第3話 黒色マグカップ
オーディション会場は少し遠くにあるコメディスクールの中だった。
素人でも応募可能で、十五歳から四十七歳までエントリーができるとのことだったのでネットで申し込みをしたらうっかり通ってしまった。
「終わったら連絡ちょうだい。私はどっかで時間潰してるから」
「わかった! がんばるね! るねるねっさんす」
そう言って元気よく車から飛び出して会場へ走って行く澄玲の背中を見つめる。
ありゃ落ちたな。
だってやってることジョ○マンと同じなんだもん。
澄玲を無事届けた私は終わる時間まで近くの商店街でブラブラしていることにした。家に帰るには少し遠い距離だ。往復は面倒だし、喫茶店で優雅にうたた寝でもしていればいい具合に時間を潰せるだろう。
車は近くのスーパーに停めさせてもらって、徒歩で向かうことにした。最近はハンドルを握るよりも外の風を受けながら歩く方が心地がいい。誰の影響だろうか。
商店街に着くと、懐かしさがこみ上げてくる。数年前、ほんの僅かな期間だけこの辺りに通っていたことがあったのだ。
その時に常駐していた書店を見つけたので吸い込まれるように入っていく。中は変わらず狭苦しく品揃えもよくない。ただその分、目当ての本が探しやすくもあった。
奥の方にはデッサン用の人形やノートにペンなどが置いてある。この付近にイラストの専門学校があるので、そこの生徒のためのものらしい。前に買い物をしたときに、ここの店主から直接聞いたのだ。
ひとつペンを取ってみる。細く軽く、曲線が綺麗に描けそうな、そんな品だった。
金をかければ上手い絵が描けるわけでもないが、金をかけたのだから上手い絵を描こうとは思うのかもしれない。私はそんなことただの一度もなかったけど、同じ教室でそんなような話をしていた子がいたのを思い出す。形から入るのは大事なのだと、そういった持論や創作論が談義の大半を占めてた、他愛もない教室だ。
「あれ、茉莉?」
変なことを思い出していると変なものを呼び寄せるらしい。
振り返るとベレー帽を被った形から入るらしい奴が私を見て目を丸くさせていた。
「やっぱり、茉莉じゃん。久しぶり、なにしてるの?」
「久しぶり。別に、たまたまこの辺寄っただけ」
「ふーん」
彼女は私の持っているペンを凝視して悪戯っぽく笑う。その憎たらしくも蠱惑な表情は昔と同じだった。
「ペンを持ってるってことは、絵でも描くの?」
「これもたまたま、手に取っただけ。たまたまの究極みたいな」
「そうだよね。専門学校をたった三ヶ月でやめたような人間が絵なんて描くはずないよね」
本屋には他に客もいたはずだが、私の鼓動と、彼女の呼吸音しか聞こえなかった。
「まあまあ、見切りは早いほうがいいじゃん。私には才能なかったみたいだし、別に好きでもなかったし学費の無駄でしょ」
「知ってる。茉莉は風景絵はプロレベルなのに、人物絵になると女児みたいに下手くそなのも、知ってる」
「なら話が早いや」
私はペンを元の場所に戻して肩にかけたバッグの位置を正す。
「辞めた人間は去るのみってね。さいなら」
「ちょっと待ってよ茉莉」
呼び止める声を遮って店を出ると、彼女もついてきて隣に並んだ。
「これからどこいくの?」
「喫茶店にでも行って寝ようかなって」
「え、喫茶店って寝る場所じゃないでしょ」
私よりも背丈の高い彼女は私を見下ろすように笑う。最近はちんちくりんと並んで歩くことが大半だったので、不思議な感覚だ。新鮮、とは違うけど。
同じような速さで歩いていると、彼女の手の甲と私の手の甲がぶつかった。
「手つなぐ? あの時みたいに」
「いや結構です」
「それは残念」
言いながらも、彼女はまったく残念そうな素振りを見せない。私が断るのは知っていた。そんなような表情でかぶりを振った。
喫茶店に入ると私はコーンポタージュを頼んだ。彼女はブラックコーヒーだった。
おや、と思って彼女を見ると唇に指を当ててウインクをした。
「大人になっちゃった」
「それはそれは」
そういえば成人式でも彼女とは会わなかったな。知らず知らずのうちに人は大きくなる。彼女から見た私は、どうなのだろう。
運ばれてきた湯気の立つマグカップを持って、口に熱いものを流し込む。喉を通って胃に着地する感覚はどこか落ち着くようで、くすぐったい。
「茉莉は人が描けないのを才能のせいにしてたけど、わたしは分かるよ。描けない理由」
いやこのコーンポタージュ美味いぞ、と二百四十円の味を堪能していると大人になったらしい彼女が呟く。
「茉莉って人に興味ないでしょ」
「そんなことないけど」
「じゃあどうして人の絵が描けないの? だってあれ、下手なんてレベルじゃないじゃん。本当に女児が描いた絵とまるで同じで、指が六本あったり、顔が体の倍くらいに大きかったり。ねぇ、この指何本に見える?」
「百本」
彼女の方を見ないまま私は言う。
「人の見てる世界なんて人それぞれなのだよ」
「・・・・・・そうやっていつもはぐらかす」
彼女は最初の一口以降コーヒーに手を付けていなかった。湯気はとっくに消えている。
「はぐらかしてないって。そういう価値観も大事ですよね、って話なだけで」
「茉莉って、どうしてそうやって嘘をつくの?」
「・・・・・・嘘?」
「茶化すように真っ赤な嘘をついて話を逸らすじゃん。茉莉がそういうことする時って触れて欲しくない話題がある時でしょ」
「触れて欲しくない話題なんて、ネイルつけたまま大根をすりおろした時の話くらいだって。あれはすごかったなぁ、あ、触れないでくれると嬉しい」
「それを言ってるの。茉莉、ネイルなんてしたことないでしょ」
彼女はコーヒーを飲もうとして、口に近づけたあたりで苦い顔をしてやめた。ミルク入れればいいのに。
「いつまでそうやって自分の感情を押し殺して生きていく気? 少しは自分に正直になりなよ。壁を作ってさ、自分だけの世界に閉じこもるようなそんな生き方、いつか絶対つまずくよ」
喫茶店でするような会話ではないなぁと私は彼女の話を聞きながら窓の外を眺めた。
「茉莉は、一人で生きていけるほど強くないんだから」
「私は最強だよ。ちょう強いよ」
「ほら、また嘘。はぐらかさないでよ。私に抱かれてる時はあんなに『寂しい』って泣きついてきたくせに」
「・・・・・・そういう雰囲気も大事だって思って」
「あんなにわたしに縋り付いてきたくせに。もっと、もっとって、抱きしめてきたくせに」
「まるで女優だったね、私。実は女優の卵だったりして」
「誰かに支えられないと、生きていけないくせに」
「人間みんなそういうもんじゃない? ほら、支え合って人という文字みたいなやつ、言い得て妙だよね」
彼女は唇を噛んで、私を睨んでいた。
「茉莉は強がってるだけで、本当は脆くて弱い。茉莉みたいに弱々しい人間、わたしは嫌いだけど、それくらい、愛おしかった」
「あ、コーヒー飲まないなら貰っていい?」
「いいけど。ねぇ茉莉」
苦みは旨味だ。甘いしょっぱい酸っぱいどんなものも上書きして、舌の上に留まり続ける。思い出すのも、後悔するのも、いつだって苦みが最も鮮明だ。
「今一人暮らしなんでしょ」
「うん。絶賛花屋で働き中」
「寂しいんじゃない?」
私がコーヒーを飲み干すと、彼女が私の元までやってくる。綺麗で細く、長い指が私の手に絡みついてくる。
「また、抱いてあげよっか」
近くで目が合う。紅の載った唇が淡い照明を反射する。艶やかに流れた前髪が彼女の額を露わにする。長い髪をすくうと首筋が露わになって、懇願するように顔を埋めたいつかの記憶が地を這うように迫ってくる。
そんな時、私のスマホが震えた。
『おわったよー』
澄玲からの連絡だった。
泣いているクマのスタンプを見るに、ダメだったのかもしれない。
「茉莉?」
「遠慮しとく」
私は席を立って伝票を取る。
「ほとんど私が飲んじゃったし、出すよ」
「本当にいいの?」
「え、別にこれくらい安いって」
「そうじゃなくて」
彼女は立ったまま私を睨む。潤んだ目は、何を意味するのか。
「茉莉はそれで、いいの」
「それで、とは」
「そんな冷めきってて、いいの」
「ああ」
もう何度も聞いた言葉だ。
「久しぶりに会えてよかった。じゃあね」
会計を終えても、彼女は同じ場所に立ち尽くしていた。
店を出る際、喧噪に混じって彼女の声が聞こえた気がした。
「――嘘つき」
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