4節 それは恋の成れの果て、だとしても。

第27話 腐った青色。


 ◆


 わたしたちが現世に戻ってきたのは、まだ寒い二月のことだった。


 すべてを振り切る逃避行は、無傷で帰る、というわけにはいかなかった。

 その上、現世に転移が叶ったと思ったら、空から落ちたものだから。

 魔法やらなんやらで受け身は取ったものの、飛鳥は裂傷、擦過傷、打撲やら、とにかく軽傷のオンパレードで、けれど治癒魔術なんてものは持っていないから、そのまま病院送りになっていた。


 それで、入院中にうっかり異世界のことを口走ってしまったというのだからお話にならない。


 閉鎖病棟に入れられそうだ、と公衆電話で泣きつかれたので、わたしが魔法で関係者の記憶とカルテを書き換え、事態の収拾をする羽目になったのだ。


 本当に、ありえない。




 その頃わたしたちの仲はまだ険悪で──というのも互いの正体に気付かない内は、わたしたちは普通に殺し合っていたので、今更友好的な態度など分からなくて──飛鳥の、

『たすかる』

『悪い』

『ありがとう』

 という言葉すら濁って聞こえたし、わたしも刺々しい返答しか持ち合わせていなかった。




 そうして事態の収拾を終えたのだけど。

 彼は何故かそのまま、外へ向かおうとしていた。


「とっとと病院、戻んなさいよ。肋骨とか折れてんでしょ。貧弱勇者」

「戻ってくる時誰がおまえのこと庇ったと思ってんだ。ありがとうございますも言えねえのか」

「あらあらあら。失言かまして無様に泣きついてきたのはどちら様だったかしらぁ」

「はいはいありがとうございます。ありがたすぎて涙出そう」

「顔面鏡に突っ込め半笑い野郎」

「うっせぇ脳味噌治安最悪女」


 そんな中身のない薄っぺらな罵倒の応酬、条件反射のように悪態を吐くだけの、虚しい関係。


 患者衣のまま、目の下に深い隈を作った彼は、溜息を吐いて言う。


「……せっかく病院抜け出してきたから、一回、家に帰ろうと思ったんだよ」

「あんた、家族……」

「いないけど。いないからさ、家、ほったらかしなんだよ」


 この人には。現世にすら、おかえりと言ってくれる人もいないのか。

 わたしが最初からしかめ面をしていて良かったと思った。


 飛鳥はぼんやりと虚空を見て、呟く。


「家、アライグマにめちゃくちゃにされてたらどうしよう」

「……はい?」

「舐めんなよアライグマ被害。あいつら可愛い顔してえげつねぇんだぞ」


 気が、抜ける。


「そういうこと、なら? ええ、帰るといいんじゃないかしら。わかんないけど」

「……で、なんでおまえはついてきてんの」

「別に、いいでしょ。暇なのよ」

「あそ」


 ついてくるな、とは言われなかった。






 深夜、冷え冷えとした夜の道を無言で歩き続ける。


 わたしの格好は上等なワンピースにガラの悪いスカジャンなんて、おかしな組み合わせで、二月にはまだ寒すぎる服装だった。

 わたしもまだ、現世のやり方を思い出せないでいたのだ。


 けれど飛鳥が患者衣のまま、わたしよりもずっと寒そうな格好で、顔色ひとつ変えずに歩いているのを見て。

 じくじくと心臓が痛んだ。

 ──寒いとか、多分、彼は忘れてしまったのだ。


 袖から見える右腕は、痛々しく包帯に覆われている。

 その中身が何であるかをわたしは知っているけれど、現世の人たちが気付くことはない。

 あの包帯は、異世界むこうの特別製だから、巻いているかぎり中身がバレることはない。

 ちょっとやそっと触れられるのだって平気なのだという。

 それでも流石に、病院相手には誤魔化すのが厳しかった。


 外すことができないから、きっと面倒はこの先、ずっと付き纏うのだろう。


「……この装備は呪われていて、外すことができません」

「なにそれ」


 呟きに、こちらを振り向かない相槌。


「ゲームであるでしょ」

「あー……あった気がする」

「はぁ? あんた、その程度の知識で異世界勇者やってたの?」

「逆になんで知ってんだよお嬢様のくせに」

「基礎教養だし」

「……そうなの?」


 多分だけど。


「でもなんか、あんまりファンタジーっぽくなかったぞ。人類」

「……そうね。ディストピア小説みたいだった」

「はは。もう二度とSF読めねえ」


 地雷の数を数えるのも億劫だった。


「代わりに異世界モノを読むといいわ。〝本物〟は、素敵なんだから」


 転生モノがいい、と思った。

 一歩一歩、人生を積み上げていく話がいい。


「本物って……物語は虚構だろ」

「嘘が偽物って、誰が決めたの? ……あんなのが実在の『異世界』なんてわたし、認めないから」

「そうなの?」

「そうよ」




「すべての異世界は、〝完璧な夢物語〟であるべきだわ」




「だから、あんな異世界セカイは要らなかった」





 沈黙。


「……それで滅ぼそうとするのはマジで狂ってる」


 救おうとする方が正気じゃない、と思った。


「……なら。なんで、わたしなんかを助けたのよ」

「ハッ、理由なんているかよ」


 感情も感動もない目だった。


「そう。お優しいことね、勇者様」

「俺はそういうふうに呼ばれるのが嫌いだよ」

「飛鳥」

「ん。それで、いい」


 吐いた息が白かった。




 電車もバスも走っていない時間。

 半端に田舎っぽい町の、人気のない道を歩き続けて、ふと。

 彼は足を止めた。


「……どうしたの?」


 目の前は空き地だった。

 ぽっかりと空いた空間に、売地の看板。

 飛鳥はずっと、その空白を見つめて。


「家、ここ」


「は?」


「なんか、なくなってんだけど……」


 言葉を失う。

 帰ってきたはずだったのに。

 おかえりどころか、

 帰る家すら、ない、現実。



「……く、あはははは!!!」



 つんざくように、笑った。

 その笑い声を聞いて、『壊れてしまった』と思った。

 ぞっと寒気がしたのは、冬のせいなんかじゃなかった。



「ハハッ……こんなことってあるかよ、すげえな人生! まだ落ちるか!!?」


 ──かつてあなたは穏やかに笑う人だった。

 そんな土砂崩れのように嗤ったりはしない。


「ふっ、くく……やっべ、骨に響く……痛、死ぬ、死ぬ無理、クソッ痛ってぇな死ね!!」


 ──かつてあなたは柔らかに話す人だった。

 そんな錆びたナイフのように喋ったりはしない。


「あーあ、もう、笑うしかねえだろこんなの。いっそこのまま、隕石でも降ってきたら、最っ高だ!!」


 ──かつてあなたは綺麗に目を輝かせる人だった。


 そんな、死んだような、腐った目を──『日南飛鳥』はしなかった!!



 肺が重たく息苦しい、そんな錯覚に襲われる。

 ぐるぐると目眩を吐き気が渦巻いて、けれどわたしの身体は嘔吐のやり方すらも忘れていて、ただ、ただ。

 顔を掻き毟らないように耐えるのが精一杯だった。


 空は真っ黒で、星ばかりが嫌に綺麗で。

 嘲笑うような細い月が、彼の背で、わたしを見下ろしていた。


「なぁ、咲耶」


 ──笑えるだろ、と。

 同意を求めるように。

 死んだ目で笑うあなたに。


 わたしは舌を噛み切って、すべてを取り繕って、『そうね』と綺麗に微笑み返した。

 血を飲み込んで、持てる全霊を尽くして、泣き出したいのを堪えたのだ。



 あの夜が一番暗かった。

 どこか遠い世界の真っ暗闇よりも、あの夜が。

 けれど、どんなに暗い夜よりも──あなたのことが、怖かった。






 こうなる前からわたしは、『人生なんて演劇みたいなものだ』とずっと思っていた。


 あの異世界で。望まぬ役を与えられ、舞台の上に引き摺り出された二年。

 魔女わたしは、舞台せかいを壊すことだけを考えて生きていた。


 けれどあなたは、舞台を降りる選択肢を与えてくれて。

 わたしたちは目を焼く照明ひかりから逃げ出した、はずだったのに。


 ……過去から、逃げられはしないのだと思い知らされる。


 逃げ出したはずのここは、深く暗い舞台下で。

 真夜中より深い、奈落の底なのだと。

 ようやく、気付く。



 ──ああ、やっぱり。あんな世界、滅ぼしておけばよかった!!!


 後悔。

 後悔しかない。


 向こうの世界で、最後の戦いのその時に。

 勇者あなたに負けなければよかった。

 あなたの手を取らなければよかった。


 あの時、ちゃんと勇者あなたに勝って!

 綺麗にすべてを、滅ぼしておけばよかったんだ!!



 でも。

 今更そんなことを考えても手遅れだ。

 わたしは、わたしひとりだけが……あなたに、救われてしまったのだ。

 あの世界に、飛鳥あなたひとりを取り残して。


 なんて、浅ましいのだろう。

 救われたいなどと願った自分自身を、呪う。


 わたしは、わたしのために世界を滅ぼしたがっていた。

 わたし自身の怨念と、復讐のために。

 そのために、わたしは魔女になることを選んだ。


 それは嘘じゃない。


 けれど、あなたと再会したその時に。あなたのその目を見た時に。

 世界を滅ぼす意味は、理由は、変わっていたのだ。



 ──あなたの瞳を曇らせる世界なんて、滅んでしまえばいい。



 その憎悪は、今でもわたしの中に燻っている。



 冷たい夜の中、わたしは思考を回す。

 想いが軋みを上げて、答えのない問いの答えを探して、目が回る。


 ──かつて恋した人が壊れてしまったら、どうすればいいのだろう。

 わたし自身の存在すら、もう、歪んでいるというのに。


 できるのはひとつだけ。

 いつか普通に戻れることを祈って、人として生きていけることを願って、すべてを笑い飛ばして、隣にいる。

 それだけができること。

 それだけが、終わった恋の行き着く先。

 残された、愛の証明。


 だからわたしは、隣にいることを決めた。

 隣で、いつかあなたが、正しく笑えるようになるのを見届けようと思った。

 隣にいる理由がそれで手に入るならば、それで願いが叶うのならば。

 わたしは魔女だって道化だって演じてみせる。


 だから。


 なんでもいいから。

 もう、なんだって構わないから。

 わたしに怒って。

 わたしに笑って。




 わたしを見てよ。






 ねえ、飛鳥。







 ◆◆





 そして魔女は、かつて恋した人の心が、異世界に奪われたまま戻っていないことに気付いてしまった。

 本当に頭を、心を、彼岸よりも遠い向こう側に置いてきてしまっているのだ。

 置いてきた、いや。

 それならまだしも。

 そんな生優しいものじゃない。

 奪われて壊されて、塗り替えられた。


 ふざけるな、と魔女は唱える。


 全部終わったんだ。

 終わらせたんだ、二人で。


 ──そうでしょう。


 だから。


 ──そんな目で、わたしを見るな。


 青、青──腐った青!


 その色が、おまえのその目が!




 わたしは──世界の何よりも、嫌いだ!!

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