第28話 願うはあなたの幸福ただそれだけ。
◆
異世界なんて本当はなくて、全部、わたしたちの頭がおかしくなっただけで。
それで全部片付くなら、そういうことでいいとすら思っていた。
それで元に戻れるなら。
でも、あいつの腕はおかしなままで。
わたしは死なない身体のまま。
わたしたちの現実は、どこまでも空想のまま。
異世界に、呪われ続けている。
だから願った。
あなただけはせめて、正しく生きていけますようにと。
……けれど、それが根本的に間違っていたとしたら?
最初からわたしたちは
『正しく生きる』なんて願いが、滑稽なままごとでしかなかったとしたら?
──今更、何を我慢することがあるのだろう。
愛した人の心が
その答えは簡単だ。
奈落よりももっと深く、愛してしまえばいい。
わたしの願いはあなたの幸福だった。
そのために、すべてをひとっ飛びに解決する方法を、わたしは初めから知っていた。
──幸せなんて所詮、脳の働きの結果にすぎないのだ。
中身を弄った、異世界の
だって、それは。
……とても、効率的で、冴えたやり方だと思えてしまう。
だからこそ。
あなたを救う方法なんて最初からわかっていた。
魔法で脳味噌を弄くり回して、幸福を書き込んでしまえばいい。
それだけで、すべての憂いは解決する。
そうすれば、地雷原を怯えながら歩くような、綱渡りの会話もしなくていい。
……それをしないことが、わたしの果たすべき義理だと信じていた。
だけど。
あなたがとっくに壊れていたというのなら。
あなたがとっくに、わたしと同じ間違った生き物になっていたのなら。
そんな義理に意味はない。
──初めから。わたしは、
倫理も正しさも要らない
そんなものでは救われない
必要なのは愛と庇護。
あなたを守るという、強い意志。
今度こそ。
あなたの目を塞いで、籠の中に閉じ込めて、もう何にも傷付けさせやしない。
論理が破綻している?
別に、かまうものか。
だってわたしは魔女だから。
『悪い魔女はどれだけ間違ってもいい存在だ』と、『定義』で、『制約』で、『文脈』で決まっている。
わたしは、わたしの決めたルールに沿っていれば〝何をやってもいい〟そういうことになっている。
それが『魔女』の正体──それが、あの異世界で最強の
どれだけ間違っていても。
最終的にわたしが、願いを叶えられれば、それでいい。
たとえあなたが『成れの果て』に過ぎないとしても。
愛する覚悟は、とうにできている。
わたしは祈らない。
魔女は、自らで願いを叶える生き物だ
◆◇
そして、
夜風は正常な空気で、初夏の匂いだけが満ちていた。
温度の涼やかさと相反するように、彼女と彼の間の距離は、不穏の塊で満ちていた。
「あなた、わたしを助けた理由なんて『ない』って言ったわよね」
本来、
それを打ち止めた理由はなんなのか。
「わかっているわ。『あなたはわたしのことは覚えていた』、いえ……あの世界で、わたしのことを思い出したからでしょう?」
互いが同じ境遇だったのならば、争う理由がないからだ。
──ただし、
「思えば、戦っている時のあなたはまるで機械のようだったわ。自我なんて、なかった。
でも、わたしに再会したことで現世を思い出して、ほんの少し自我を取り戻した。
記憶の中に
それしか覚えてないから! それを、優先した。それだけでしょ。
更地を見て生い立ちを思い出したように、たまたまわたしに会って正気を取り戻したから! わたしを助けてくれたんでしょう!!
あるいは、それすらもなく。
ただ、目の前にいた
『理由がない』ってそういうことだろう!!」
彼女は口調を荒らげる。
らしくなく、低く、囁くように憎悪を吐く。
「ふざけるなよ」
右目が赤く、飛鳥を睨めつけて、一切の
──拳から滴る血一滴、地面に落ちる。
──赤い粒子が煌めいた。
「『明かせ』」
異界の言語での詠唱、それを皮切りに。
岐路の一帯、何もなかった黒い
──否、先程まで、魔法で隠されていた
複雑なようで単純な、幾何学のようで絵画のような、意味の読み解けない魔法陣。
「……っ」
足元一帯を埋め尽くすそれに、飛鳥は動揺を浮かべる。
──何故。
それは、魔法で隠されていたとはいえ、紋様に気付かなかったことへの動揺。
魔女の使う、大掛かりな魔法には血肉が必要だ。
魔法陣は、『血で描かれていなければならない』。
そして天敵である
だが、先も、今も──血の匂いはしなかった!
紋様は血のように赤い。が、その赤に見覚えがある。
「……口紅か!」
「正解よ」
拳に握りしめていた、割れた口紅のケース──傷から滴る〝血〟に染まったそれを、魔女は地面に落とす。
カシャン、と。
地面に破片が飛び散ると同時。
詠唱の宣言。
「『
──まずい。
彼女に喋らせてはいけない。
飛鳥は地を蹴って、
「『動くな』」
その前に、彼女の〝魔眼〟が光った。
逃げ──間に合わない!
かつて彼の窓の鍵を開け、記憶に鍵をかけた、その目の権能は『鍵』だ。
動きに
飛鳥の身体が停止する。
現世では一日に何度も使えない手札を、魔女は早々に、惜しげもなく費やした。
そして。
誰にも邪魔をされることなく、悠々と、魔女は
「血は赤く、口紅もまた同様に赤い。
口紅はわたしの唇を形作るモノであり、類似するものはすなわち同じモノだ。
薄皮一枚の上に塗った口紅は、もはや『わたしの唇そのもの』と言えるでしょう。
──ゆえに『
その言葉で、『口紅』は『血』に改変される。
口紅による紋様は、魔女の血肉で描かれた
条件は満たされた。
魔法が発動し──世界の色が変わった。
街灯、塀、アスファルト、大地は現代のまま。
空だけが真っ赤に染まる。
それはまるで、あの異世界の真昼のような空だった。
「……なんの結界だ、これは」
動けないまま彼は問う。
「擬似的な異世界よ。わたしにだけ
魔女はあっさりと明かす。
言葉で語れば語るほど、魔法の強度は上がるからだ。
「異世界のモノは『カメラには写らない』」
肉体に紐づいている義手や、大層な代物ではない包帯については別だが。
「それをヒントに、わたしたちの『存在の座標』をずらしたの。ここら一帯を『現世ではない』と定義して、わたしたちがどこにいるのか、という『世界の認識』を塗り替えた」
説明しても理解の及ばないことを説明する。
正直なところ、彼女自身にすらよくわかっていない。
けれど深く考えないまま、そういうものだと飲み込んで、無理矢理な理屈を通すのが彼女の
十全に力を振るえない現世ではここまで面倒な手順を踏まねば、こんな簡単な魔法すら使えないが。
それでも十分。
──だって、わたしに魔法は使えるけれど、彼には使えない。
剣が出せなければ、その腕は、多少魔法に耐性があるだけのもの。
彼の身体能力は人間並みだ。
──
「これで、魔法が解けるまでは……そうね、強度を高めるために〝制約〟を付けましょうか」
スマホを取り出して、アラームを設定する。
「十二時──すなわち童話の文脈において『魔法が解ける時間』。
冷や汗を彼は額に浮かべる。
目の前の彼女が本気なのだと、気付いたからだ。
「何を、」
しようとしているのか。
何が狙いなのか。
「決まってるでしょう?」
魔女の魔法は、呪いだ。
呪いは認識に作用する。
あらゆる言葉は呪いになるが故に、魔女の言葉はすべてが呪文だ。
故に、躊躇うことなく狙いを言葉にする。
「あなたは言ったわ。
勝った方が、正しいんだって。
わたしの目的は、あなたに勝つこと。
たとえこれが間違った選択だとしても。
勝って、わたしが正しかったことにする」
──あなたはわたしを救ってくれた。
だから今度は、わたしの番。
そのためには──
真正面から指を突きつける。
「わたしは今度こそ、
宣戦布告、それこそが、最高の呪文。
魔女は悪辣に、心底の笑みを浮かべた。
「勝って、あんたの
恩を仇で返す、愉悦と覚悟の笑みを。
◆
──願いを叶える力はまだここにある。
それが何よりも呪わしくて、けれど今は。
それが、何よりも、喜ばしかった。
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