3章

第1話 良い子なんかじゃない

『茉莉、澄玲ちゃんとは仲良くやってる? ご飯は? お風呂は? 今が一番大事な時期なんだから、しっかりサポートしてあげるのよ?』

「わかってるって」

『親戚の人がね、言ってたのよ。ベランダにボロボロの服と、子供用のパジャマが干してあったって。ねぇ、きちんとしたものを着せてあげてる? 美味しいものを食べさせてあげてる?』

「はぁ? 親戚の人って、誰それ。そんなんスートカーじゃん」

『とにかくね、これは茉莉の為を思って言ってるのよ。澄玲ちゃんがみすぼらしい姿でいると、あんたが世話をきちんとしてないって周りから思われるのよ。お盆には帰省するのでしょう? その時に困るのは茉莉なのよ』


 電話口から聞こえてくる声は小さい頃から何度も聞いてきた、頼りなく怯えたような声だった。


 ここ最近、母親から近況を教えて欲しいとの連絡が相次いでいる。というのも全部澄玲を気にしてのことだろう。口を開けば親戚が周りの目がと矢継ぎ早に私を説きにかかる。


『澄玲ちゃんだってお母さんを亡くしてショックだろうし、しっかり心のケアもしてあげなきゃ。ほら、最近若い子の、その・・・・・・流行ってるでしょう? だから茉莉が支えてあげるのよ。もしもの事があったら、茉莉や、お母さんも親戚からよく思われないから』

「それが本音でしょ」

『え?』

「ただ自分の身が大事なだけでしょ。いっとくけど周りの目なんて気にしてるのそっちだけだから。それに澄玲はああ見えて図太いし、母親が死んだくらいでいつまでもめそめそしてないよ」

『死んだくらいでって、あんたね』

「そうでしょ。人一人死ぬくらい、大したイベントでもなんでもないし」

『茉莉・・・・・・』


 言い聞かせるような、その声色が昔から苦手だった。その和やかで静かな波に揺られたら、もう荒波に立ち向かう気力まで一緒に流されてしまいそうで。この人に付いていくのは怖かった。


『仕事は順調なの?』

「普通だよ」

『そう、それならよかったわ』


 角が立ちそうな気配を感じ取ると、話題を変えて空気を変えようとする。自分が悪く思われないようにと必死さが漏れ出ている母親の佇まいは、ひどく弱々しい。


 そのせいで母親と喧嘩をしたことは一度もなかった。なにかあればすぐに母親が折れて、その貧弱さに私も呆れ果てて、口論すら億劫になるからだ。


 小さな頃は母親の乾ききった手に何度も撫でられた。そうすれば和解できるとでも思っていたのだろう。保身第一の平和主義者。そのくせ誰かを思いやるような口ぶりで話す、ズル賢い人間。昔から、嫌いだ。


『しっかりなさいね。あと、まだまだ寒いから暖かくして寝るのよ。あんた昔から風邪引きやすいんだから。それと』

「もういいでしょ」

『え? ちょっと、茉莉――』 


 言い終わる前に、電話を切った。


 なんなんだ。


 澄玲を私に預けたのはそっちのはずなのに、押しつけたのはそっちのはずなのに。そんなに気になるのなら代わってくれ。代わらないのなら、放っておいてくれ。


「はぁ・・・・・・」

「まつり? どうしたの?」


 電話をするため部屋を出ていた私が戻ると、澄玲が心配そうに覗き込んでくる。


「なんだか悲しそうな顔してるよ?」

「そうかな」

「うん、ちょっと屈んで?」


 ちょいちょいと澄玲が手招きするので腰を折る。と、ひざまずくようになってしまいそれは癪だったので膝を抱え込むように座った。いつかの澄玲のようだった。自分が陰湿なものへと墜ちていく感覚に陥る。


 澄玲は低くなった私の頭を両手で抱いて、優しく撫でてきた。


「よしよし」

「・・・・・・なにこれ?」

「え? まつりが落ち込んでたからいいこいいこしてあげてたんだけど」

「余計なお世話」


 小さな手を振りほどく。口の中で、僅かに血の味がした。


「それ、嫌いなんだよね」

「よしよし?」

「うん」

「えーなんで」

「私は良い子なんかじゃないから」

「うーん・・・・・・?」


 澄玲は顎に手を当てて小首を傾げた。


「たしかに!」

「おい」


 睨みつけると、きゃー怖いと澄玲が逃げていく。布団をかぶって、その隙間からこちらの様子を窺ってくる。近づいて蹴っ飛ばすとくぐもった笑い声が聞こえてきた。


 ほら見ろ。母親の死なんてこいつはとっくに乗り越えているのだ。心配してるなんて気付かれたら「心配してくれてるんだぁ~えへぇ」なんて言って引っ付いてくるに違いない。


「あのさ、澄玲」

「んー?」


 うつ伏せになった澄玲の腰の上に座って、天井を見上げる。いまだ染み一つない、綺麗な天板だった。


「私ってさ」

「うん」

「・・・・・・・・・・・」

「まつり?」


 引っ越してきた時から変わらない。あの家を飛び出した時から変わらない。白く、汚れのない天板。純一無雑でいることが何よりも尊いことなのかは、断言できそうになかった。


「・・・・・・なんでもない」

「変なまつり」


 ということはいつもは変じゃないということだ。人間、普通でいることがなによりも難しい。褒め言葉として受け取っておこう。


「なでなでしてあげよっか」

「うわっ、だからやめろって」

「えへへー、なんかなでなでされてるまつり、可愛いね」


 ぐしゃぐしゃと髪をかき乱される。


 調子に乗りやがって。なんで私が子供扱いされなきゃならないんだ。


 眉間にシワを寄せる私なんてまったく気にしていないようで、澄玲は頭を撫でたり、髪をすくったりとやりたい放題だった。


 一度分からせてやるしかない。


「この、いい加減に・・・・・・」

「まつりは、良い子だよ」


 慈しむような細い目尻は、生温い熱を帯びて私を見てくる。


『良い子ね、茉莉』


 ・・・・・・そうやって、私を褒めて、なんの得があるんだ。私を肯定して、それほどまでに自尊心を保ちたいか。誰かを認められる私すごいって言い聞かせたいか。


「これでもそんなことが言えるか?」

「え? ちょっと、まつりっ、わ、あはははっ! ちょっと!」

「大人を舐めやがって!」

「きゃー! わはっ、ちょっ! へ、ひひっ、あはっ!」


 細い澄玲の体に手を這わせてくすぐってやる。澄玲は目に涙を浮かべて悶えていた。


 あー気持ちいい。言い様のないカタルシスが私を襲い、くすぐる手に力が入る。


「おらおら! ごめんなさいはどうした!」

「あ、ひゃはっ! ご、ごめ、ひひひひっ!」


 シーツも乱れ、服はめくれあがり澄玲のへそも丸出しになっていた。


「あははっ、だめ、まつり。あっ! んっ・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」


 指先が、何かを擦った気がした。


「ま、まつり・・・・・・」


 冷や汗が背中を伝っていく。


 昼間っからなにをやっているんだ私は。


 腕の中のちんちくりんを放り投げて、私は私で椅子に腰かける。


 そのあとは妙な沈黙と気まずい空気だけが、狭い部屋を支配した。

  

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