第2話 空色キャンバス
「進路を決めたいと思います」
新学期が始まって早々、澄玲は帰ってくるなり白い紙をテーブルに叩きつけた。
手に取ると、進路調査表だった。こんなんあったなーと懐かしい気持ちになっているとリュックを部屋の隅に投げた澄玲が私の向かいに座った。
「勝手に決めればいいと思います」
「なんでそういうこというの」
「興味ないから」
私はパソコンと睨み合いながら紅茶を飲む。
「でも先輩のアドバイスが聞きたいよ」
「先輩いうな」
「ねー、お願いお姉ちゃん」
「お姉ちゃんいうな」
「じゃあなんて言えばいいの」
「女王様」
言うと澄玲はぷく~っと頬を風船みたいに膨らませていた。放っておいたらそのまま飛んでいくんじゃないだろうか。
「別に、希望なんだからとりあえず自分のしたいこと書いとけばいいんだよ」
「将来の夢ってこと? うーん、よくわかんないや。まつりはなんて書いたの?」
「なんも書かなかった」
「そんなんでいいんだ?」
「そんなんでいいんだよ。夢持ってる人間のほうが少数なんだから。なんも持たずに生きる方が普通だって」
「ふーん」
納得とはほど遠い返事をして、澄玲は私の隣に回り込んだ。なんだなんだと睨みつけるも澄玲に押されて椅子から落ちそうになる。
「詰めて詰めて」
「引っ付くな暑苦しい」
家主が追いやられる謎の光景に悪態をつくも、澄玲は気にした様子もなくパソコンの画面を覗き込んだ。
「これなに?」
「次のシーズンの宣伝POP。仕事で使うんだよ」
「へー。・・・・・・って、これまつりが描いたの?」
「そうだけど」
「うそー!? すごいすごい! プロみたいだよ!」
隣でぴょんぴょん跳ねられて、ついに私は床に転げ落ちてしまう。そんな私をキラキラした目で見下ろす澄玲は、かたや地球を滅ぼす流星群か。面倒なことになった。
「まつりって絵上手なんだね~。あ! こっちのもまつりが描いたの!? ていうかここにあるの全部!?」
「もういいでしょ、どいてって」
「わー! この桜すごいっ、写真みたいにきれいっ! ねぇねぇ、まつりってもしかしてすごい人!?」
「すごくないよ」
「え、でもこんなにすごい絵を描けるんだからすごいよ」
「すごくないんだってば」
椅子に座る澄玲を押しのけると、抵抗はなく素直にどけられた。私はパソコンのウインドウをすべて閉じて電源を落とす。「あー」と澄玲の落胆する声が聞こえたが、別にこいつを満足させるために絵を描いているわけじゃない。
じゃあなんの為に描いているのか、その疑問の答えはすぐ近くにある。
仕事の為に描いてる。頼まれたから描いてる。それ以外の理由なんてありはしなかった。
「進路考えるんじゃなかったの?」
「あ、そうだった」
澄玲は再び向かいの席に座って唸りだした。
「まつりは夢とかないって言ってたよね」
「うん」
「絵を描きたいとかは思わなかったの?」
「思ってたら花屋でひっそり働いてないよ」
「諦めちゃったとかじゃなくって?」
「お前はずけずけと人の事情に割り込むな」
「あいたっ」
丸めた紙切れを澄玲に投げつけて席を立つ。
「たまたま昔から描いてただけで、それでなにかしようなんて思ってもなかったんだよ。だから諦めるもなにもない」
「でも、絵を描くのは好きなんでしょ? 昔から描いてるってことは」
「いやべつに」
筆を動かすと黒い線が付いてきて、気付けば形になりそれに一喜一憂する。そんな単純な作業、好きになる要素がない。
「私はただ」
じゃあ、なんで絵なんて描き始めたんだっけ。興味があったわけじゃない。上手な絵を描いて周りにちやほやされたかったんだっけ。それもまさかだ。幼少期の頃からそんな自己顕示欲を抱えていたら今頃総理大臣にでもなっていることだろう。
「ただ・・・・・・」
理由なんてなく、ただ無心に描き続けていた? いや、意義もなく物事を続けられるほど私は何かに執着する人間ではない。
「忘れた」
「えー!」
ただ唯一覚えているのは、ボロボロになるまで使ったスケッチブック。あれで私は何をしようとしていたのだろう。
実物を見ればその頃の思想でも思い出すのかもしれないが、それももう十何年前の話だ。残っているはずもない。
「気になる。まつりが絵を描き始めた理由」
「絵を描かなくなった理由なら覚えてるんだけど」
「そうなの?」
「うん。たしか、途中でめんどくさくなったんだよね」
「うわぁまつりっぽい」
「でしょ」
賞賛を貰った。ならやめた甲斐もあったというものだ。
不安定な人格でバランスを崩しながら生きるよりは自分を貫いたほうがよっぽど健全だろう。
暗くなったディスプレイに自分の顔が映る。ひどく歪んだ表情をしていた。これを絵で描いてくれと言われたら、私はいとも簡単に完成させられるだろう。
黒い絵の具をぶちまけてやれば、それでいいのだから。
「決めた」
すると澄玲は思い立ったかのように進路調査表になにやら書き始めた。
勢いよくペンを走らせて、第一希望の欄にでかでかと書かれた文字を私に見せつけてくる。
「すみれ、お笑い芸人になる」
「・・・・・・はぁ?」
いきなり何言ってるんだこいつ。
普段から整った言動をこなしているわけではないが、今回はさすがに次元が違った。冗談だとも思ったが、これほど面白くもない冗談を素で言えるのならすでにお笑い芸人への道は途絶えてしまっている。
「すみれね、最近クラスで人気者なんだよ」
「そうなの?」
「うん。みんなすみれのこと『番長』って呼ぶんだけど、すみれが何してもみんな笑ってくれるんだ。すごいでしょ? ・・・・・・でもなんで番長なんだろう」
それは自分の拳に聞いてみたらいいと思う。
それにしても、マジか。こいつ、もしかして気付いてないのか?
「えへへ、お笑い芸人の才能ありだよね」
「それ、笑わせてるんじゃなくて笑われてるだけでしょ」
「・・・・・・・・・・・・」
しーん。
「まさかぁ、まさかのとさかぁ」
「しかもクソ滑るタイプの芸風かよ」
今頃そんな空気を凍り付かせるだけのお笑い芸人誰も欲しくないだろ。
頭の上に手を置いてニワトリの真似をする澄玲はひどく滑稽だった。ニワトリ追い越して烏骨鶏だ。・・・・・・コンビを組んだら私がツッコミか? 勘弁して欲しい。
「やめといたほうがいいって、恥かくだけだし。叶うわけないでしょ」
「そんなのわかんないよ」
力強い言葉とは裏腹に、澄玲は笑っていた。遙か遠くにある景色を夢見て思いを馳せるような、そんな笑みだ。
「やってみないと、わかんないよ」
空色の絵の具をキャンバスいっぱいに塗り広げたようだった。
明るく、眩しく、焦がされる。
私はそれを、目を細めて見ることしかできなかった。
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