第4話
「……間違い無いな?」
「はっ。あの禍々しい黒、見間違える筈はありません」
森に茂っている植物を薄い甲冑に付着させた兵士は、自分が見て来た事を団長に伝えました。
漂う泥臭さは、人の気配を更に薄める為の臭い。
「この辺りを塒にしているのだな。…今日は一旦戻って装備を整える。明日の明朝に行動開始――」
引き連れた部下にそう伝え、騎士達は森を後にした。
「きゃう!」
「――お。片は付きましたかィ、旦那」
チビを持ち上げてあやしていた猿の前に、帰ってきた漆黒の竜が現れました。のそのそと木々の隙間を通り抜け、どこか浮かない顔をしながら、綺麗な池を意味もなく見つめています。
「……また考えてるんですかィ?」
「…お前が気にする事ではない。いつもの事、だ…」
近くにある木に背中を預け、足を放って座りました。
気に入っている場所ではないから落ち着きませんが、竜は兎に角座って休みたかったようです。
猿はチビを肩に抱いて、石の段差を軽快に跳んで下ります。ゆっくりと、元気の無い竜の傍に寄り、同じく隣に座りました。
「――…ははっ、見て下せェ旦那。チビの奴、旦那が帰ってきてから喜びっぱなしですぜ」
猿の言う通り、チビは竜に触れたいのか、手を伸ばしながら飛びっきりの笑顔を向けています。
それを見た漆黒の顔は、和み微笑みました。
「…ふっ。初めて会った時からそうだが、赤子とは恐怖心が曖昧なのだな」
「いやいや、単に旦那が好きなんですよォ。命の恩人ってわかってんのですよ、きっと」
「何を言うか。お前がワシを呼ばなければチビはあのまま衰弱していただろう。だからお前の方が恩人だ」
「――へへっ、猿如きに勿体無い御言葉ですぜェ」
思わぬ事を言われた猿は、恥ずかしそうに顔を背けました。
でも嬉しかったのか、笑顔は収まりそうにありせん。
「……あ、そう言えば旦那ァ。旦那を待っている時に見つけたんですが、チビの背中に変な模様があったんでさァ」
「模様?」
へい。と答えた猿は、徐にチビの衣服をはだけました。
突然に竜を視界から消されたチビは、不機嫌に唸っています。
「これなんでさァ。何だか見た感じ、葉っぱみたいな――……旦那?」
「――――」
それを見た竜は、いつものぼんやりとした目つきを取り止め、驚愕の眼差しへと切り替えます。
そして何かを発しようとした口は、開いたままに固まってしまいました。
――カチャカチャ、と。
大きな長方形のテーブル、真っ白なテーブルクロスを掛けて、シェフが腕を振るった豪勢な料理が並んでいます。
王はその端に陣取り、一人だけで夕食を取っていました。
料理の量は一人分ではありません、多種多様な物ばかりでしたが、軽く見積もっても十人前はありました。
でもそれら全てが王の物。
主の満足だけを意識した、いつもの食卓でした。
丁度、大好きな仔羊のソテーに手を出そうとしたその時。王だけが存在していた部屋に、大臣が音を立てないように入ってきました。
「王。お食事中に申し訳ありません。どうしても訊ねたい事がありまして…」
「構わん。話し相手が欲しかった所だ」
では失礼して、と大臣は王の横に立ちました。
王はそこまでの姿を確認せず、大好きな肉を一口に切って頬張っていました。
「例の竜の件ですが、先程騎士団長が居場所を見つけたそうです」
「おお。それは本当か!? ふむふむ、これで子供も取り返せるというものだ」
「…その子供なのですが、本当に生きているのでしょうか…。例の竜が殺し合いを好まないというのは私も知っていますが、ですがあの子供は仇ですよ? 竜が手を出していないとは考えにくいのでは…」
浮かない表情の大臣。
腰の前で揃えた両手には力が入り、未だに此方を見ようとしない王に思いを伝えました。
「…それは余も考えていた。“あの竜”と血が繋がっているから万が一は…とな。だが事が起こっているのだからもう遅い、可能性があるのなら縋ればよいし、駄目ならまた待てばよい」
からん、とフォークとナイフを皿に放り投げました。
まだ料理は沢山残っていましたが、王が満足したのだからそれはもうただのゴミでした。
「スー…スー…」
「ぐがぁー…うきゃっ――んが……」
「…………」
月明かりで照らされた花園、白い花弁が静かに輝いて、昼とはまた違った幻想的な雰囲気。
その中心で佇む巨木の中に、三者はいました。
猿は太い枝の上で横になっており、とても大きな鼾を立てていました。時折寝返りで転げ落ちそうになりますが、無意識に反応する腕が周りの枝を掴んでくれます。本当は起きているのではないかという、とても器用なものでした。
対してチビは、お世辞も言えない程に可愛い寝息を立てていました。猿が盗んできた、貴族の屋敷にあった上質な毛布にくるまれて、蓑虫の様に木の幹の窪みで眠っていました。
…そして竜は、いつもしている昼寝の体勢で、じっと地面を見つめているばかり。
眠らずに、ぼうっと何かを考えていました。
――その理由は、チビの背中にあった模様を見た為でした。
葉っぱの形をした赤い痕、虐待の爪痕とは違う、始めから生まれ持っていた様な痕。それを見た瞬間から黙り込んでしまい、結局夜までその状態でした。
竜には、その模様に見覚えがあったのです。遠い遠い昔に、少しだけ、覗き見えた事があるのです。
“兄”が殺されたその日に、偶々近くに来た時に、その場面を見てしまったのです。
「……因果か因縁か…まさか、時代を超えて出会うなどとはな…」
顔を横に向けて、窪みの小さな寝顔を覗きました。
とても安らかで静かなそれを、惟じっと見つめました。
そして徐に、漆黒の爪を向けました――。
槍ほど鋭く尖ってはいませんが、突き刺さる程度には山なりの、そんな黒い凶器。
無表情を浮かべながら、ゆっくりと爪先を、チビにの眉間に向かって突き進めます。
――――乾いた音が鳴りました。
何かが何かを貫き、後ろの木の幹に刺さった様な音。僅かに肉が潰れる音も含んで。
己の爪で突き刺したそれを、竜は静かに見つめていました。
小さな寝息――に忍び寄っていた、細長い毒の牙の持ち主。
チビとの大きさを考えて、別に喰らう気は無くただ通りがかっただけでしょうが、竜は何気なくそうしました。
「んー……あぅ?」
「おっと、起こしてしまったか」
ひょいと爪先で蠢くものを払い捨て、竜は指先でチビの頭を軽く撫でました。
出来るだけ不快にならないように、慎重に慎重に。
「……お前が悪い訳では無いからな。馬鹿な事など考えてはおらんよ」
「きゃう?」
「気にするな。もう眠れ…」
優しく微笑みました。
月明かりに照らされた漆黒の顔には、禍々しさなどありませんでした。
だからチビは、可愛く笑み返して、また眠りにつきました。
――寝たのを確認した竜は、また無表情になって前に向き直ります。
遠い遠い昔を思い出さないように、静かに目を瞑りました。
――飛んで、眺めて、虚ろに、気ままに、気ままに。
目に付いたのは、己の兄がいる塒。
そこは短い草が広がって、廃れた小さな城が佇み、それよりも大きな大木が立つ、それだけの緑の平野。
竜に似付かわしくない、どちらかといえば人が好む、落ち着く場所。
だけどそこに、兄がいる。
まるで人を莫迦にする様に、そんな場所を縄張りに含ませている。
まるで人に喧嘩を売る様に、町の近くにその体躯を置いている。
まるで食糧を観察する様に、眺めては涎を垂らして嘲笑っている。
それが不快……欲求に強欲なその姿が、とても不快。
何でそんなにそんななのか、哀しく不快。
だから今日も止まった、そして眺めた。
また理解を得る為に、また半殺しを覚悟して、またあの城に寄ろうとした。
だけど――先客がいた。
身の丈程の大剣を背中に携えて、
意味が無い甲冑を胸だけに着けて、
飾るだけのマントで体を覆い隠して、
射殺す眼光を前だけに向けて。
それは人、ただの人。
ちょっと腕に覚えがある、これで三十四人目の人。
死にゆく人、無謀な人。
兄を退治しようとする、どこぞの憐れな剣士。
兄が現れる、人に気付いた凶飢が現れる。
城の天辺を破壊した出入り口から、地と天を震わせて飛び立つ。
漆黒のその体躯は、世界を侵す色。
漆黒のその体躯は、人を犯す色。
兄と剣士は、風もない草原の中心で、お互いに眼を合わせる。
焦点なんか要らなくて、ただ感じ取れる命を喰らいたいだけの散眼。
みんなを安心させる為の、決意に満ち足りた鋭い眼孔。
両者は見つめたまま不動で、それを見つめる空の眼も不動で、風が吹かないこの一帯も不動で、半刻経って。
兄と剣士は衝突――――。
――最後に立っていたのは剣士。
兄は翼を切り裂かれ、両腕を断ち切られ、胸を穿ち空けられ、顔面を別ち離され、血がビュービューと吹き出していた。
剣士の体はべっとり赤く粘着。
闘っている内に削れ無くなった衣服の下が、兄の返り血でべっとり真っ赤に染まっていた。
いつの間にか付いていた背中の葉っぱが落ちて、くっきりくっきり肌色が残る。
……飛んで、眺めて、虚ろに、呆然に、呆然に――――――――――――――――――――。
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