第4話 同棲じゃないんです

 新年会は二月の豆をまいた日のあとに行われた。とっくに新年など過ぎてはいるが、忘年会をして年を忘れるわけではない私たちにとっては名ばかりのものなのだ。


 会場は近所の焼き鳥屋で、副店長と白雲さん、それから高橋さんと私の四人が出席していた。新たに注文をとることはなくなり、箸は止まってグラスを持つ手と口だけが盛んに動いていた。


 副店長はすでに酒気を帯びておりいつもより饒舌にプライベートについて話している。高橋さんは最初のほうは館山さんの愚痴ばかり言っていたが、私と目が合うとバツの悪そうに語尾を弱め話題を変えた。


 別に、いいんだけどな。


 飲みの席なんて愚痴が大半なのだし、規律が乱れようとなんだろうと私にとってはそこまで関心のないことだ。


 ちなみに白雲さんは完全に酔っぱらっていた。しかも運の悪いことに私は白雲さんの隣に座っていた。当然絡まれるわけで、今も腕を引っ掴まれて離れてくれる様子はない。


「おいコラくさかんむり四つ」

「なんですかその呼び方」

「花屋で働くために生まれましたみたいな名前やがって、こちとら陸に足着けてんのすら許されないような名前だってのに」

「それならキャビンアテンダントになればよかったんじゃないですか」

「ああ? あたしにそんなんできると思ってんのかよ」


 二の腕を殴られて痛い。拳に角を作らないでほしい。


 白雲さんの赤い髪が私の腕に落ちてギョッとする。血管が飛び出たようだった。


「茉莉よー、このあいだの休み女と喫茶店にいただろ」

「それがどうしたんですか」

「もしかして、これかぁ?」


 白雲さんはニタニタと意地の悪い笑顔を浮かべながら私に中指を立ててくる。


「どういう意味ですかそれ」

「一緒にいて死にたくなるような奴かってことだよ。茉莉、すげぇ顔してたからこれはただの友達じゃねぇなってびびっときたね」

「まぁ、友達ではないですかね。学生時代の知り合いです」

「へぇ、その知り合い程度の女と会うためにあんな遠くまで出かけたってのか」

「違いますって、オーディションですよオーディション」

「はぁ?」


 白雲さんが目を剥いたのを見て、私も主語が足りなかったなと自分の発言を省みる。


「澄玲・・・・・・預かっている親戚の子がお笑い芸人になりたいとか言い始めたんで、会場まで送ってたんですよ」


 言うと、白雲さんは身を乗り出して手を叩いた。


「お笑い芸人!? うっははは! このご時世にそりゃすげぇ!」


 よかったな澄玲。お望み通り誰かを笑わせることに成功してるぞ。・・・・・・これも笑われてるだけか。


「笑っちゃいますよね、お笑い芸人なんて」

「お笑い好きなん? その子」

「いや・・・・・・別にそういうわけじゃないと思います。テレビも見るのは動物番組ばかりですし、興味もあったようには見えないし、しかも本人もそこまで面白い奴ってわけではないです」


 おかしな奴ではあるけど。


「それなのに急にお笑い芸人になりたいって?」

「はい。まぁ、オーディションの結果はお察しの通りでしたけど」


 あれから二週間ほど経ってからパソコンにメールが届いた。不合格の通知だった。


 それを見た澄玲はひどく落ち込んでいた。そりゃそうだ、とぼそっと呟いたら襲いかかられた。だんだん凶暴になってきてる気がするなあいつ・・・・・・。


「はははっ、いいじゃんいいじゃん。お笑い芸人、あたしは応援するわ」


 けれど白雲さんの表情に後ろ向きなものや私のようにバカにするようなものは含まれなかった。それどころか賞賛の拍手までしていた。


 副店長と高橋さんはなにやら立て込んだ話をしているようだったのでそちらに逃げることはできそうにない。


「白雲さんは元々ミュージシャン志望だったんですよね?」


 三十になって夢を諦めて実家に戻ってきた。そんな話を思い出して聞いてみる。踏み込むような話だったのでいい顔はされないと思っていたが白雲さんは誇らしげに頷いた。


「なんでミュージシャンを目指そうと思ったんですか?」

「そりゃ歌を歌うのが好きだったからってのと、あたしの歌声は世界一だったから。ぜってーなるしかねぇって思ったのがきっかけだな」


 ビールを一気飲みすると、熱のこもった吐息が白雲さんの口から漏れる。


「まぁ、生まれる時代が早すぎたみたいだけどな」


 グラスをテーブルに置くと、舌打ちをして白雲さんが壁によりかかる。その目はどこか遠くを見ているようだったが、実際にはそこまで遠くはないのだろう。


 どこまでも夢を貪欲に追い続けるような人は時折見かけるが、目指す場所を定め、自分で区切りをつけられるような人を見るのは初めてだ。その結果花屋であのような接客をしているのだからその道は人間的には失敗だったのかもしれない。


「茉莉は夢とかないだろ」

「え、なんで分かるんですか」

「見りゃ分かるよ。前を向いてばかりいてすぐ転ぶような奴と、後ろと下ばかり見て絶対転ばないような奴。ちょっと手、見せてみな」


 頷いて、差し出してみる。お酒は少ししか飲んでいないのだけど、ほんのり赤かった。


「特に手を見ると分かるんだ。ガキみてぇに転びまくる奴は手に傷があったりタコがあったりする。ほら、あたしは右手の爪が何度も剥げたから形と色が変わってんだ。それから左手の小指だけ太い」

「確かにそうですね」

「だろ? けど、おっかなびっくり下ばっか向いて絶対転ばないような奴は手を地面に着くこともしないからすげぇ綺麗な手をしてんだよ」


 あなたの手は誇れる手ですか。オーディションでは決まってそう聞かれたと白雲さんが語る。


「だから茉莉みたいな手は・・・・・・」


 白雲さんが私の手をじっと見たまま固まる。中指と親指を握って、揉まれる。くすぐったい。


「白雲さん?」

「あー、いや・・・・・・んー、なんだろな。あたし、もしかしたら勘違いしてたのかもしんないわ」

「勘違いなんてしょっちゅうじゃないですか。この間だって予約の商品を切り花にしてたし」

「掘り返すんじゃない。人は失敗を繰り返して成長するんだよ」


 それはそうかもしれないけど、白雲さんは晩成型には到底見えない。ともすれば白雲さんはお花屋さんとしてすでに成長限界を迎えているのかもしれない。店長、クビにするなら今のうちですよ。


 白雲さんはもう一度私の手を握る。熱いものが流れ込んでくるようで、火傷しないようにすぐに離す。


「茉莉」

「はい」

「あたしがミュージシャンを目指したのはな、歌うのが好きっていうのともう一つ、この思いを届けたい人がいたからなんだ」


 すでにビールは空だった。虚空を彷徨った手は私の頬を捉えて、ぐにぐに突っつかれる。なぜ。


「夢ってそういうもんだ。自分の野望だけじゃ一歩は踏めても頂まで辿りつけない。だから前を向くんだよ。夢の先には必ず、誰かがいる」

「白雲さんにとってのその誰かって、まさか昔の男とかですか?」

「ばーか。んなちんけなもんじゃねぇよ。人類。全人類にあたしの歌を届ける。それがあたしの夢の先だった」


 その夢は、明らかに大きすぎる。子供が見る根拠のない理想想像妄想願望その他諸々に似たどうしようもなく現実味のない夢だ。


 けど白雲さんは終わった夢を見ながらも高らかに笑って私の背中を叩いた。


「その子も同じだ。笑わせたい人がどこかにいるんだろ。夢ってそういうもんだ。誰かを巻き込んで、ようやく目指す場所が出来上がる。だからな、理由もわからねぇけど、しっかりその子の夢を応援してやった茉莉は偉いよ。マジで」


 背中を叩かれた次は頭を鷲掴みにされる。プロレス選手になる予定は今のところない。


「夢を追うなら小さい頃からの方がいい。しっかりサポートしてやんな」


 店では聞いたことのない優しい声色で囁く。白雲さんは態度は悪いが偽った言葉も使わないしどんな人にたいしても対等に接する。そのせいか一部のお客さんからはよく声をかけられていて、そのたびに白雲さんは業務を放棄して楽しそうに談笑を始める。


 それは店側からしたらよろしくないのかもしれないが、お客さんからしたらどうだろう。


 ・・・・・・白雲さんがいつまでたってもクビにならない理由の断片を、見た気がした。


「まぁ、高校生なんて夢を追ってなんぼですよね」


 だから私も、ちょっと白雲さんに乗っかって臭い台詞を吐いてみる。


 すると白雲さんは「んあ?」と空気の抜けた声を出した。


「高校生?」

「はい。高校二年生。四月から三年生になるみたいですけど」

「一緒に住んでる子?」

「そうです。去年の十一月くらいから」

「茉莉って今何歳?」

「二十です。今年で二十一ですけど。まだまだ子守するような歳じゃないですよね。とほほなんでこんな目に」


 おどけて言うが、白雲さんは眉をひそめて唸っていた。


「それってさ、子守じゃなくて同棲じゃね?」


 突然素っ頓狂なことを言われたので私は笑いながら手のひらを横に振る。


「・・・・・・まさか、私は大人で、あいつはただのがきんちょなんですから」


 ないない、と澄玲の姿形を思い出す。記憶の澄玲はいつだって制服姿で、頬を膨らませている。ほら、がきんちょだ。がきんちょ、だよな? 


「三歳しか離れてないじゃん」

「まぁそうですけど、でも、高校生ですよ?」

「けど一緒に住んでんでしょ」

「預かれと親戚に押しつけられたので」

「一緒に飯食ってんでしょ? 一緒に寝てんでしょ?」

「まぁ・・・・・・」

「それ、はたから見たらむっちゃ同棲してんだけど」


 一気に酔いが冷めていく感覚がした。


「ヤッてても不思議じゃないっしょ。まさかもうヤッたのか!?」


 耳なりがして、顔が青ざめていく。


 いやいや女同士ですよ、なんて言い訳は私にはできなかった。


「ヤるなら今のうちだって。そういうのが嫌ならとっくに出て行ってるだろうし、一緒に住むってことはあっちにもその気はあるってことじゃん?」

「酔いすぎです白雲さん。さっきまでいい事言ってたっぽい雰囲気だったのに。急に下品になっちゃって」

「そういう話好きやねん」

「なんで関西弁」


 制服姿の澄玲。スーツを着た私。断絶された関係に見えて、そこには三年の歳月による溝しかない。それは簡単に跨いでしまえるほどの小ささで、握った手と、同じ布団で寝た時の熱を思い出す。


 裸を見られて恥ずかしそうに隠れるくせに、私の裸をじーっと見てくる。時折顔を真っ赤にして慌てふためいて、触れると嬉しそうに綻ぶ顔。いつも一緒にいたがって、私の後ろについてくる澄玲を思い出して、顔が熱くなっていく。酔いはとっくに覚めているのに。


「そんなんじゃ、ないんですけどね」


 空のグラスに入った氷を噛み砕く。


 冷気を帯びた口の中は、代わりとなる熱を欲しているようだった。

 

    

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