第7話 彼女の理由。
『このまま』がいいわけを聞こうと思ったのだが。
のらりくらりと雑談に躱されたまま、食事どころか後片付けまで終わってしまった。
忘れていた。
ある程度の論拠がなければ、延々としらばっくれられる、ということを。
すれ違いそうになったら嘘も隠し事も無しだ、と前回の反省で約束はしたが。
そもそも『話したくないことは話さない』というルールも健在だった。
自分の
人間、墓まで持っていきたい秘密のひとつやふたつ……いくつだっけ? まあ、あるものだ。
だから俺も、咲耶に「ヤダ」と突っぱねられたらそれ以上は聞けない。
関係の名前は保留だろうがなんだろうが、俺たちは公平でなければならないし、公正でなければならない。
その一線は、今も絶対だ。
なので、どうしても真意を吐かせたいのなら。
事前に外堀を埋めておかなければならなかった。
なにせ人間は、図星を指されたら真相を吐かざるを得なくなるものだ。
推理ドラマで見た。
犯人を追い詰めるシーンとかで。
しかし、どう埋めるべきか。外堀。
考える。
……そういや芽々が『本棚は人を筒抜けにします』とかなんとか言ってたな。試してみるか。
「咲耶、また本借りていいか」
「ええ。好きにどうぞ」
咲耶のマンションには、本棚だけが並べられている狭い一室がある。
本棚にはぎっしりと分厚い本が詰まっており、ついでのように映画のディスクとゲームソフトも並べられていた。
本の種類は、新しそうなライトノベルから古い海外文学、大人っぽい実用書まで幅広い。漫画は意外と少めだ。
……なるほど、うん。
「全然わからん」
駄目だ。
分析しようにもやり方が不明だし、雑多すぎる。
強いて言うなら。
咲耶が好きそうだと予想していた、少女漫画の類がまったく見当たらないのが、気にかかるが……。
とりあえずドイツ語の辞書の隣にB級ホラーのDVDを並べるのやめろ。温度差がすごい。
そうして、本棚の部屋で三十分ほど粘っていたのだが。
「あら。まだ見てたの?」
部屋に咲耶が入ってきてしまった。
いつの間にか咲耶は、白いワンピースのような寝巻き姿になっていて、髪が少しだけ湿り気を帯びている。
風呂上がりだった。俺がこの部屋にいる間に、入ってきたらしい。
髪からほのかに柑橘の匂いが漂ってきて、避けるように距離を取る。
「だからおまえ、俺がいるときに風呂入るのやめろよ」
「大丈夫。今度は鉢合わせないように、扉に看板かけといたわ」
「なるほど頭いいな……って、見られなければいいってわけじゃないんだよ」
「なんで?」
「…………」
心臓に悪いからです、とか説明できるわけがない。
相変わらず危機感がゆるっゆるだ。
こいつ……。
「それに、あなたがいるから、下着でうろつくのもやめてるし」
「俺がいないとやってるのかよ」
「……あっ、ごめんね。わたしが窓から急に入るせいで、あなたは部屋で服脱げないのに……わたしだけ不公平だったわね」
「違う。公平とかそういう話じゃない」
咲耶は真っ直ぐな目でこちらを見つめて言う。
「わたしは別に、あなたが部屋でパンツ一枚でいるのを見ても気にしないからね……!」
「ドアホなの? 俺が気にすんだけど!」
もう何もかもがおかしかった。
貞操観念どうなってんだよ。
方便として本を貸してくれ、と言ったので。
何か適当に見繕ってもらう。
「そういや」
ろくな分析こそできなかったものの、本棚を眺めたおかげで、気になっていたことを思い出した。
「咲耶ってさ、翻訳文学の女みたいな喋り方をするよな」
「それ前も言われたわね。自覚はあるけど」
『わね』とか、今時使わないからな。
「お嬢様だからか、と思ってたけど。元々庶民ってことは、その口調も演技なのか?」
「……ううん。これは昔から」
「なんで」
咲耶はほんの少し黙り、「まぁ、あなたにならいいか」と、答える。
「──友達がいなかったの。『文月』になる前の、昔のわたしって。それで、ひとりで本ばかり読んでいたから。気付いたら喋り方がこうなってたわ」
昔の咲耶、というのはおそらく、俺の知るどの彼女とも違うのだろう。
あまり想像がつかない。
「おかげで養子に取られた後も、言葉遣いに苦労はしなかったから。人生、どこで何が役に立つかわからないものねー」
なんて笑いながら言う。
あまり軽い話題には思えなかったが、当の本人が軽々しく扱うならば、こちらもそう扱うまで。
にしても、意外とすんなり教えてくれた。
……そのくらいの信頼はある、ということだろうか。
ならば。
「そろそろ聞いてもいいか。前、聞けなかったこと」
「なぁに?」
五月の屋上で、話をした時のこと。
友達になろうなんて小っ恥ずかしい提案を大真面目にした時のことだ。
「咲耶はさ、なんでわざわざ面倒くさい『演技』なんてしてたんだ?」
あの時の咲耶は、返答に沈黙を選んだが。
「ああ、それは……」
今の咲耶は、へらりと笑って、なんでもないことのように言った。
「ほら。わたしって庶民だったのに、ある日突然お嬢様になってしまったわけじゃない? 渡る世間が怖くって、ボロが出ないように常に演じてたら……素の出し方を忘れちゃったの」
「あなたのおかげで、素を思い出したけどね」と咲耶は肩を竦める。
素も時々、芝居がかっていた。
「くだらないでしょ?」
「そうだな。よくもまあ、そのグダグダの素を隠し通せてたなと思う」
「うっ……」
「あの頃はみんな、文月に騙されてたってわけだ」
俺ですら、最近まで気付かなかった。
「それって、結構すごいんじゃないか?」
俺の返しが予想通りではなかったのだろう。咲耶はぱちぱちと目を瞬く。
「なんだよ。俺は『くだらない』とか言わねぇよ」
だって。
咲耶は、俺のためにわざわざ魔女を演じていたくらいだ。
なんでそうなる、思考が明後日だ、とは思う。
けれどそれに助けられたのも事実で、咲耶自身は大真面目だったことくらい、わかっている。
「それにおまえ、アホなことさえ言わなければ今でも結構、ホンモノのお嬢様っぽいし」
たとえば、ぴんと伸びた背筋だとか。食べ方がとても綺麗なことだとか。
そういう些細な所作の端々に育ちの良さを感じるのだ。……実際の育ちが、何にせよ。
「嘘も貫き通せば本物って言うだろ」
というか。
素を知っているのが俺だけなら。
俺以外の誰が、咲耶のこれまでを認められる、という話だ。
──だから、俺くらいは。
どんなにくだらなくても、彼女の努力のすべてを肯定してもいい、と思った。
「やるじゃん、エセお嬢様」
咲耶は目を丸くして。
「……わたし、今、褒められた?」
「褒めた褒めた」
「全然褒められた気がしないのだけど」
「えー? おかしいわ」とかなんとか微妙な反応。
「でも……褒めてくれたのは、あなたが初めてだわ」
咲耶はふっと頬を緩めた。
「ありがと」
いい顔をするようになったな、と思ったのも束の間。
「ちなみにだけど」
咲耶はそのまま、口角を吊り上げる。有り体に言えば、ドヤ顔だ。
「お嬢様学校だった中学じゃ、速攻でエセがバレたわ!」
やけくその暴露だった。
「まさか、ウチの高校に来た理由って……」
頷く咲耶。
「公立ならお嬢様ロールもチョロいと思ったからよ!!」
「褒めたのが台無しだな!?」
こいつやっぱりただのアホだろ!!
咲耶自身のことについては聞けたものの。
本題に踏み込むには、まだ足りなかった。
本棚を見て、もうひとつだけ気付いたことがある。
──恋愛小説の類が、見当たらないのだ。
本の種類は広範だ。古典から流行まで。
なのに恋愛が主題だと分かる本が、一冊も。
「咲耶って、恋愛モノは読まないのか?」
そう聞いた途端、すっと真顔になる。
「……苦手なのよね」
「なんで」
咲耶は冷ややかな目と声で、言う。
「わたし、恋って感情、嫌いなの」
「……は?」
今、何言った?
「おまえ、俺のこと……」
「ええ、好きだったわ。初恋だった」
さらりと言う。なんでもないことのように。
あの、いちいちとわかりやすい反応をする咲耶が。不自然なまでに平然と、だ!
「どういうことだよ……」
咲耶が長い前髪を弄る。
赤目は手元に隠れて、見えるのは元の彼女自身の暗い瞳だけ。
「だって。終わった恋は思い出だもの。
──思い出は、綺麗なものでしょう?
……何故か、奇妙な定義を聞かされていた。
頭が混乱してくる。
「恋を追うことは、汚くて破滅的だわ。綺麗なのは終わった恋だけ。許されるのは愛だけよ」
これは一体、何の呪文だ?
だが、彼女がなんの魔法も使ってないのは自明だった。
「──わたしは、
……いっそ、これが何かの詠唱ならば対処のしようもあった。
おかしなことに、これは『ただの会話』だった。
理解できない、納得できない、だから反論の仕方もわからない。
「……俺とは『そうなれない』って言った意味も、それか?」
柔らかな白いワンピース姿の今夜の彼女には、魔女らしさなんて感じない。
年相応、むしろ……二年、時が止まっている分、幼くさえ見えた。
「そうよ」
十六のままの少女の顔で。
文月咲耶は、
「わたしはあなたを愛しているから──あなたに、恋をしたりしないわ」
彼女の顔は。
演技や嘘偽りのない、無表情だった。
◇
あのまま「そろそろ寝る時間だから」と別れて自室に戻る。
というか、戻らされた。
会話……というか、俺たちの間における
いつだって、場の空気を握った方が勝ちだ。
主導権を完全に咲耶に握られてしまったので、従うしかない。
だからといって、大人しく寝付けるわけがなく。
戻った六畳間に座り込んで、考える。
『直接聞く』って、決めたからな。
ちゃんと聞いた。
聞いたけども……。
卓袱台に頭を打ち付ける。
ゴン、といい音がした。
いい感じに頭が冷え、いや、冷えるか!
「意味わかんねえ!!」
あいつ何言ってんの!?
宇宙語喋ってんの??
魔女じゃなくて宇宙人か!?
「なんなんだよ、あれ……」
かろうじて。
彼女にとって「愛」と「恋」は、決定的に違うということだけがわかって。
だが、まったく。これっぽっちも飲み込めない。
だって。
同じだろ、それ!
同じじゃないのかおまえのそれは!!
わざわざ辞書まで引いて確かめた。
いや、何をやらせてるんだ。恥辱だ。
「……はーー」
なんか、自信なくなってきたな。
アイツ、俺のことめちゃくちゃ好きだと思ってたんだけど。
もしかして、俺が調子に乗ってただけなのか。
ひとりでキモい浮かれ方してただけか、これ。
もうだめだ人生。
何もわからない。
死ぬか。
卓袱台の木目を睨む。
「……こっちの気も知ってるくせに」
なんなんだよあいつ。
たかが恋愛が、こんなに難しいとは思わなかった。
……いや。
割合器用だった昔の俺でも、匙を投げるくらいには難しいものだったか。
まあ、でも。
「……世界を救うより難しいわけ、ないだろ」
物事を単純化する。
要は、これはいつもの勝負なのだ。
「
「関係の定義」を何にするかという。
曖昧に、あやふやになんかはしない。
わかりやすく言葉にして定義にして約束にする。
そうして面倒事の全部を片付けて、今を作ると決めたのだ。
──だから、やることはいつも通り。
アイツに勝つ方法を、考える。
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