ナメコたちは想像する

倉井さとり

ナメコたちは想像する

 祖父の命日にはナメコじるを食べる。それがならわしである。


 十年前、なん前触まえぶれもなく祖父は死んだ。


 それは、ナメコのようにじめじめとした、梅雨つゆの終わりのことだった。


 祖父は若い頃から山が好きで、ひまができさえすれば山に散策さんさくに出かけていた。その日もいつものように祖父は山へ向かった。祖父はそれきり生きて帰っては来なかった。


 夕方になっても帰らない祖父。日が暮れるにしたがって、不安とあせりがいえなかを満たしていった。深夜になって警察に電話がかけられた。


 行方不明になってから一週間後、捜索隊そうさくたい懸命けんめい捜索そうさくすえ、祖父はわりてた姿で発見された。


 死因は、がけから滑落かつらくし頭を打ったことによる脳挫傷のうざしょうという、よくあるものだった。ひとほかと変わっていたのは、全身ナメコまみれだったということだった。


 自分でったナメコにまみれて息絶いきたえていたそうなのである。ミイラ取りがミイラになる。そんな言葉が頭に浮かび、私はひど自己嫌悪じこけんおねんを覚えた。正確に言えば、ナメコりが死体になるであろうし。


 何十年も同じ山に登り、同じ道を通っていたはずなのに、なぜこんなことになったのだろう。いくら考えても分かるわけはなかった。どんな事故も、偶然やちょっとした油断でしかない。そんなことは海や川や野原、もちろん街や、いえなかでさえ起こりうることなのだ。


 私は小さい頃から祖父になついていた。ぞくにいうおじいちゃん子だった。


 祖父は読書も趣味にしていた。その頃の私の目には祖父が、知らないことなど何もない学者のようにうつっていた。知識という知識、秘密という秘密が祖父に集まり、祖父を形作っているのではないかと思うほどに。そして、そんな祖父の教えや哲学てつがくが、今の私を形作っている。


 なかでも印象深いのは、次の会話だ。本棚に囲まれた書斎しょさいに、るような祖父の声。


「不思議に思うってことはな、好きか、好きになりたいってことなんだ」


 それが祖父の口癖くちぐせだった。私がたずね、祖父が答える。そうやって私は、愛するものを少しずつ増やしていった。


「死ぬってどうゆうことなの?」


終点しゅうてんでもあるし総決算そうけっさんでもある」


総決算そうけっさん?」


「人生のテーマの総決算そうけっさんだな」


「おじいちゃんのテーマはなんなの?」


「知ることだ」


「でも、死んだら何も無くなっちゃうよ?」


「だからこそ知るんだ。この素晴らしい世界に別れをげる前に、多くのものを愛せるように」


 祖父は総決算そうけっさんを迎えることができたのだろうか。祖父の死後、私は長いあいだ、考え続けた。満足し、満ち足りた表情の祖父、後悔と失望にれる祖父、異なる祖父が交錯こうさくし、私をなぐさめ、時にさいなんだ。


 喪失感そうしつかんにより身体の浮くような、絶望感により身体のしずむような、理解できない感覚が、ずっとしていた。身体の重さや重心じゅうしんが、一秒ごとに変化しているような違和感いわかん。心の中の一貫性いっかんせいうしなわれ、私は自身を見失みうしなっていった。まるで、自分の中身が外にれだし、世界とざり合っていくようだった。


 何故なぜしたしい人がくなると悲しいのだろう。


 私たちは日々、見知らぬ誰かとすれ違って、永遠の別れを繰り返している。他人か家族か、それだけの違いしかないのだ。しかしそう簡単に割り切れないのが人間で、他人と家族とのあいだにはそれほどのかべがある。


 私は自分ので、祖父のざまを見たわけではない。


 しかし、想像が現実を越えることもときにはある。トラウマになるようなものを見る、あるいは聞く、どちらがより心を傷つけるかなんて、誰にも分かりはしないのだ。きにつけしきにつけ人間の想像力は無限大だ。


 ナメコのねば不吉ふきつな死を連想れんそうさせた。そのねばに、祖父の姿がされるようで、たまらなく嫌だった。尊敬そんけいしていた祖父の姿が、ナメコまみれの間抜まぬけな姿で、上塗うわぬりされるようで。


 祖父が死んでしばらくのあいだは、ナメコを食べることができなかった。私は祖父の死を、少したりとも受け入れることができずにいた。これではいけないと思い、どんなに明るく振舞ふるまおうとただむなしく、空回からまわりするだけだった。そして、どんなに優しい言葉、同情どうじょうの言葉を掛けられても何も感じなかった。心にあないているんじゃないかと思うほど、心に何も残らなかった。優しさも同情も、ただすり抜けていった。


 私は聞かされた言葉で傷つき、それ以上に、自分の想像したことで自分を傷つけていた。漠然ばくぜんとした想像はいつしか言葉にかたまって、繰り返し繰り返し、私自身をさいなんだ。


 さいなみ傷つけるのが言葉なら、傷をいやしたのも、また言葉だった。


「お前のよろこぶ顔が見たいから、じいちゃんはナメコをりにいったんだよ」


 ある日の夕飯の席で、唐突とうとつに母はそう言った。


 元々、ナメコは私の好物こうぶつだった。


 祖父が何を思い天にのぼったのか、今でもはっきりと答えが得られない。


 しかし今ではナメコが食べられる。


 今はそれだけでいいのかもしれない。


 世界には、おどり出したくなるような幸せと、ひざかかえたくなるようなかなしみに満ちている。意味のない幸せに、意味のあるかなしみと、いろいろある。そして、それらすべては、人間の想像力の結晶けっしょうなのだ。私たちはを閉じてはいけないし、知ることをやめてはいけない。愛することを怖れてはいけない。そして私たちは、一歩ずつ前へと歩んで行かなくちゃいけない。私たちを形作ってきたもの、私たちがこれから作り上げていくものに、おもいをせながら。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ナメコたちは想像する 倉井さとり @sasugari

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ