ハッピーエバーアフター

権田 浩

ハッピーエバーアフター

 ――そして、王子と娘はいつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ。


 わたしはこの言葉が好きだった。物語の結末としてこれ以上のものはないし、記憶の中で微かに響くバリトンが父の声だと信じていたから。そして何度も心の中で繰り返すうちに、それはわたしの夢になった。


 父はわたしが物心つくかどうかという頃に亡くなった。祖父母は健在で、息子の妻が別の夫を迎えることを許さなかったから、母はずっと未亡人のままだった。家の管理から領地経営まで一人でこなし、険しい顔をして、あっちへ行ったりこっちへ行ったり。ぜんぜん幸せそうじゃなかった。


 わたしが15歳になってすぐ城の夜会へと送り出されたのは、それがわたしの夢の入口だったからというだけでなく、早く結婚して領地を継いでほしいという母の希望もあったのだろう。


 そんなことは露とも知らず、若いわたしはキラキラと輝く世界で軽快なステップを踏んだ。少し年上のグループには睨まれ、もっと年上のグループからは無視されたけれど。


 そして半年後、わたしは王子様と出会った。


 すらりとした美しい王子様。7つも年上だけど気にしない。無謀は若さの特権とばかりに話しかけて、怒られたわたしを王子様は庇ってくれた。美しいだけじゃなく、優しくもあった。恋におちて、わたしたちは結ばれた。


 ――そして、王子と娘はいつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ。


 実家へは王宮から使用人が送り込まれ、母にも安穏とした暮らしが訪れた。祖父母が亡くなってすぐに再婚。それから幸せに暮らしたと人伝に聞いた。ほとんど顔を合わせる機会が無くなってしまったのだけが心残りだ。


 王子様は王になり、わたしは王妃になってすぐ長男を授かった。夫も、王宮の人々も、国民も、みんなが笑顔を輝かせて祝福してくれた。初めて夜会に参加した日、瞳の中へ飛び込んできた煌めきがずっと世界を彩っているようだった。


 でも、現実は物語のように美しく終わりはしない。


 さらに2人の息子と2人の娘が生まれた。人々は同じように祝福してくれたけれど、笑顔には翳りが見えていた。三度の戦争と、そのための徴兵と増税。それらを決断するたびに王は目に見えて疲弊し、老いていくようだった。毎晩飲むワインの量は増え、体重もそれに比例していった。


 わたしは子供たちにばかり気を取られていたから、ふと何年かぶりに夫の裸体を目にした時は、ぎょっとしてしまった。美しかった王子様はもう贅肉に埋もれて、見る影もなかった。目の下のぶ厚いくま。垂れた頬の肉に二重顎。そして身体……嫌悪感さえ抱いて目を背けた。わたしはますます子供たちに熱心になって、理想の王子王女に育てるべく心を砕いた。


 そうと決められていたわけでも話し合ったわけでもなかったけれど、この国を受け継ぐに相応しい王子王女に育てることがわたしの役割で、この子たちが受け継ぐべき国を守ることが夫の役割だと思い込んだ。


 嫌悪感と無関心。そんなわたしの内面に一番影響を受けていたのは長男だったかもしれない。若い頃の王とわたしの美しさを受け継いだ素敵な王子様に成長したけれど、心の内では父親を疎ましく思っているのが透けて見えていた。やがて彼は、玉座を欲した。


 その日、寝所へ向かうわたしを長男が呼び止めた。人払いをして王宮の影でこそこそと話す。「母上、今晩は決して父上のワインを飲まないでください」


 その一言でわたしは理解した。彼の手の者が、後ろ暗い連中と接触したのは聞いていた。王はおそらくご存知ない。陰謀の気配にすら気付いていないだろう。息子は上手くやっている。ただ、わたしに対して甘かっただけだ。


「大丈夫。苦しんだりしません。眠りのうちに神の御手に抱かれるでしょう」黙ったままのわたしに、息子は素敵なウインクをしてこう付け加えたのだった。暗闇の中で、彼の白い歯はナイフのように光って見えた。


 寝所ではガウンに着替えた王がベッドに腰かけ、足を揺すっていた。嫌な癖だ。止めて欲しいと頼んだこともあったが、彼自身にも止められないようだった。止められるのはワインだけだ。


 わたしはいつもと同じく、着替えてから鏡の前に腰かけ、髪の手入れを始めた。いつもより弱々しい声で召使いが寝所に入って来る。若い娘で、首筋の筋肉はこわばり、頬を引き攣らせている。ぎくしゃくとした動き。そんなことでは駄目よ、と言ってしまいたくなる。この計画にあの子の命運が、夢が、かかっているのに。


 でも、そんな心配は無用だった。待ちかねた王はワインをひったくると震える手でカップに注ぎ、一気に飲み干した。口の端をワインが伝い、ガウンに染みを増やす。ふー、と一息ついて、もう一杯。さらにもう一杯。召使いの娘はかくんと直角に頭を下げて、そそくさと寝所を出て行った。その様子をわたしは鏡越しに見ていた。


 彼と過ごす最後の夜。明日から、わたしは一人。そう考えると、長年鬱積していた夫への不満が、まるで魔法にでもかかったようにきれいさっぱり消えてしまった。代わりに同情心が胸を満たす。


 父を謀殺するような息子に育ててしまった責任を、感じはする。しかし達成感もあった。子供たちは自ら人生を切り拓き、時に非情な決断をして、苦しみとともに歩んでゆく強さと覚悟を持った大人へと成長した。もう守ってあげる必要も、手を引いてあげる必要もない。わたしは役割を果たしたのだ。そして彼も。


 彼に罪は無い。ただ役割を終えただけ。せめて最後は安らかに眠ってほしい。たった一晩、わたしが我慢すればいいだけではないか。


 ベッドに入り、醜いとさえ感じていた彼の太った背中にそっと触れる。いつの頃からか、彼は広いベッドの右端に寄って寝るようになっていた。わたしはその反対側。決して触れ合わない距離があった。


「どうした?」


 酒臭い息も今日は許せる。


「このベッドはあなたのものでしょう。もっとこちらで、堂々とお眠りになって」


「いや、しかし……いいのか?」


 そうか、彼はわたしに気を使って離れていたのか。少し考えればわかるはずのことなのに、いまさら気付いた自分に驚く。そして思い出した。そう、彼は優しい人だった。国民を死地へと行進させ、苦役を強いるなどできるはずもない人だった。


「もちろんです」


「そうか、なら……そうしようかな」


 もそもそと夫はベッドの中央へ這い寄ってきた。わたしのすぐ傍へ。横になると、彼は腕を差し出した。頭を預ける。若い頃と違う、ただ柔らかいだけの腕。でも温かさは変わっていない。胸板も、腰のくびれも、もう無いけれど。おそるおそる豊満な身体に触れて、目を閉じ、この身をゆだねる。


 刹那、大きな影が脳裏を過った。肉厚な手のぬくもり。遠く聞こえるバリトンの声。とてもとても懐かしい気持ち――父の記憶だ。いや、本当にそうなのかはわからない。父は大きな人だった、と聞いて、ならばそうか、と勝手に決めつけているだけの記憶というよりは残滓。でもそれがわたしを一気に少女時代へと連れ戻して、わたしはわたしの夢を再び見つけた。


 ――そして、王子と娘はいつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ。


 これが、わたしの夢見た結末なのか。若さと美貌を失っても彼はわたしの王子様ではないのか。永遠の愛に包まれて物語は幕を閉じるのではなかったか。現実は物語とは違う、そんなつまらない言葉にいつから塗り潰されてしまったのか。


「……陛下」


 わたしたちは王と王妃で――


「んん?」


 夫婦で――


「わたしも、ワインをいただいてよろしいかしら」


「んあ? 珍しいな。もちろん、よいとも。持って来させよう」


 運命をともにする同志だった――。


「あなたのでいいわ」


 ベッドから出て、ワインを注ぐ。一杯を飲むうちに、夫はいびきをかき始めてしまった。戻って彼に身を寄せると、まどろみながらわたしを抱き寄せた。


「今宵はなんだか、とても、幸せな気分……」むにゃむにゃと寝言のように彼がささやく。


 彼の白くなった髪を撫でつけ、柔らかい胸に額を当てる。心地よいぬくもり。眠りに落ちていく鼓動。嫌悪感はもう無い。若い二人が出会った夜は遥か遠く。あれはたしかに恋だった。では、今のこの気持ちは?


 終わりゆく黄昏の渋みと熟成された甘さが、胸の奥をほっと温める。それはまるでワインのよう。これが、愛、というものならいいな。ううん、きっとそう。だってなんだか、とっても幸せな気分だもの。


 夢うつつに二人の人生が重なって、わたしたちは星々の世界でダンスを踊る。あの頃と違って、あの頃のように。


 ――そして、王と王妃はいつまでもいつまでも幸せに眠り続けましたとさ。


〈おしまい〉

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ハッピーエバーアフター 権田 浩 @gonta-hiroshi

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