第8話 永遠の有限

 昨晩は普段通り十一時に布団に入って円滑に眠りに就いた。澄玲は最近ハマったとかいうスマホゲームを遅くまでやっていたので私より後に寝たのだろう。


 で、相変わらず私の布団に潜り込んだというわけなのだが、相変わらずでないのは私が澄玲を抱きしめていたということだった。


 いや、なぜ?


 起きると澄玲が溶けたスライムみたいに私に覆い被さってることはよくある。ただ、私の腕の中にいて、あたかもそれを受け入れたような体勢でいるのは誠に遺憾だ。


「おいこら」


 などと悪態をついても説得力に欠けるのがまたもどかしい。


 澄玲は私の胸に顔を埋めて寝息を立てている。誰の許可を得てそこにいるんだと問いただしたいが、許可を出したのはこの私だ。


 ぷっくりと膨らんだ耳たぶをつまむと、毛虫みたいにもぞもぞ動く。髪が口の中に入ってきて邪魔くさかった。  


時計の針は九時を向いており、起きるか二度寝するか迷う時間帯だ。


 飯を作る気力を微睡みの中に置いてきたようだったので、二度寝を決め込むことにする。腕の中の澄玲も同意らしい。すやすやと、頬ずりして気持ちよさそうにしていた。


 そんな寝顔を見ながら、私の手は澄玲の頭に移動した。撫でると、砂のように髪が流れていく。澄玲の口元が微かに曲がって、笑っているのかと注視すると乾いたよだれの跡があった。


 きったねー。と思いながらも指で拭う。どこかに擦りつけようかと思ったが、汚れるのは嫌なので澄玲のまんまるほっぺに返してやった。


 朝のなにもない時間で、なにもしない。ひどく無意味な空間ではあるけれど、いつもの忙しい朝よりはマシだった。


 こうして退屈を堪能すると時間の進みはいつだって遅くなるはずなのに、気付けば時計は先ほどより三十分も進んでいた。それは私の脳みそがまだ夢と現の狭間から帰ってきていないだけかもしれないが、どちらにせよ不満はなかった。


 この朝には、面倒事がない。目を背けたくなる出来事がない。人の渦がない。


 人を抱くって、こういう感覚なのか。


 抱かれたことしかない私が、初めて知った感覚。


 ちょー幸せ! と声を張るわけでもないし、誰かに自慢するほどでもない温かさは、私だけが知っていればそれでいいと謙虚なものに変わっていく。これより広げる必要などない。こうして、澄玲を抱きしめて、これだけで一日を終えたらどれだけ充足するだろう。


『でも・・・・・・両思いなら、いいなって・・・・・・』


 もし、互いの思いが通じ合って恋人同士になったら抱き放題なのだろうか。こんな生産性もない時間をずっと過ごして、布団の中で一生を終える。世間に顔向けできる生き方ではないが、顔向けできなくてもいいかと思わせる蠱惑さがここにはあった。


 ずるずると、沼に溺れるように顔を埋める。


 腕、痺れたな。


 思い切り引き抜いたらどうなるかな。


 まさか空中で一回転でもしてくれるだろうか。澄玲ならあるいは、と少々期待してしまう。


 横を向くと、澄玲の顔が正面に現れる。鼻先が当たるくらいの距離で、息遣いが私の唇に触れる。


 薄ピンクの唇にシワはなく綺麗だ。リップを塗っているところを見たことがない。なんかむかつくな。


「んー・・・・・・」


 体が包まれている。背後は布団に、前方は澄玲に。逃げ場のない熱が頭にのぼって思考を溶かすようだった。


 生まれる僅かな隙間から入ってくる風がうっとうしく、さらなる密着を求める。


 力を入れすぎて、澄玲の背中が仰け反ってしまう。力加減がよく分からない。布団とは違うらしい。


 額と額がごっつんこして、まつげが絡まる。くすぐったい。


 そうして顔を近づけると、キスできる距離だなぁなんて思ったりもする。


 キスによってなにがどうなるというわけでもないが、さらなる密着を求めるうえでクリアしないといけない項目なのかもしれなかった。


 澄玲の後頭部を掴んでこちらに抱き寄せてみる。澄玲の顔が迫ってきて、その唇はぷるぷる震えていた。


 首から耳まで真っ赤になった澄玲が、瞼をピクピクと動かす。


 私はその小さな唇に、指を突っ込んでみた。


「んんっ!?」


 触れたあたりで肩を震わせて、私に抱きついてくる。足を絡ませてきて熱い吐息を吐くが、突っ込まれたのが指だと気付くともがもがと暴れ出した。


「あ、おはよう」

「お、おはよっ・・・・・・じゃないよなんで指なの!?」

「なにならよかったんだ」

「そんなの! そんなの・・・・・・」

「舌か」


 ボン! と澄玲の顔が爆発して倒れこんだ。


 布団を引っぺがすと冷たい風が熟成された温もりを奪っていく。


 胸元と腕が、特に寒い。何故かは知らない。


「ま、まつりはしたこと、あるの?」

「あるよ。もうプロレベル。ちまたでは舌の魔術師として恐れられてたね」


 言うと、くしくしと澄玲が白い歯を見せて笑う。


「そっか、よかったー」


 布団に膝を立てたままこちらを見上げる澄玲の満足気な表情が、心を見透かされているようでむかついた。


「ごはんはー?」

「寝たフリするような奴に食わせる飯はない」


 カーテンを開けて、差し込む日光を浴びて伸びをする。


「だからさ、その・・・・・・食いに行くか」

「ほんと!?」

「うん、そんで。どっか出かけよ。休み、だし」

「いくいくー! あ、お、化粧しなきゃっ」


 ばたばたと澄玲が洗面所へ向かっていく。


 なんでどもるように誘ってしまったのだろう。澄玲の顔を見るとどうも唇が麻痺したように動かない。


「ねー! このピーラーってどうやるの?」

「にんじんの皮むきみたいにするんでしょ。貸してみ」

「うん・・・・・・って、ぎょわー! なにするの!?」

「だってピーラーでしょ? こうやってじょりじょり」

「ち、ちがうって! これまつ毛を巻くやつだって友達言ってたよ!」

「それはビューラー」

「え? あっ・・・・・・てへ」

「じょりじょり」

「じょわー!」


 うん。普通だ。


 麻痺は一過性に過ぎない。大丈夫、動く。


 二人して鏡の前に立つと狭苦しいので私は退散する。


「まつりはいいのー?」

「私はいいよ。ちょっと出かけるだけだし」

「えー、一緒におしゃれしてこようよ」


 アイロンで髪をくるくる巻きながら澄玲がこちらを見る。大人びた雰囲気が、胃の中をかき混ぜるようだった。


「じゃあ、ルージュ」


 棚から取り出したものを澄玲から受け取る。


 唇を温い感触が這っていき、光沢が生まれると口の中までスッキリしたような気分になる。


 赤く主張された唇を、澄玲がじっと見つめる。


「なに?」

「う、ううんっ」


 澄玲はあからさまに照れた様子でアイロンを持つ。ジュ、と音がしてあぢぃと悲鳴があがる。


「隠す必要ないでしょ。あんたは私のこと好きなんだから」

「い、言わないでよっ・・・・・・」


 ぽかぽかと力のないパンチで殴られる。


 普段は口紅だけだと色白な肌が目立つのでファンデを使うのだが、今日はどうも血色がいいらしい。くすみや毛穴も目立たないのでBBクリームだけ塗った。ちょう適当。


 けど、いいのだ。


 こいつといると周りからの目や世間体、自尊心や承認欲求のようなものが霧散してまっさらな状態でいられる。偽らず、力まず。


 今朝のようなゆったりした精神状態を欲しているのだな、と初めて自覚した。


「じゃあ、いこ」


 澄玲の手を引いて足早に外へ飛び出す。


 最初は不思議そうにしていたが、やがてご機嫌になったらしく澄玲は私の腕に抱きついて歩いた。歩きにくかったのですぐに引っぺがした。


 それから一緒にランチを食べて、家具を見に行って、昼を回転寿司で済ませてカラオケに行った。


 澄玲はひょろひょろの声でなんとか音程をとっていたが、ひょろひょろすぎてマイクの音量を上げざるを得なかった。


 そのあとに私が歌う羽目になって、盛大にハウリングをかました。うるさい。


 交代するたびにマイクの音量を操作するのは面倒だったけど、先に澄玲が歌うのをやめてしまった。なんでも私の歌がもっと聴きたいらしい。たいしたもんでもないけど、と曲を入れていくと、澄玲は座ったまま目を閉じた。私はオペラ歌手にでもなったのだろうか。客席は静かに、メロディと私の歌声だけが部屋を支配した。


「まつり歌うまいんだねー」

「発声法みたいなのを一回習ったことがあるんだよね。それでかもしれない」

「へー、誰に習ったの?」

「世界一の歌声を持つ女」


 澄玲は口をアホみたいに開けてほぇーと息を吐いた。その世界一の歌声を持つ女の人物像を想像しているのかもしれない。


「まあ教えてほしいなんて言った覚えはなんだけど」

「そっか。でも楽しかったね」


 受付でお金を払って、三時間ほどでカラオケ店をあとにした。


 空の群青は灰色の雲に覆われて外はやや暗い。照明にビニール袋をかけたように淡い光の下を二人で歩く。


「もう雪降らないのかな?」

「降らないでしょ。降っても困る」

「好きなんだけどなぁ」


 そんなことを言われても、降らないものは降らない。冬は終わったのだ。


 終わったものに手を伸ばすほど無駄な労力はない。せめて憧れと夢を抱くぐらいに留めておかないと、決して届かないと知ったときに痛い目を見る。


 永遠なんてないのだ。


 いつか来る終わりにむけて、私たちは常に準備を怠ってはいけない。かといって準備に戦力を注げるほど暇なわけじゃない。


 だからせめて心構えを持つべきだ。


 それから私たちはスーパーで晩ご飯を買った。袋はいらないと澄玲が言ったので、背負ったピンクのリュックに遠慮なくぶちこませてもらった。


 小さな肩では支えきれないらしく、ふらふらと蛇行して歩く。


「持、とうか?」

「え?」

「ほら、あれ。重そうだし」


 目を合わせると落ち着かないので、視線をそらしたまま手を差し出した。


「・・・・・・ううん、だいじょうぶ。ありがとね、まつり」


 えへへ、と無邪気な笑顔を浮かべて澄玲が走る。その背中を、追いかけた。


「あんまり離れるなよ。暗いんだから」


 その声が届くように、追いかけた。汗が滲む。滲むほどに、追いかけた。


 アパート付近に来てから、突然澄玲が足を止める。


「あ、あれ? キーホルダーが一個ない」

「落としてきたんじゃないの?」

「うーん」


 私は私で下を見ていなかったので気付かなかった。ただひたすら、澄玲の背中ばかりを眺めていたのだ。


「欲しかったらまたあの店に行けばいいでしょ」

「それもそっか」


 愛着はないのか。と小突いてやる。別に愛着を持って欲しいと思ったわけではないけど、そういえばこいつは案外きっぱりとした奴だったなと思い出す。


「でも一応探してくるね。なかったらすぐ戻ってくるから」

「ミイラ取りがミイラにならないようにね」

「おまんじゅうになって帰ってくるかも」


 どういう状況だそりゃ。


 ぱたぱたと駆けていく澄玲を見送って、私は一足先に家へ入ることにした。


「あ」


 二階にあがると、部屋の前に知らない男の人が立っていた。


 不気味だなと思い、引き返そうとすると、


「花芹茉莉さんですか?」


 名前を呼ばれたので足を止める。


 スーツ姿の男はキツく締まったネクタイをもう一度締めて、落ち着いた足取りで私の前までやってきた。


 深々と下げられた頭を見ながら、ああ、と私は気付く。


 どんなことにも終わりはある。


 だからその一つ一つに憂いを差し込むよりも、離れていくものに対して区切りをつけられるような心構えを日々持ち続けることが大事。それは私自身よく分かっていた。けど、すぐに思い知る。


 全然、できていなかったんだと。


 男の言葉は、耳鳴りが重なってよく聞こえない。頭がぼんやりして理解できない。胸が重苦しくて受け入れられない。


 ただ、永遠などないと。


 有限に例外はないと。


 そう言われているようで。


「はじめまして、茉莉さん。澄玲がお世話になっています」

「・・・・・・はい」


 俯いて、叱られた子供のように、話が終わるのを待つことしかできなかった。

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