っ。ひとりで戻れるからっ! ほんと、ごめんなさいっ!」

「うるさいっ。大人しく乗れっ」

 あ、怒った。

 怖いよぉ。

 もうっ、仕方ないっ!

「おっ、おっ、お願いしますっ!」

 ちょっと裏返った声。

「それでいい」

「……うん」

 ゆっくりと彼の背中に体を預ける。

 心臓の音が聞こえてしまいそう。

 彼があたしを背中に乗せてよいしょっと立ち上がったとき、台所の流しでじっと目を閉じて瞑想しているベートーベンが目に入った。

「あ、でも、ベートーベンが」

「ニワトリはあとでいい。俺が連れてくる」

「でもでも……」

「大丈夫だ」

 そう言って、彼はドア前の土間まで行って、あたしを落とさないように体を前に倒したままトントンとローファーを履いた。

「靴は?」

「え? えっと、サンダル履いてた。お風呂場の窓の外かも」

「そうか」

 そう言いながら、彼が扉を押し開けると、もう外はすっかり朝。

 少しでも彼の腕に掛かる体重を軽くしようと、ちょっと恥ずかしいけどしっかりと彼の首に腕を回して、ギュッと頬を寄せてしがみつく。

 そのとき、彼の肩越し、お風呂場の窓の下に、バラバラのほうを向いて転がっているサンダルが見えた。

「あれか? お前のサンダル」

「う、うん」

 うわぁ、子どもが脱ぎ散らかしたみたい。

 もう、恥ずかしすぎて死にそう。

 あたしが不法侵入したお風呂場の窓の前まで、ゆっくりと進んだ三条くん。

「落ちるなよ」

 そう言って、ひょいとあたしをしょい直すと、彼が「よっ」と言って体を折った。

 サンダルを拾ってくれるみたい。

 すっと体が起きて、彼の背中に掛かっていたあたしの重さが、再びゆっくりとその腕に移る。

 もう……、恥ずかしいよぅ。

 そのとき。

 チラリと目に入った、お風呂場の摺りガラス。

 それまでおぶられているあたしには見えなかった三条くんの横顔が、一瞬だけその窓に映った。

 え? 笑ってる?

 ほんの一瞬だけど、なんだか彼が笑っているように見えた。

 いやいやいや、彼が笑うはずがない。

 そうとう怒ってるはずだもん。

 ああ……、もうこれは絶対、お母さんにぜんぶ話さないと。

 あちこち穴が開いた、朽ちかけの鉄の外階段。

 あたしをおんぶした彼がゆっくりと下りるたびに、朝の静かな空気に、カン……、カン……と、その音が小さく響いた。階段の周りでは、春らしく澄んだ朝焼けが、アパートを囲む雑木林の木々をキラキラと揺らしている。

 砂利道を下って表の通りに出たところで、あたしはちょっと分かりにくい我が家の入口を指さした。

「あの……、卵の自動販売機があるところが入口。家は林の奥に引っ込んでるの」

「知ってる」

「え?」

 そうか。アパートから見下ろすと、雑木林の中に家があるのが分かるもんね。

 隣がイチゴ農園ってことも……。

 なんかちょっと恥ずかしい。

 それからものの数秒、なにも言えずに三条くんの首にギュッとしがみついていると、彼がちょっと立ち止まって、腰を落としてよいしょっとあたしをしょい直した。

 そのときだ。

 あ……、これはちょっとマズい展開。

 三条くんの頭越し、歩道のずっと向こうに見えたのは、見覚えのある特徴的な坊主頭。

 うわ、なんでこのタイミングでっ。

「あ……、やばい。三条くん、ちょっと戻って?」

「は? なんでだ」

「え? なんでって、翔太が――」

 不思議そうに三条くんがこちらへ顔を向けたとき、もうその向こうには、息を切らせながら走って来るあの坊主頭が……。

 思わず声を上げた。

「おおお、おはようっ、翔太っ。あ、朝からランニング、偉いねっ!」

「おうっ、おはよ……って、え? ええっ?」

 三条くんの背中から斜めに顔を出したあたしを見て、ジャージ姿の翔太がギョッとして足を止めた。

「日向? え? コイツはこの前、女に囲まれていた……、ままま、まさかお前ら、イイ感じになったのかっ?」

「なによ、イイ感じってっ! そんなんじゃないっ!」

「それにお前、ケガしてんじゃねぇか! おいっ! 日向になにしやがったんだっ!」

 首に掛けたタオルの両端を引っ張って、大股で三条くんに喰って掛かる翔太。

 三条くんの肩がぎゅっと上がる。

「あ? 俺がなにしたって?」

 どどど、どうしてそうなるのっ?

 ちょっと待ってっ! 

「あのっ、翔太っ、これにはわけがあって――」 

「ごらぁぁーーっ! 日向をよこせぇぇ!」


「だからぁ、わけは話したでしょー?」

「いや、おかしいだろ。ニワトリを追ってよそ様の部屋に窓から入り込むバカがどこに居るんだよ」

 はい。ここに居ます。

 だってぇ、夢中だったんだもん。

 もうすぐ、お昼休みも終わり。

 ずいぶん遅れて学校へ着いたら、やっぱり翔太はものすごく不機嫌だった。

 昼休みの間に、今朝の出来事をちゃんと正直に話したんだけど、まったく信用してくれない。

 あたしの右スネには、ちょっと大げさなキズテープ。

 まぁ、ビックリするよね。

 翔太が一番嫌いな『ガオカのイケメン』に、あたしがガッツリおんぶされてたんだから。

 しかも彼はパジャマだったし。

「お前なぁ、そんな作り話が通用すると思ってんのか? それにその足のケガだってちょっとおかしいだろ。本当はどうやってケガさせられたんだよ!」

「だぁーかぁーらぁ、暗い部屋の中に飛び込んだときに、置いてあったテーブルにぶつかったって言ったじゃない」

「いや、それはバットで叩かれた痕だっ!」

 ベッドはあったけど、バットはありませんでした。

 もしかして、野球部ってそんなことやってるの? まじ、野蛮。

 どうも翔太は、あたしが三条くんとなにかあって、彼からケガさせられたと疑ってるみたい。

 三条くんは、あたしを家まで運んでくれていたのに、どうやったらそんな考えになるんだろう。

 翔太、理解力なさすぎ。

 結局、あのあと、翔太がひったくるようにあたしを三条くんから引き離して、あたしを家まで運んでくれた。

 ちょうど市場から帰って来たお母さんがすごくビックリして、それからそのまま軽トラックで病院へ連れて行かれて。

 結局、弟たちは全員そのまま朝寝坊。

 翔太のお父さんが応援に駆けつけてくれて、弟たちを起こして学校と保育園へ送ってくれたみたい。

 レントゲンを撮ってもらったけど、骨に異常はないって。

「ジャム子っ、音楽室行くわよっ!」

「あ、小夜ちゃん。そうだった。五限目は音楽だったね」

「早くしなさいっ。ほんとトロいんだから」

 いやー、小夜ちゃんよりはなんでもテキパキこなせる自信はあるけど。

 今日は、入学して初めての音楽の授業。

 あたし、音楽大好き。

 歌を歌うのが一番好き!

 とっても小さいとき、お父さんが近くの教会へ聖歌隊の歌を聴きに連れて行ってくれて、すっごく感動して。

 お父さんに、「あたしもあそこで歌いたい」ってお願いしたら、「あの聖歌隊は男の子しか入れないんだ」って言われてすごくがっかりしたけど、その代わり、それからはずっと農園のお手伝いのときに、お父さんとお母さんと一緒に温室で歌ってた。

 お父さんもお母さんも、とっても歌が上手なの。

 ふたりとも合唱部だったって。

 小学四年生になって、授業でクラブ活動が始まったとき、あたしは迷わず合唱クラブに入った。

 それから五年生も六年生も、ずっと合唱クラブ。

 五年生のとき、転校してきた小夜ちゃんが入ってきてちょっとガチャガチャってなったけど、でも、週一回とっても楽しみだった。

 だから、中学でも同じように合唱部に入ったの。

 でも……、どうしても続けられなくて。

「もうっ、なにしてるのっ? 音楽室は遠いのよっ? それに、音楽の授業は四組と合同なのっ! 早く行って、聖弥くんの隣に座るんだからっ!」

 あ……、そういえば、そうだった。

 音楽と美術は選択科目。

 クラスが半分ずつそれぞれの教科に分かれて、隣のクラスと合同で授業を受ける。

 そういえば我が一年三組は、隣の四組と合同だ。

 四組は三条くんのクラス……。

 小夜ちゃんの話では、三条くんも音楽選択らしい。

 うわぁ……、なんか気まずい。

   

「音楽担当の高橋です。男の先生で驚いたかな。さぁ、今日はみんな三人ひと組で前に立って、ひとりずつ自己紹介したあと、三人で校歌を歌ってもらいます」

 ええーっ! っと、どよめく音楽室。

 そんなの聞いてない。

 確かに、入学式のあとのホームルームで、動画サイトの校歌のQRコードが配られて、みんな最初の音楽の授業までに覚えてくるようにって言われたけど……。

 音楽室、けっこう広いな。

 中学校の音楽室は床が平らだったけど、ここはお雛さまみたいに段々になってる。

 あたしはけっこう後ろのほう。

 見回すと、右前のほうに、見覚えのある広い背中が見えた。

 三条くん……。

 うわぁ、今朝、あの背中におんぶされたんだ。

 はっ……、恥ずかしい……。

 思わず、真新しい音楽の教科書でパタパタと顔をあおぐ。

 三条くんは同じ四組の女の子に挟まれて座って、ちょっと居心地悪そう。

 左の前のほうを見下ろすと、その姿をじとーっと眺めている彼女が居た。

 小夜ちゃん、残念だったね。席が指定されてて。

「さ、みんな静かに。自己紹介ではみんな、なにかひとつ将来の夢を話してくださいね」

 さらにどよめき。

 うわ、またひとつハードルが上がった。

 あたし、みんなの前で話せる夢なんてないよぅ。

 翔太なら『夢はプロ野球選手』って、小学生みたいな夢を即答するだろうけど。

 案の定、翔太は美術選択。

 実は翔太、すっごい音痴なの。

 中学に入ったとき、野球部に入るのはやめてあたしと一緒に合唱やろうかって真剣に考えたみたいだけど、翔太のお父さんから、「お前が人前で歌うというのなら、俺はお前と親子の縁を切る」とまで言われたみたい。

「はい、ありがとうね。では、次の三人、前に出て」

 あ、次はあたしの順番。

 前の席のふたりと一緒に段を下りる。

 ひょこひょこと右足を引きずって歩くのが、かなり恥ずかしい。

 ああ、やっぱり三人の中であたしが一番ちっちゃいな。

 教壇から見渡す音楽室。

 目の前に広がる階段状の席。

 なんだか、コンサートホールのステージに立っているみたいで素敵。

 ふたりが自己紹介して、ついにあたしの番。

「ほ、宝満日向です。南中学校でした。夢は……」

 前のふたりが言った夢は、「パテシエになりたい」と、「看護師になりたい」。

「あたしは……、特にありません」

 あたしの夢は、宝満農園だけの特別なイチゴを作って、いつかお母さんを楽にしてあげること。

 でも、ここではその夢は話せない。

 ここには宝満農園をあまり良く思ってない、『ガオカ』の子が何人かいる。

「うん? そうか。じゃ、次は校歌斉唱ね」

 あたしがピーンとキヲツケすると、ほかのふたりもちょっとだけ背筋を伸ばした。

 ババーンとピアノの音が鳴る。

 先生、ピアノ上手。

 ピアノが弾ける男性って、なんかすごく魅力的だよね。

「♪ あさゆうあおぐ、おおみねの~」

 ちょっと背伸びをしながら、思いきり声を出す。

 合唱部ではずっとアルトだったけど、あたしの本当の音域はソプラノ。

 お腹の底から声が湧き上がって来て、すごく気持ちいい。

「♪ ゆうしにたかきこころざし~」

 歌を歌うときだけは、自分に嘘をつきたくない。

 そう思っていたのに、合唱部ではずっと嘘をつきっぱなしだったんだけどね。

 バーンと、長く伸びたピアノの和音。

 伴奏を終えた先生が、あたしたちにニコニコ顔を向けた。

「はい。よくできました。宝満さん、特に声がよく出てましたね。みんな拍手」 

 パラパラと愛想笑いのような拍手を受けて、小さく礼をして教壇を下りる。

 なんか、ひとりだけ本気モードでやってしまった。ちょっと恥ずかしい。

 うわ、三条くんが睨んでる。

 なに?

 あたし、なにかした?

 ハッと見ると、小夜ちゃんもすごい顔であたしを睨んでる。

 なんだかよく分からないけど、これはあとでなにか言われる、ザ・小夜ファイヤーの予感。

 そういえば、三条くんって、とっても歌が上手なキッズ歌手だったんだよね。

 どんな声で歌うんだろう。

 普段の声は、澄んでいるけどとっても落ち着いてて、ちょっと大人っぽい感じ。

 でもたぶん、歌になったらすごく艶があって、素敵な――、いやいやいや、あたしはそんなのに興味はないのっ。

 しかし……、まともに顔が見られない。

 ううう、前の人の陰に隠れたいのに、席の段差がけっこうあるからムリみたい。

 あ、次は三条くんたちの番。

 自己紹介が始まる。

「三条聖弥。セイントクラリス学園中等部出身。夢は……」

 なんだろう。三条くんの夢って。

 きっと、『ガオカ』の人らしい、お金持ちならではの夢なんだろうな。

 そう思いながら視線を向けると、突然、彼があたしを見た。

 目が合う。

 えっ?

「夢は……、自分の実力で、もう一度ステージに立つこと」

 教室がザワッとなる。

「あれ、もしかして、『UTA☆キッズ』に出てたセイヤじゃね?」

「女子が隣のクラスに居るって言ってた」

「ひえぇ、ムカつくイケメン」

 そのあと、雨が降り出したみたいにザワザワーッと広がったどよめき。

 先生が立ち上がって、パンパンと手を鳴らす。

「はいはい、彼は確かに以前はテレビに出ていた有名人かもしれないが、ここではみんなと同じ、ひとりの生徒だ。変に意識しないで。さぁ、三人とも、校歌斉唱、いいかな?」

 先生のひと声に、急に音楽室中がしゅーんとなった。

 先生、とっても素敵。

 また、ババーンとピアノが鳴って、壇上の三人が校歌を歌い始める。

「♪ あさゆうあおぐ、おおみねの~」

 え? 

 ちょっと、どうしたの?

 ほかのふたりの声がまったく聞こえない。

 甘い声。

 素敵な、とっても素敵な、透き通った歌声。

 これが、三条くんの声……。

 重たいバリトンでも、艶やかなテノールでもない。

 もっと中性的な、テノールとアルトの中間のような、そんな澄んだまっすぐな声。

 気がつくと、あたしは目をつむっていた。

 すーっと、心が洗われていくみたい。

 まるであのとき、教会で聖歌隊の歌声を聴いたときみたいに……。

 バーンとピアノの余韻が響いて、歌が終わる。

 ハッとした。

 彼の歌声にうっとりとしていた自分に気がついて、思わず下を向いた。

 顔が熱い。

 三条くんたちが席へ戻る。

 「はい。ありがとう。これで全員終わりかな? では、今日の授業はここまで」

 どうしてだろう。

 足に力が入らない。

 テーブルにぶつけた傷のせいかな。

 みんなが立ち上がって、音楽室がさっきの静けさからは想像もできないほどのガヤガヤでいっぱいになった。

 数人の女子がわーって言って、三条くんに駆け寄っている。

 ちょっと迷惑そうな顔の彼。

 スカートの上から、両足をさする。

 小夜ちゃんが段を上がってこちらへやって来た。

「ちょっと、ジャム子ぉ。元合唱部が本気で歌ったらダメじゃない。みんなヒクでしょぉ」

「え? あたし、そんな本気だったかな。あはは」

「だいたい、あんな歌い方、合唱部のときにしたことなかったじゃないっ。あんた、手を抜いていたわねっ?」 

 ええ? なんでそうなるの?

 手を抜いていたつもりはないけど。

 自分の本当の音域と違うパートで歌ってただけ。

 机に両手をついて思いきり顔を近づけた小夜ちゃんが、もっと迫りながらギャーギャー言い始めると、その肩に突然、軽く手が掛かった。

「小夜、うるさいぞ?」

「ええっ?」

 ビックリした小夜ちゃん。

 彼女を押しのけて、あたしの顔を覗き込んだのは……。

「おい、イチゴ」

 すっごく怖い顔の……、三条くん。

 思わず背筋を伸ばす。

「いいい、イチゴって、あたしのことっ? あのっ、け、今朝はごめんなさいっ!」

 のけ反ると、彼の顔がもっと近づく。

「お前……、夢がないのか」

「え?」

 真剣な顔。

 思わず目を逸らす。

「夢は……、その……」

「夢がないんなら、お前、俺の夢を手伝え」

「へっ?」

 彼の後ろで、小夜ちゃんがなにやらギャーギャーと騒いでいる。

 そのさらに後ろには、たぶん彼のファンだと思われる女の子たちが数人。

 あたしは、ググッとのけ反ったまま。

 彼の口元がほんの少し上がる。

「お前、俺と一緒にユニットを組まないか?」

 ユニット?

 一緒に歌を歌うってこと?

 あたしが? 

 三条くんと?

「えーっと」

 また目を逸らす。

 すると、その逸らした先に、彼がすっと顔を動かして、もっと近づいてあたしの瞳を覗き込んだ。

「俺と一緒に、プロを目指そう」

「え? え? えええぇぇぇーーーっ?」

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