第12話 わたしの初恋、再想。
◆
──ほんの少しだけ、昔の話だ。
それは未だ色褪せない初恋の記憶。
向こうの世界に落ちた後も反芻し続けた、文化祭の喧騒遠い二人きりの教室での思い出。
その、続きの話だ。
夕陽の射す教室で、たわいもない話をした。
かつての日南君にわたしは元々淡い憧れを抱いていたけれど。
その内容こそが、わたしが明確に彼に恋をしたきっかけだった。
あたり触りのない世間話の途中。
話の種になったのは彼がわたしにくれたコーヒー、それについていた懸賞の応募券のことだった。
──懸賞の一等は、行き先を選べる旅行券だという。
当たりっこないし、そもそも応募券を集めるつもりもないけれど。
「いいよな、こういうの。夢がある」
彼がそう言ったからわたしは訊ねたのだ。
何気なく。
──もしも、どこにでも行けるチケットがこの手にあるのなら。
「日南君は、どこに行きたい?」
「どこにでも、かぁ……」
彼は分厚い眼鏡の奥で、両の黒目を輝かせて。
迷わず言ったのだ。
「なら、一番遠いところがいいな!」
飛行機で何十時間もかかるような、はてしなく遠い場所に行きたい、と。
「世界の果てって感じで、なんかいいだろ?」
好奇心と憧れだけで、屈託なくそう語る彼の目が眩しくて。
わたしは二、三度瞬きをした。
「俺さ、いつかすげえ遠いところに行くのが夢なんだよね。未来の懸賞には宇宙旅行があったりするんだろうなー」
けれど眩しいのは窓の夕陽のせいではないと示すように、心臓がとくとくと早鐘を打っていた。
別にこれは、なんでもないたとえばの話だ。
ただの雑談のはずだったのに。
……何かとてつもない、秘密を聞いてしまったような気がした。
後に相槌と返答。
雑談を広げて、いくつ言葉を重ねても、鼓動の速度が緩まなくて。
多分これが恋なのかもしれない、と思った。
けれど。
「文月は、どこに行く?」
と、彼が聞き返した時に、心臓がぴたりと止まった気がした。
「わたしは…………」
わたしは、うまく答えられなかった。
自分から話を振ったくせに。
いつもなら上手に話せたはずなのに。
当たり障りもない、いかにも『文月咲耶』が答えそうな旅行先すら、でっち上げることができなかった。
「もしも懸賞が当たって。どこにでも行けることになったとして……わたし、どこにも行かないかもしれない。なんだか勿体なくて、どこに行こうかと想像して楽しんでいるだけで……満足してしまうかも。そのうちにチケットが期限切れになってしまいそう」
気付けばわたしは、何も取り繕わずに話してしまっていた。
「はは。文月って、結構うっかりなんだな」
零れてしまった場違いな返答に、日南君は気を悪くもせず。
「いいんじゃないか? 行きたいところが沢山あるってことじゃん」
わたしの
わたしがわたし自身の言葉を肯定されるということ、それは猫を被るようになってからはすっかりと覚えがなく、なんなら幼い頃だってろくに経験がない。
だからきっと、嬉しかったんだと思う。
けれど、それ以上に。
つきり、と心が痛んだ。
──ああ、この人は。わたしと本質的に真逆なんだ、と。
そう思った。
……ちがう。
ちがうのよ日南君。
わたし、行きたいところが沢山あるのではなくて。
わたしは……どこにも行きたくないだけなの。
〝その場に留まるためには、全力で走り続けなければならない〟
それがかつてのわたしの教訓で、
『文月咲耶』を演じたわたしの努力はすべて、
ある日突然与えられた十分な幸福が、手のひらから零れ落ちてしまわないように、必死で留めるためのものだった。
確かに、幼い頃には願っていた。
いつか誰かに「ここではないどこか」へ連れ出してほしいと。
魔法使いを、白馬の王子様を、ヒーローを、馬鹿みたいに信じていた。
けれどその願いはとうに叶っている。
わたしは「文月咲耶」になった。
だから、そんなものはもういらない。
「一番遠くまで」なんて夢物語を。
わたしには語れないのだ。
『完璧』を演じて生きる道を選んだわたしは、たとえどこにでも行ける自由と力があるとしても、この場所に留まり続けることを選ぶ臆病者だから。
──同じ夢を、同じ願いを、同じ景色を見ることができない。
わたしは、わたしにできないことができる人が好きで。
だからわたしは、彼のことを好きになってしまって。
でも──釣り合わないな。わたしなんかじゃ、あなたには。
そう思ってしまったから。
わたしの初恋は一瞬で、失恋になった。
──叶わなかった恋の名前はきっと、〝憧憬〟なのだと思う。
◆
芽々の家から、わたしはひとり帰り道を行く。
日は丁度沈みきったところで、空は薄らと明るい夜の色だった。
けれど空に月は見当たらず、もうすぐ新月だったことを思い出す。
……魔女になってから、月齢を気にするようになった。
ひと気のない、どこか寂しい道を歩きながら。
わたしは自覚してしまったことについて考える。
──わかっている。
今更、『完璧』にこだわる必要はない。
何故なら、それは既に落としたものだから。
今のわたしがたとえ思いのままに振る舞っても、失うものは何もない。
──わかっている。
今更、どの口で「恋なんてしていない」と言い張っているのだと。
死ぬほど往生際が悪いわたしでも、いい加減認めなければならない。
わたしは今でも、彼への想いを捨て切れていない。
──でも。
恋を追うことはみっともなくて汚いと、今でも思う。
だってそれは「思いのままに振る舞う」ということだ。
根暗で浅ましいわたしの
……そんなこと、少し我が身を本気で振り返ってみれば、気付いてしまう。
自己の客観視は、
わたしはわたしのことを、それなりに、自覚しているのだ。
思い返してみればいい。
わたしはわざわざ彼の隣に引っ越して、暇さえあれば彼の部屋の窓を眺めて、半無意識で盗撮未遂し、理由をつけては彼のことをつけ回し、あまつさえ……閉じこめて自分だけのものにしようとするような女だ。
こんなのは一歩違えば、たちの悪いストーカーでしかない。
というか犯罪、倫理がない。
許されたから甘えている現状の方がおかしいのだ。
暴走の末に反省を重ねた今ですら、彼がわたしの知らない女の名前を呼ぶだけで嫌だと思ってしまう。
「これは恋ではない」と最大限にブレーキをかけてなお、この有様だ。
わたしは、わたしの理性が弱いことをわかっている。
──だからもし、わたしが本当に、
……それが、とても怖い。
許されるのは好意と誠意、恩義と憧れ、そして少しの感傷と悟られない量の後悔だけ。
それを「愛」と定義して正当化したのだ。
恋、なんかより。
そういう真っ当な感情だけを捧げたい。
汚い欲をぶつけて
醜い執着なんかには、従いたくなかった。
──わたしは彼を愛しているからこそ、恋に身を委ねたりはしないのだ。
それに。
昔の日南君と今の飛鳥の違いについて、あいつは「大丈夫だ」と言ったけれど。
戻れない変質があることは、彼自身もわかっているはずだ。
──わたしは、わたしが好きだったあなたがもういないことくらい、ちゃんとわかっている。
それでも愛すると決めたけど。
わたしがまだ、昔の彼を好きであることは認めるけれど。
今の飛鳥に恋は……きっとできない。
だってそれは、どうしたって昔の日南君への感情が混ざるだろう。
昔の彼への感情を今の彼にぶつけることは、とてもエゴイスティックでグロテスクだと思う。
──寧々坂芽々のように、わたしは今の彼を喜んで肯定することはしない。できない。
──わたしの知らない彼の後輩のように、今の彼を否定することもしたくはない。してはならない。
わたしの恋は袋小路だ。
例えるならば、わたしたちの関係は
だから、わからないのだ。
いずれ恋人に至る友達以上の関係の、やり方が。
何せ、今のわたしには指針がない。
祈るだけだった幼い
完璧に縋るばかりの
我儘を唱えるための魔女の役すら、すっかりと休業中だ。
彼だけの幸せを願ったことも、真っ向からあいつに砕かれて。
今のわたしは、わたし自身が「何」なのかすらわからない。
だから。
──はたして一体、わたしの今の願いはなんなのか。
自分ではわからなかった。
……それが、わたしが彼の言葉を受け入れられなかった理由のすべて。
ずっとこのままでいたいと言った、理由だった。
ふと、
画面の通知を見れば、飛鳥からのメッセージだった。
不思議に思う。
お隣のせいか、飛鳥とは直接の会話ばかりで、連絡先を交換した今も、メッセージなんて滅多に来ることがない。
というか今はバイト中じゃなかった?
緊急の要件だろうか、と確認する。
『咲耶、明日の夜空いてるか』
淡白で簡潔で顔の見えない文言に、すぐさま返事をする。
『当然』、わたしの予定はいつだってあなたのことが最優先だ。
返答に、少し間があって。
『ちょっと付き合ってくれ』
「…………どこに?」
思わず呟いた。
なんだか、調子が狂う。
飛鳥はどんな顔をしてこれを打っているのだろう。
呼吸や間合いから伝わる情報量がないから、感情や意図がうまく読めなくてもどかしい。
わたしたちにこれは向いていないな、と思って。
……早く会いたいな、と思った。
そう思う理由すら明確にできない自分自身が、とても、歯痒い。
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