第31話 アイツが先か、俺が先か。
これは、昔の話──昔の俺が、どういう人間だったのか、という話であり。
文月咲耶をどう思っていたのかという、かつての話だ。
……そして今の俺が〝何〟なのかという話であり。
彼女が俺にとって、〝何だったのか〟という答えだ。
◇
思うに、かつての俺というのは、随分と恵まれたやつだった。
人生に何ひとつ躓いた覚えがない。
本当に覚えていないだけかもしれないが、挫折の感覚すらも残っていないから、実際に経験がなかったのだと思う。
両親が亡くなったのは物心つかない内だったから、あまり感じるところはなく。
育ててくれた祖母も、あまり長生きはしなかったが。
破天荒な祖母は死に様がアホだったので、悲しむどころではなかった。
なんだよ、海水浴で崖から勢いよくダイブしてうっかり溺死って。
無理すんなよババア。
泣くに泣けねえ。
それにあの頃は貧乏でもなかった。
伯父も、自分の会社をうっかり爆破して破産していなかったからだ。
……いや、爆破って何?
俺が異世界に行ってた間に何やってんの?
うちの家系、おかしいのかな。
まともなのは俺だけか。
ともかくとして。
劣等感や渇望とは無縁の十六年。
不自由は何ひとつなく、望みの大半は叶ってきた。
だから、本当に。
日南飛鳥は普通のやつで、普通に、幸せなやつだったのだ。
一方で、同級生だった文月という少女については。
真逆とはいかないまでも、俺とは違う人間だと思っていた。
普通ではなく、「特別」の側。
皆が振り向くほどの美人で、資産家のご令嬢で、婚約者がいて、人気者。
雲の上の噂話ばかりを持っていた彼女は、誰も彼もに好かれていた。
でも、俺は正直、文月のことが苦手だった。
なんだか嘘くさい笑い方をする子だったからだ。
──当時の文月には隙なんてなく、彼女の演技は完璧だった。
ただ、その完璧さに、俺が違和感を感じていたというだけの話だが──気にかかって。
いつの間にか彼女を目で追うようになっていた。
だから文化祭の当日。
文月が忽然といなくなったことに、気付けたのだ。
探している途中で、文月が誰もいない教室に入っていくのを見つけて。
俺は大体を理解した。
察しがいいのが唯一の取り柄だった。
おそらく気疲れでもして、人目を避けて休むことにしたのだろう。
「ココアでも差し入れるか」と考えたのは自然な流れだった。
それは気遣いというより、正直、下心だ。
昔の俺は人好きで、同時に少し打算的だった。
誰にでも、なんとなくぼんやりと「いいやつ」だと思われたかったのだ。
好かれすぎない程度に愛想と親切を提供して、その恩恵でうまいことやっていく。
それが人生の効率的なやり方だと考えている。
そういう、少し偽善的な、普通のヤツだった。
けれど。
自販機でココアとコーヒーを買って戻り、教室の扉を開けた時。
ひとりぼっちの、文月を見つけて。
いつも周りの好意を受けて微笑んでいるはずの彼女が、とても寂しそうに見えて。
──心臓が、軋んだ。
だから。
その時にはもう、この行いは打算の善意ではなく。
俺がそうしたいから、そうするのだという話になっていたのだと思う。
◇
ほの明るくて薄暗い、空っぽの教室。
祭りの喧騒は遠く、空気はしっとりと重い。
その窓際で、文月はカーテンに埋もれるようにして座っていた。
「……日南君?」
入ってきた俺を、驚いた顔で見た文月に、缶を二つ見せる。
ココアと、ブラックコーヒー。
「文月は、どっちがいい」
窓辺にカフェオレの缶が置いてあることに気付いたのは、その時になってからだ。
二杯目を差し入れてどうする、と。自分の明後日の気遣いに苦虫を噛んだ。
文月は、少し迷って、
「コーヒーを、いただいても?」
その答えにほっとする。
「実はコーヒー飲めなかったから、助かる」
渡された缶を握り締めて、不思議そうに文月は言う。
「飲めないのにどうして買ったの?」
「間違えたんだよ。ココアを押そうとして、隣のブラックを押したんだ」
その日の俺はたまたま、度が少し合っていない眼鏡をかけていたのだ。
「それじゃあ、日南君は。わたしがココアを選んでいたら、どうしてたのよ」
俺は、顔をしかめて答える。
「…………がんばって、飲もうと思ってた」
文月は、ぱちぱちと目を瞬いて、
「あはっ、なにそれ。そんな思い詰めた顔で言うこと?」
くすくすと軽やかに笑ったのだ。
嘘の気配などカケラもない、綻ぶような、笑い方。
「ふふっ、おかしいの」
眼鏡の度が合っていなくて、彼女の顔をくっきりと見ることはできなかったけど。
それでも、その日の笑顔が。
今まで見た彼女の表情の中で、一番綺麗だと思った。
「ありがと。日南君て……いいひとね」
〝いい人〟なんて。
誰に言われても同じだと思っていた、なのに。
彼女に言われるのは、
──心臓がまた、妙な軋み方をした
察しは、良い方だった。
だから初めての体験の正体にも当然のように気付いた。
──ああ、なるほど。
──もしかしてこれが、いわゆる。恋、というやつか。
と。
そして……困った。
だって、叶うはずがない。
文月咲耶には婚約者がいる。
好意を伝えたとしても困らせてしまうだけだ。
この問いの
正解を、探して。
程なく結論に辿り着く。
──この感情を、
昔から、要領がいい方だった。
というか、昔はそうだった。
場の雰囲気を読むことは苦ではなく、いつだってうっすらと正解を引ける。
人間関係に苦心したことはない。
普通なりに小器用なヤツが、日南飛鳥という人間だった。
……今の俺にはちっともできなくなってしまったが。
だから、自分が文月咲耶に惚れてしまったと気付いた時に「正解」もわかってしまった。
「何も言わない」が正解だ、と。
微塵も好意をお首に出さず、ただの同級生として関係を終える。
それがかつての俺がした選択だった。
──文月を、困らせないために。
別に、平気だ。
初恋が即時に失恋になったことくらい。
夕暮れの教室でたわいもない話をして、たった一度、嘘のない笑みを見た。
それだけの関係だ。
だから、そんなことは綺麗に忘れられる──はずだった。
はずだったのだ。
異世界で──あの、天上よりも遠い
両の瞳に暗い闇を湛えた彼女と、再会するまでは。
◇
異世界の人間がまず俺にしたことは、精神に干渉することだった。
悪意を以って頭を弄ったわけじゃない。
そうするしか、なかったのだ。
何故ならば、あの世界で敵が行使していた〝呪い〟というのは、直に精神に効く。
今さっき、咲耶が自らの呪いの反動で狂気に落ちたように。
認識の改変とは、そういうものだ。
だから脳味噌を弄ったのは、必然。
壊されないためには、事前に壊しておくしかなかったというだけの話だ。
──剥離した自我と、意識の断絶の二年。
脳裏に刻まれているのは血と刃、戦うことを強いる声。
頼れる仲間もいなければ、守る価値を感じるものもなく、異世界の記憶はすべて戦場のそれ。
けれどその時の自分に感情なんてものはなかったから、悪夢に見ることも、あまりない。
そこに悲しみはなく。
そこに苦しみはなく。
ただ、過ぎ去った情景が
心に傷など、残していない。
異世界の人類を恨んでいないし、恨みたくはない。
彼らは彼らで、世界を救うために、到底考えも及ばないほどの犠牲を払い続けてきたし、俺はその〝なりふり構わなさ〟に敬意を払ってすらいる。
勝ち残るために手段を選ぶのは、馬鹿のすることだ。あいつらはすごい。
時折、思い出したように自分を取り戻すこともあったから、異世界での記憶はそれなりに残っている。
だからその時に。俺は、何も恨まないと決めていた。
──聖剣を使えば使うほど、記憶も自我も曖昧になって。
二年も経てば、自分の名前すら思い出せなくなっていた。
それでも、かつて俺だった
その、はずだったのだ。
──最後の戦場で、
我ながら女々しいことに、意外と執着をする
『……日南、君?』
目の前にいるのが
──昔の感情が、吹き上がった。
解除される現世の〝記憶〟のロック、それは紛れもなく強い光のようで。
次に取り戻したのは、言いようの知れない怒りの〝感情〟だった。
『……こんなところで、なにしてんだよ』
おまえは、現世でしあわせに生きてるはずじゃなかったのかよ。
────ふざけるな。
怒り方を、思い出した。
思い出したままに、
既に
それを──〝文月咲耶についての記憶〟から
使命に『機能』に全力で逆らって、叫んだのだ。
『帰ろう。帰りたいって言え。帰るんだよ!』
『俺と、おまえで!』
『──今からすべて、終わらせて!!』
そして俺たちは手を組んで。
ついでのように魔王をぶった斬って。
こちらを逃すまいとする人類を振り切って。
……当時の俺はまだ、ほとんど怒り以外の感情を、取り戻せていなかったけれど。
意外と、人間のフリはなんとかなるものだった。
ちょっと変なキレ癖がついてしまった上に、向こうでの彼女との会話がすべて険悪になってしまったことは、悪かったと思っている。
でも、勝ったのだ。
ちゃんと。
勝って、自我を押し通したのだ。
だから。
俺はあの世界に憂いも未練も、ひとつだって残しちゃいない。
確かに終わった。
終わらせた。
その認識が、自覚がある。
今更「普通に生きる」なんて厚顔な目標を掲げることに、なんの躊躇も恥じらいもなかった。
だって、ほら。
結構がんばっただろ、俺。
ついでとは言え、ちゃんと魔王倒したんだぜ?
なんだかんだと言って、クソ異世界に義理は果たしてやったんだから。
その上で、咲耶まで助けたんだ。
絶対褒められていい。誰かに。誰も褒めなくても俺が自分で褒めるからいい。
褒美に空から三百万降ってこないかな。学費にする。
……いや、義理っていうか。
聖剣はパクったのは悪いと思ってるけど。外せないし。
人間は、腕が二本あった方が便利だし……。
こっそり帰ろうとしたら、めちゃくちゃ異世界人に追いかけられたの、絶対に聖剣パクったせいだよな。
あとは魔女生かすのもアウトだったらしい。
知らんわ。知るかボケ。
勝手に呼び出したのはテメェらだ。
今度はこっちが好き勝手にやって、何が悪い。
──ここが、この場所こそが、完全無欠のハッピーエンドだ。
そうだろう?
……そう思って、現世に帰ってきたのだ。
だというのに、待ち受けていたのは「帰る家すらない」という現実だった。
いや、もう。噴飯。
◇
深夜。病院を抜け出して、辿り着いた先の更地。
その時の俺は、二年の間にすっかりと錆び付いた感情を、無理矢理に駆動させている状態で。
感情の出力がわかっていなかった。
そうでなければ、咲耶を放り出して笑い転げるなんて非常識をするものか。
俺は、ひとしきり笑って、笑った後に、途方に暮れた。
だって、そうだろ。
かろうじて覚えていた
ならば。
……何を持って、自分の存在を証明すればいいのやら。
一度、
取り戻した彼女への感情と、僅かな記憶。
それを由来に再生した「自分」が不確かな存在であることは、わかっていた。
ようやく思い出した〝記憶〟すら、じくじくと自分を責める。
──誰だよテメェ。
──知らねぇよ。
──とっくに終わってんだよ、
まっさらになった地面が、そう言っているように聞こえた。
……もう、笑うしかないのに、笑い疲れてしまった。
「飛鳥」
呼びかけに、ゆっくりと振り返る。
いつの間にか、咲耶は近くの自販機で飲み物を買っていたらしい。
「どっちがいいか、選びなさい」
差し出された二本の缶。
「ココアと……何、おしるこ?」
なんだその組み合わせ。
咲耶はしかめっ面のまま、目を逸らした。
「…………見間違えたのよ」
「いやおまえ視力いいじゃん」
咲耶は時々、絶望的にどんくさかった。
「るっさい! あんただって、ココアとコーヒー間違えたことあるくせに!!」
──それは、あの日の教室での出来事だった。
「…………覚えていたのか」
「な、何よ。忘れるわけないじゃない」
うろたえる彼女を前に、立ち尽くす。
──ああ、アレは本当に、あったことだったんだ。
俺を知っているのが、
記憶の真実性が保証されたことが。
それをよすがにする不安定な自我が、少しだけ地に足ついたことが。
何よりも、彼女が、覚えていてくれたことが。
──どれだけ、救いだったか、なんて。
きっと、俺以外の誰にもわかりはしない。
「……いや、でも汁粉はねーわ。どうやったら見間違うんだよ。全然ちがうだろ。節穴か?」
「うぅ……!」
節穴の自覚はあるらしく、悔しそうに呻きながら俺にココアを渡そうとする。
「いいよ。寄越せよそっち。おまえは、甘すぎるのは苦手そうだから」
咲耶から、小豆色の缶を奪い取る。
意地っ張りな彼女はそれを奪い返そうとするから。
さっさと開けて口をつけてしまう。
「はは……なんだこれ。バカの甘さだろ」
そのまま、道端にしゃがみ込む。
「どうしたのよ」
「いや……味がするなって」
「当たり前でしょ」
違うよ咲耶。
そんなこともずっと、当たり前じゃなかったんだ。
「…………寒いな、今日」
「今まで気付かなかったの? 本当、ばかね」
違うんだ。
おまえがくれたものが、あまりに温かかったから。
今、気付けたんだ。
──あの時は、まだ。
それを伝えるための言葉も。
そう伝えることが許される関係も。
俺たちの間には、なかったのだ。
◇
本当に。
こちらに戻ってきてから、与えられてばかりだった。
それに報いる方法に、悩み続けるくらいには。
とっくに、救われていたのだ。
そして救われた後に、恐ろしくなった。
俺は所詮、日南飛鳥の〝成れの果て〟だ。
「正しくない人間」だ。
──たとえ彼女が昔の俺を、好きだったとしても。
こんな
付き合わせるわけにはいかない。
そう思っていた。
……思って、いたのだが。
窓から入ってくるんだよ、なんか。
こっちの気も知らず。
わけがわからん。
そんなのだから、こっちの葛藤とか全部、なし崩しになってしまった。
なし崩しになってキレてるうちに、なんか大丈夫な気がしてきた。
意外と、意外と大丈夫じゃないか? 自我。
俺は結構人生が上手いし、なんとかなるだろ。
そんな気がする。
いちいち悩んで考えて、というのは性に合わなかったのだ。
往生際は、見極めなければならない。
突き放しても──それでも、咲耶は俺に会いに来てくれたのだから。
こちらも、誠意を返すべきだ。
いい加減に向き合う覚悟を決めて。
俺は、彼女に手を差し出して。
ここからもう一度。
初恋も敵対も全部、まっさらにして友達から。
正しい関係を積み上げていこうと決めたのが。
ほんの八日前の屋上での、出来事だった。
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