第5話
「――――っ!?」
竜は飛び起きました。
突然の事象を振り払うかの様に、夢の中から現実へと戻ります。
――周りを見て、視界にいつもの花と木々が映って、それで起きたのだとわかりました。安堵の溜め息を吐いて、再び背中を巨木に預けます。
「……やれやれ、古いものを…。六百年前…だったか、確か」
指を順番に立てて、数え終えたら力無く地面に腕を下ろしました。再び目を瞑ろうとしましたが、何気なくチビの存在を確認します。
「……ん、はて?」
巨木の窪みに、チビは居ませんでした。
少々不安に駆られたので立ち上がると――猿が花園の中を歩いていました。チビは抱かれており、猿の顎の毛をいじっては笑っています。
「全く…何をやっとるかあいつは。おーい、猿!」
「――…うきゃ? 何ですかィ旦那ァ!」
「何をしているだお前はぁ!」
「チビがぐずったんで、こうやってあやしてるんですよォ!」
何だ、と竜は腰を下ろしました。
変に心配していた自分が途端に恥ずかしくなり、また巨木に凭れました。
今は、時間的には夜が明けたばかり。
まだ空は薄暗いので、またもう一眠りしようとしました。
――ガシャガシャと、金属の音が聞こえてきたのはその時の事。
「ん…?」
「わわわっ、旦那ァ!?」
慌てた猿は、チビを抱えて急いで花園を駆けます。
やっとの事で竜の前に来ましたが、足がもつれて転けてしまいました。投げ飛ばされたチビを竜は優しく掌で受け止めて、木々の間から現れた人に眼差しを向けます。
「――確認した。あの子供で間違いないだろう」
「……お前たち、ここに何しに来た。開拓が目的では無い様だが…?」
竜は怪訝に訊ねました。
開拓が目的ならば、護衛の騎士と一緒に斧を持った平民がいる筈です。
しかしこの場に現れたのは、重厚な鎧を纏った騎士達のみ、鋼の兜で顔さえ見せない装備。
つまり、開拓では無く――殲滅。
そしてその中心に居たのは、一人だけ兜を被っていない、騎士を束ねる騎士団長。
普段から遠征に行っていて姿をあまり見せない筈の、幾多の策略で竜を殺してきた騎士が、直ぐ目の前にいたのです。
勿論、漆黒の竜もその噂は知っていました。
だからその問にも、知らず力が入ってしまいます。
「…人の言葉が話せるのか、珍しいな」
「答えろ。返答によっては後悔するが」
後ろで隠れる猿にチビを任せて、睨みを利かせます。
「勘違いしないでもらいたい、竜。…それより、君に名前はあるのか?」
「無い。それがどうした」
「いやなに、ただ単に気になっただけの事。――悪竜ファーブニルの弟はどんな名前か、と」
凛とした無表情は、淡々と思っていた事を言葉にしました。別に嫌みを言いたかった訳ではありません、団長の性格があまりにも無機質な為の事です。
「……ファーブニル…? それって六百年前の、
顔だけを覗かせていた猿は、団長の言葉を半歩遅れて理解し、そして漆黒の顔を見上げました。
対して竜は、重く押し黙ったまま表情を変えません。しかしその眼には、どこか揺らぎを感じました。
「見ていた人間がいたんだ。竜の生態調査専門の家柄らしく、今はもう廃れているから探すのに苦労はしたがな」
聞いてもいないのに、また無機質は淡々と言葉にしていました。そんな表情をしていると、人の眼にもわかったのかも知れません。
「…………っ」
「しかしまぁ、それはさほど気にはしない。君はあの竜ほど暴虐的では無いし、現に人を襲った事も無い。――だから話し合いで済ませようか」
団長は前に出ました。
白い花園に鉄の音が侵害します。
木々と巨木の中心でそれは止まって、代わりに無機質がまた喋り出しました。
「その子供を返してもらいたい。それは俺達人間にとって大切な――」
「ジークフリートの生まれ変わり…、だな」
竜は遮って言いました。
「――見たのか?」
「ああ。忘れもしない
さして驚きもしない団長、恐らく予想していたのでしょう。
「…ふむ。仇を前にしてまだ傍に置いているのか…。竜にしては大した心だ」
「見下げるな騎士。恨みなど、初めから持ち合わせてはおらん」
「……そうか、まぁそれはもういい。兎に角、今すぐにその子供を返してほしい。人の子は煩くて適わないだろう?」
婦女に差し出す様な片手、諭す無機質の眼。
竜を前にした人とは思えない程、団長の声はゆったりと落ち着いていました。
――と言うより、やはり無機質でした。
「…………」
「人質にするつもりか? まぁそれならそれで此方も準備をしてきているが――」
その言葉によって、後ろに居た鉄達が更に花園を侵害しました。
剣、槍、斧、弓矢。
それぞれを携えた精鋭九人、騎士団長補佐を務める凄腕の豪傑達の一部。
堅い鱗を持った竜でも、彼らの技量の前では苦戦を強いられています。
しかし、この騎士達は普段と違っていました。
持っている武器の刀身と鏃が、仄かに蒼色を帯びているのです。
「…精鋭ともなればそんな物を持てるのか。話し合いをするのではなかったのか?」
「している。これはただの牽制、君が要求を呑まない場合の保険だな」
淡々とした口調、悪びれた素振りなど一切ありません。
竜を警戒しての事と、もしもの時に強行する為でした。
「……一つ訊こう。こいつを渡したとして、お前たちはこいつをどうする」
「勿論丁重に城で保護する。我々人類の宝だからな。」
「そうか。…では――渡す」
「だ、旦那!?」
振り向いて猿を見る漆黒の瞳。それに迷いが無いとわかって、猿は咄嗟に背中を向けてしまいます。
「……猿」
「い、嫌だ! 旦那わかってるんでかィ!? あいつらはチビを道具にするつもりなんですぜェ!? そんなのって…っ!」
「わかっている。しかし、このままワシらの所に置く訳にもいかんだろ。育てる環境は申し分ない、だから――」
竜が説得しても、猿は此方を向こうとはしませんでした。何が起こっているのかわからないチビは、不思議に猿の涙を見つめていました。
「…よこせ…」
低く脅す竜は、猿に手を伸ばします。
チビを引き離そうとしましたが、猿は必死に抵抗して離そうとしません。爪で肩が引っ掻かれようが、抱き締める腕の力を弱めません。
「――よこさんかぁ!!」
「うきゃ――っ!」
竜は猿を剥がしました。
チビの襟を摘んで、猿を力任せに弾き飛ばします。
勢いでごろごろと転がる茶色い毛玉は、そのまま花園の中へと消えていきました。
「きゃうぅ♪」
それを見たチビは、いつもの遊びだと思って、いつものように笑っていました。
――竜はチビを摘んだまま、団長の前まで来ます。ぶっきらぼうに差し出して、相手が手を添えたと同時に指を離しました。
「?」
「お別れだ」
目を点にするその小さな顔。
遊んでくれると思っていたのに、漆黒の瞳に一瞥され、名残なく背中を向けられました。
「……うぁ、う?」
「ほぅ。意外と呆気ないのだな」
「煩い。早く行け」
漆黒は此方を向こうとしません、その背中で壁を表す様に、人を隔てて拒絶していました。
「まぁいい。――目標は確保した。撤収」
団長の掛け声と共に、騎士達はガシャガシャと花園から出て行きます。
チビは何が起こっているのかわからず、団長の背中から顔を覗かせて、必死に竜の背中に呼び掛けました。
「うぅー…ああぅう!」
「…………」
「きゃうぅう!? あう………ひっ…ひっ――ぴやああぁぁぁ!!」
チビは到頭泣き出してしまいました。
抱いている鎧の硬さと鉄臭さが嫌なのか、親しんだ一頭と一匹から離れたくないのか、もがいて必死に漆黒の背中に手を伸ばします。
……しかし、その背中は此方を向いてはくれません。
どんなに言葉にならない言葉を叫ぼうと、その背中は此方に来てはくれません。
どんなに涙を流そうと、その背中はやはり…、自分を包みに来てはくれませんでした。
――やがて、森中を劈いていた泣き声は無くなりました。
あとに残ったのは風の音と、黙り込んで突っ立ったままの、一頭の竜だけ。
「……これでいいのだ…これで……」
「――王。言われた通り、ジークフリートは離れの部屋に移動させました」
「そうか…全く、まだ耳が痛いぞ。あの喚き声は煩くて適わん」
耳の中を小指で掻く王は、ベッドに横たわって果物を頬張っていました。
最初は喜んでチビを受け入れた姿も、今では邪険にした態度でした。
そこに、扉をノックする音が鳴ります。
騎士団長と名乗ったその人物を、適当に返事をして中に招き入れました。
「王。頼みたい事があるのですが」
「頼みたい事? お前からそんな事を言うとは珍しいではないか」
「申し訳ありません。何分相手が相手なものでありまして」
「相手?」
怠く体を起こす王、団長の言っている意味がわからず、怪訝な表情をしていました。
「はっ。これは私の予想ではありますが、恐らく、あの竜は此方に攻めてきます――――」
「…………」
小鳥が囀る花園、花の蜜を吸いに、パタパタと仲間達と戯れています。
その中の中心、巨木で遮られた影の中に、漆黒の竜は凭れていました。いつもの昼寝はしておらず、落ち込む様にそこにいました、
――チビがいなくなった事で、この場はとても静かです。
お腹が空いただの排泄物が気持ち悪いだの、それを訴える泣き声は聞こえてきません。
とても平穏な雰囲気なのに、竜は何かが欠けた様な疲れた表情で、全く動こうとはしませんでした。
「…………猿か?」
横から気配がして、竜は問いかけました。
すると花園の中から、頬を腫らした猿が静かに姿を現します。
「……まだ怒っているのか。だからその頬は悪かったと――」
「違いやす」
遮って、猿は答えました。
「旦那、何でそんなに落ち込んでるんですかィ」
「阿呆。ワシが何に落ち込んでいるというのだ。ただ昼寝をしていただけで――」
「ずっと目を開けたままでですかィ。…あんたが阿呆でェ」
「何だと…」
眉間に皺を寄せて、竜は猿を見ます。
小鳥達が一斉に飛び立つ中、猿だけは真っ直ぐに、その暗闇を見つめます。
言いようの無い恐怖が体中を走っても、猿は真っ直ぐに見つめていました。
「阿呆はあんただって言ったんだ。自分に言い聞かせる様にチビを渡して、結局その様じゃねェか」
「…喧嘩を売ってるのか? ワシは今非常に気分が悪いのでな、例えお前であろうとワシは――」
「上等だァ!! 来いよ腑抜け!」
叫ぶ猿。
風が吹き抜けて、白い花弁は竜の頬を掠めます。
「チビの為だァ? 環境が良いだァ? そんな事はどうだっていい…。あんたはどうなんだよ! 離れたく無かったんだろォが!!」
「…………」
怒る猿。
初めて見るその姿に、叫ばれるその言葉に、睨みはいつの間にか無くなっていました。
「だがわかってる。こんな事言ったって、人は人の場所に置いとくのが一番だろォよ。……だけど…、せめてさよならぐらい…ちゃんと言ってやったっていいだろォがよ……っ!」
声を絞り出す猿は、いつしか涙を流していました。
腕でそれを隠しながら、子供の様にしゃくりあげていました。
――チビと過ごした四日間、それはこの二つにとって、中々に楽しかった数日間でした。
泣かれては慌てふためき、喜ばれては遊び笑い、寝かれては和み微笑み。
三者で空を飛び回った時の、みんなの笑顔は未だに新鮮な記憶です。
楽しかった四日間、ただ寝て過ごすばかりの毎日には刺激が強かったかも知れませんが――悪くはなかったと、竜はそう思っていました。
「……青臭い事を言うな阿呆。所詮ワシらと人では、住む世界が違い過ぎる。あれでいいのだ、あれが…正しいのだ…」
「っ――この分からず屋ァァ!!」
最後に思い切り叫んだ猿は、振り返って花園の中を駆けていきます。
白い花弁を撒き散らしながら、木々の中へと消えていきました。
――残された竜。
また無表情になって、ただただ虚ろに見つめているばかり。
初めから猿など居なかったかの様に、また同じ姿に戻っていました。
戻っていました、が――。
「……さよなら、か…」
一言呟いて、起き上がりました
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