第23話 祈りに報いはなく、言葉に力はなく。
聖女は今、知らない世界の夜の町を彷徨っていた。
(──寒い)
悪寒の理由は霊体のせいだからだろうか。
それとも魔女にかけられた呪いのせいだろうか。
わからないまま勇者の、いや、今はもう勇者ではない彼の居場所を探す。
痕跡は魔術で巧妙に隠されておりどこにいるのかわからない。
心までは彷徨わないよう、己の使命を確かめる。
『聖剣を取り返せ』
使命の意味を解体すると、それは「可能ならば魔女も殺せ」ということであり、「帰還を優先せよ」ということであり、「帰還ができない状況ならば奪い返されないよう逃亡せよ」ということだ。
──『勇者を殺せ』などとは、一度足りとも命じられていなかった。
(それでも、私は……)
時刻は午後九時。
熱帯夜の町はまだ眠らない。
現世に縛られる代わりに〝居場所の制約〟が解除された今、少女が彷徨い辿り着いたのは明るい繁華街だった。
道端には星々よりも明るく灯る光。
店頭からは絶え間なく流れ出る音楽。
人々は行き交い、言葉を交わし、笑みを交わしている。
その光景が、あまりにも……寒くて。
蹲る。
目に映る光景はすべて、聖女の知らないものだった。
──それであって、ずっと昔から知っていたような気を起こさせるものだった。
未だに口に残る、
「キミ、そんなところで彷徨ってどうしたの?」
不意に声をかけられて、聖女は顔を上げた。
黒髪のサイドテールに泣き黒子、中性的かつ蠱惑的な少女が、屈んでこちらを見下ろしている。
実体の存在する聖剣も術で隠しているのに、どうして。
「こんなとこに幽霊とか珍しいなあ」
じりじりと後退る。
「ああ怯えないで。霊感持ちとしてほっとけないのさ。大いなる力には大いなる責任ってね」
ニッコリと微笑んで、少女は。
鞄から塩を取り出した。
「──君を助けてあげよう」
塩だ。
普通の。
その辺で売ってる感じの瓶のだ。(勿論聖女は知らないが)
だがそれに何故か妙な力を感じて、ゾワッと鳥肌が立つ。
──助ける、イコール、除霊。
聖女は慌てて転移した。
「あっ逃げた」
「瑠璃! 待たせて悪かったな。……どうした?」
「ん〜ん。なんでもないよ兄貴」
光から逃れるように暗い道へ、聖女は逃げていく。
──昔から知っていた気がする、そんなわけがない。
知らない。
あんなに眩しい景色も。
まさか人間が自分に助けを差し伸べようとする、なんてことも。
この世界のことを知っていたつもりで。
何もわかっていなかった。
聖女は足を止める。
涙などは流れない。
そんな機能はとうの昔に削った。
なのに。
──寒いのだ。
あの頃から
ずっと。
◇◇
始まりの使命は『世界を救うこと』だった。
──それは自分にはできないと、上書きされた。
次の使命は『勇者を
彼が決して道半ばで死ぬことがないように、生かし続ける。
そうして世界を救う勇者を救えば、この手で成し遂げられなかった使命もまた果たせる。
それが聖女の行動原理であり、そこになんの疑問も抱いていない。
抱いていない、はずだったのに。
──どうしてこんなことになっているのだろう。
──出立から一ヶ月が経った。
聖女は地面を見ていた。
正確には、地面に這いつくばる勇者をだ。
「何をしているのですか」
「土食ってる」
「はい?」
「いや、飯不味いじゃん。味しないし。でも竜は食えない、鳥も虫もいない。となったら──土、食うだろ」
「わかりません」
「とりあえず、吐いて下さい。土」
お腹殴った。
土は再び大地に還った。
(わかりません……)
初めから壊れていることは、わかっていたのだが。
勇者はよくわからない壊れ方をしていた。
──三ヶ月が経った。
「勇者。貴方の戦い方は目に余ります。零れた内臓集めるのも大変なんですよ」
「待てグロい話はするな。聞きたくない」
「貴方の話です。貴方の。聞いているのですか勇者」
「あー聞かん! なんも覚えてない!!」
「あと肩書きで呼ぶのやめてくれ。嫌いだ」
「わかりません。それ以外に貴方の役割はありません」
「名前で呼べよー……」
「敵陣で真名を呼ぶことは推奨されません」
「ていうかさ。俺の名前──なんだっけ?」
記憶と自我の消去は止まらなかった。
──半年が経った。
「アスカ、アスカ……勇者」
「なんだよ」
「いえ。今日は随分と表情筋が動いていますね」
「そうか? 鏡見てないからわからん」
「それに……随分と、よく。喋ります」
「ああ、意識がはっきりしているんだ。
「……三日振りです」
「どうりで知らない傷が増えてると思った」
回復術は問題なく機能しているはずなのに、傷跡はどうしても消えなかった。
「よし、今日は土食べるか」
「食べないでください」
──一年が経った。
「なぁ聖女! とうとう土の味もしなくなった! どうしような。俺は『不味い』も忘れるわけだ! クソッタレ!」
聖女は無言で瓶を取り出す。
「何これ」
「旧時代の醸造酒です。申請しました。味がしなくとも酔うことはできます。土よりマシです」
「いや、俺の世界では二十になるまで飲めないんだけど。……まあいいか。俺、いくつだったか覚えてないし!」
「一気飲みやめて下さい」
「オエ……」
「ずっと吐いてますね、貴方。ずっと吐いてる」
それからの夜のことを聖女はよく覚えている。
酒精に任せ夜が明けるまで、話をしたことを。
それは元の世界での話だった。
亡くなった家族、大切だった友人、好きだった少女の話。
──彼らの名前は既に抜け落ちていたが。
故郷の暮らし、傾倒した趣味、夢だった将来の話。
──つまりは彼のすべてだった。
「何故、教えてくれるのですか」
彼は、陽気に笑って言う。
「覚えてるうちに話そうと思ったんだよ。俺は忘れるからさ。代わりにおまえが覚えてろ」
「一生覚えてろ、一生。俺が好きだった世界のことを」
それは呪詛だとわかっていた。
それが恨み言だと知っていた。
だから聖女は忘れなかった。
何ひとつ。
──一年と半年が経った。
記憶は消えた。
自我は消えた。
彼はもう、語りかけることも笑うこともなくなった。
──一年と半年と、十二日。
魔王城に辿り着く。
その天に、魔女を見る。
「あり得ません……魔女に、戦う力などないはずです」
顔も見えない彼女を前に彼が笑ったのを、その目に光が灯るのを、聖女は見た。
その理由は今も、わからない。
◇◆
──記憶を再生するほどに寒さは増す。
その寒さの正体を、本当はもう知っている。
(だから私は……)
空には月がぽっかりと穴のように浮かんでいる。
星の名はいくつも知っていて、けれどどれがそうであるのか、聖女にはわからない。
「見つけた」
顔を上げる。
道の向こうから、やってくる影がある。
魔女だけが、一人そこにいた。
「あんたたちが何をやったのかなんて。知ったところで今更どうでもいいわ」
暗く、静まりかえった道にコツリ、と足音が響いた。
丈を短くしたドレスの裾、編んだ髪の一束が揺れる。
「要はあいつが壊れたのは記憶のせいで、都合よく記憶を封じる
爛々と赤く光る目が。
赤く染まる剣の切っ先が。
「……なんだ、やるべきことは変わってないじゃない。初めから」
鋭く、向けられる。
「聖剣返せ。クソ聖女」
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