第21話 高校生はラブホに入れない。

 並んで歩きながら海へと向かう。



 天気は八割の曇り。時刻は夕方。

 水平線の西ではどろっとした灰色の雲を、夕陽の橙や茜が鮮やかに染めている。

〝逢魔が時〟という言葉が脳裏に浮かぶような、まだらの空だった。


 なんだか気圧が下がってきたな、と感じる。

 そろそろ梅雨入りだろうか。


 海岸には俺たちの他には誰もいない。

 まだ六月だし、時間も時間だ。

 砂浜に降りた咲耶はハイヒールを脱いで、裸足で六月の海に飛び込んだ。


「冷たい!」

「そりゃあな」

「飛鳥は?」

「俺はいいや」


 寒そうだし。


 ぱしゃぱしゃと波を踏む咲耶の隣。

 俺は砂浜の波打ち際ギリギリを歩く。

 頑丈が取り柄の靴は多少波を踏んでも濡れない。


 元々異世界むこうでも軽装だったので、現世こちらのラフな格好には適応できたのだが。

 靴はすっかりヤワなのが履けなくなってしまった。足元が不安定だと跳べない。


 咲耶は片手では靴をストラップから吊り下げ、片手ではスカートを摘み上げている。

 裸足になった咲耶は急に背が低くなって、視線の高さがもう合わない。

 隔てる波の先の彼女が、ずっと遠くになったような気がする。


「海がちゃんと青いわ! 帰ってきたって感じする」

「そうだな」


 相槌を打つ。

 あの異世界は、空も赤ければ海も赤かった。


 俺はスマホを取り出した。

 カメラのスクロールには今日撮った写真が馬鹿みたいに溜まっている。

 昔から写真は割と好きだった。

 多分、ネットの海のどこかには昔の俺が作ったSNSのアカウントが眠っているはずだ。

 だが今日の写真は誰に見せることもなく、俺だけのものだ。


「咲耶、こっち向いてくれ」


 画面越し、カメラの枠の中央で彼女は振り返る。

 強い潮風が吹いてスカートが膨らむ。

 カーテンのような幾重の薄い布地が、夕陽を透かす。

 風に流れる髪の隙間から覗く、無邪気な笑顔。

 瞬間、シャッターを切る。


「撮れた?」

「……ああ、うん」


 最近のカメラが高性能でよかった。

 でもどんなカメラでも、この景色を切り取れはしないだろう。

 写真は一枚だけで諦めて、しかと両目に焼き付ける。


「やっぱり海はいいな。来てよかった」


 咲耶は、ぱしゃりと波を踏む。


「わたしも。こっちの海はまだ好きで安心したわ。見飽きていたのよね、赤い海」

「魔王城、海の上だったもんな。カリオストロ城みたいに」

「……? ああ、わたしはモン・サン・ミッシェルだなって思ってた」

「修道院じゃんそれ」

「あは、悪の巣窟になぞらえるのは失礼か」


 俺は、ざくりと砂浜を歩く。


「城砦に堀は大事だけどさ、周りが海じゃ堀が深いどころの話じゃないんだよなー」

「ええ、籠城ひきこもるには絶好だったわ」


「でも魔王側おまえらは飛べるから、空から攻め放題じゃん?」

「そりゃあ。魔王こっちの陣営は皆、竜ですもの」


 今思うと敵に多様性がなかった。

 魔王っていうかそれ、竜王だよな。


魔女おまえが竜の背から爆撃してくるの、マジでずるかったな……」

勇者そっちこそ水面走ってぶった斬ってたじゃない。このチート野郎……」


「はは。我ながらどうやったんだか。多分今は無理だ」

「ほんと、無茶やってたわねわたしたち」


 なんとなく昔話の最中は、お互い顔を見れない。

 隣にいるのが、半年前すこしまえ魔女かのじょのような気がしてくるが、錯覚だ。


「今思うとわたしが負けたのって必然よね。……あんたと違って、実戦経験なんてほとんどなかったもの」

「ああ魔女の役目って本来、後方支援だっけ?」

「そう、お城に引き籠もって竜に強化魔法をかけ続けるだけの、簡単なお仕事」

「数度とはいえ、よく前線に出てこれたな」


 本来、〝魔女〟は戦う力を持たないと聞いていたので、俺も驚いたものだ。

 彼女はどこか、自嘲するように言う。


「……わたし、あの世界で一番悪い魔女だったのに。人殺しの経験すらないんだわ」

「……誰も殺さなかったなら、別におまえは悪くないだろ」

「は? 何それ。わたしにだって悪役ヒールの矜恃くらいあったんだけど?」

「その矜恃はよくわかんねえよ」

「あんただって勇者のプライドとか……」

「無いね!」

「無いの!?」


 たまに俺と彼女は思考や価値観が噛み合わないと感じる。

 特に敵だった頃の話をする時は、強く。




 潮風と波音にかき消されないように、彼女が声を張り上げる。



「ねえ! もしも戻ることになったら、あの世界! 滅ぼしても、いーい?」



 夕陽を流れる雲が覆い隠す。

 彼女の頬に暗い影が落ちる。

 真っ直ぐにこちらを見つめる瞳。

 片目が、赤く瞬いた。


「駄目」

「なんで?」


 返事に少し、逡巡した。


「世界を滅ぼせるような存在ヤツはもう人間じゃない。絶対に戻れなくなる。だから、駄目だ」


 善悪は掲げない。

 倫理は考えない。

 それを語る資格はない。


「……そっか。ならしょうがない。言うことを聞いてあげます」


 望みの優先順位を、間違えてはならない。

 そんなことはきっと、お互いがわかっている。


 だが──もしかして。

 彼女はまだ、あの世界を滅ぼしたいと思っているのだろうか?




「なぁ。おまえはさ、──なんで魔女になったんだ?」


 振り返った彼女はあきれたように笑った。


「それ、聞く? あまり気持ちのいい話じゃないわよ」

「……いや。言いたくないなら、いいや」

「うん、ごめんね。……でもひとつだけ、あなたに言っておくわ」


 海の向こう、ライトアップし始めた橋の明かりが瞬く。

 輝きを背負って、真っ直ぐに、凛とした声で。

 彼女は宣言する。




「──たとえ魔女になっても、わたしはわたしよ。あなたが文月って呼んでくれていた時から、その名前になるずっと前から。わたしはきっと、何も変わっていないわ」



 俺は頷く。「ああ、わかってるよ」




「──おまえが、昔からバカだってことは」




「…………は?」


 咲耶はひくり、と頬を引き攣らせた。


「バカって言った?」

「言った」

「このっ、風邪引けクソ野郎っ!!」

「うわっ水飛ばすな! つめたっ!?」


 水面を蹴る白い脚が弾く水滴を避ける。


「そういうところが! バカなんだよ! バーーカ!!」

「意味わかんない!! わたし今、結構大事なこと言ったでしょ!?」


 いや、なんか真面目な話しててムカついたから。つい。





 咲耶がやけくそのようにもう一度、水を蹴ろうと足を振りかぶる。

 ──その時。

 少し、大きな波が来た。


「あ、わっ……!」


 咲耶は押し寄せた波と不安定な砂に足をとられて、ぐらりとバランスを崩す。


「危ない!」


 俺は濡れるも構わず海に踏み入り、手を伸ばし──けれど。

 

 彼女は、俺の手を取るのを躊躇した。

 反射的に差し出してしまったのが右──剣で出来た手の方だったからだ。


 彼女は俺の右側を絶対に歩かない。

 たとえ包帯越しでもひりつき、直に触れれば肌が焼ける代物だ。

 今日だってずっと、互いの距離には気を遣っていた。


 躊躇は当たり前。

 ──聖剣みぎうで魔女かのじょを殺すための武器なのだから。 



 わずか一瞬。

 伸ばした手が届くことはなく、すり抜ける。

 時間が止まったような錯覚の後。

 盛大に、水飛沫が上がって。

 咲耶は波間に落っこちた。







 慌てて砂浜に引っ張り上げる。今度はちゃんと左手で。


「……その、悪い!」

「だ、大丈夫。わたしが勝手に転けただけだし」


 違う。どう考えたって、今のは。

 助けられなかった・・・・・・・・俺が悪い・・・・



 ずぶ濡れの咲耶は「くちっ」と小さくくしゃみをする。

 スカートは透けて足に張り付き、いやに艶めかしい。

 あられもなく濡れた胸元には、下着がくっきりと浮かび上がっていた。


 まずいまずい、とりあえず俺の上着を着せるか、ああでも買ってもらったものをいきなり海水で濡らしては駄目だ、と朝に着てきた方のパーカーを紙袋から引っ張り出して、咲耶にぶん投げる。


 どうしたものか。

 このまま帰るわけにはいかなくなってしまった。


 丁度携帯が震える。

 通知は芽々からだった。

 あいつはよく、くだらない写真を送ってくる。『見て見てひーくん! カエルの死体! もずのはやにえ!』とか。

 小学生男子か?


 だが、丁度よかった。

 俺はそのまま、芽々に電話をかける。

 自分で知恵が足りないなら、誰かに相談すればいいだけの話だ。


『わっびっくりしました。今日デートじゃないんです?』

「なんで知ってんだよ」

『サァヤのデート服、選ぶの付き合ったので』

「ありがとう芽々」


 めちゃくちゃかわいかったです。

 さっき俺が台無しにしたけどなぁ! クソッ!


『それで、何かあったんです?』


 話が早くて助かる。

 かくかくしかじかを説明し、知恵を仰ぐ。

 芽々は『なるほど』と電波越しに相槌を打って。


『確かお二人って、十八歳ですよね?』

「そうだけど?」


 沈黙。



『…………ラブホ行けば?』



 …………。



「ふ、ざっけんなよ寧々坂ァ! 高校生だっつってんだろ!?」

『いや留年じゃん。てかバレな……』


 ブチッと通話を切る。

 最悪だ、俺の周りの女はどいつもこいつも品性がない! 


「クソが!!」

「……え、何? どしたの。何キレてるの?」


 だが、咲耶をびしょ濡れのままにしておけないのも確かである。

 

 携帯で地図を開き、現在地を確認する。

 ……仕方がない。





「おい咲耶。風呂、行くぞ」


「…………へっ!?」

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