第3話 裸の付き合い

「銭湯にいくぞ」


 テレビから目を離した澄玲が洗面器片手に仁王立ちした私を捉える。もちろん、澄玲の目は困惑の色をしていた。


「風呂がぶっこわれた」


 今朝、給湯器の調子が悪いことに気づいてまさかと風呂を沸かしてみたら見事なまでに無反応だった。大家さんに電話をしてみたらガス会社に連絡して直してもらえはするらしいが明日になるかもしれないとのことだった。


 で、明日になった。


「やったー! 温泉だー!」

「いや銭湯だから」

「なにが違うの? 味?」

「正解。銭湯のお湯は温泉よりも美味しいからじゃんじゃん飲むといい」

「じゃあまつりが先に飲んでね」


 じー、と目を細める澄玲。


 澄玲が高校生だということは分かってはいるのだけど、このちんちくりんな体と舌ったらずな声を聞いてるとどうしても小学生を相手にしている気になってしまう。


「まつりのウソ、だんだん見抜けるようになってきた」

「あんただって味? とかアホみたいなこと言ったんだからおあいこでしょ」

「えへへ、面白かったでしょ」

「ぜんぜん」


 反応するのすら面倒な冗談を面白いと感じてしまったら人生が幸せすぎて大変なことになってしまう。


 澄玲の分のバスタオルを投げつけると小さな体が見えなくなる。完全に埋もれた澄玲が中でもごもご言っていた。


「車?」

「歩き。近いし」


 調べてみると家から一キロほど離れたところに銭湯があった。私も利用するのはこれが初めてなので車で行くよりは徒歩のほうが融通が利くと思ったのだ。


 天気予報では今日の日付に雪マークがついてはいたが、外に出てみると幸い空は晴れていた。もうじき今年も終わりか、と冷たい風を頬に受ける。


「なんかいいね。こうやって二人で歩くの」

「そう?」

「お姉ちゃんがいたらこんな感じなんだろうなーって思った。あー、そうだよ。まつりってなんかお姉ちゃんって感じする。妹とかいるの?」

「いるって言ったら、どうするの」

「べつに」


 誤魔化すようにかぶりを振る澄玲は何故かむすっとしていた。寒さで赤くなった頬が風船のようだ。今度マフラーでも買ってやるか。


「ん!?」

「どうしたの?」


 喉に詰まったような声が物寂しい路地に響く。老舗だらけの通りで私は自分の出した素っ頓狂な音によろめいた。


「なんでもない」


 買ってやるか。買ってやるかってなんだ。なんで私はこいつに施しを与えようとしているんだ。


 私が働いて、私の時間を犠牲にして、私の人生を捧げて、そうして手に入れた金銭で物を買い与えるなんてまるで善人じゃないか。


 ・・・・・・それならそれで、まぁいい。


 私がなにか労力を割くわけでもなく、気付いたら善人になってましたというのならむしろなんの問題もない。低カロリーで過ごしやすそうだ。


「えへへ」


 澄玲は落としたバスタオルにも気付かずに得意気に笑ってみせた。土で汚れてありゃ使い物にならないなとは思いつつも教えることはしなかった。なぜって、そっちのほうが面白いからだ。私って優しいなー。


 銭湯はやはりというか車一台も通れない道の先にあった。この辺りの立地はあまり良いものとはいえず、時々都会というものが羨ましくなる。


「あら、今日は誰もこないと思ってたのに」


 戸を開けてすぐの所で受付の女性が顔を出した。更衣室から見える浴場に人影はなく、どうやら私たちだけのようだ。


 それなら快適だと私はコートを脱ぐ。


 あれ、ハンガーないのか。


 木で作られた籠に畳んで入れることにした。シワがつきそうだけど、銭湯っていうのはそういうものには無頓着なのかもしれない。


 開き直った私はぽんぽんと服を脱ぎ捨てて洗面器を持った。まるでこれから戦場に赴くような心持ちだった。銭湯、戦闘・・・・・・面白すぎてのぼせそうだ。


 たいして澄玲はいまだにおずおずと私に背を向けたまま慎重に着替えていた。


「先行ってるよ」

「う、うん」


 さっきまで銭湯だ温泉だとはしゃいでいたのに、今ではすっかり萎縮してしまっている。いつだったか風呂場で見た時と変わらない平べったい体を一瞥して私は浴室に入った。


 シャワーで頭を流していると、遅れて戸が開く音が聞こえた。


 濡れた髪に水滴が伝い、その間から見えた澄玲はいそいそと椅子を持ってきて座った。


「バスタオル落としてきちゃったかも」

「ああ、落としてたよ」

「えっ、知ってたの?」

「いつ気付くかなって見てたんだけど、私も今の今まで忘れてたわ」


 髪をかきあげて鏡を見る。そういえば最近まであったクマが消えている。


「お、教えてよー!」

「そんな筋合いありませーん」


 シャワーを隣に向けて澄玲の顔に噴射する。後ろによろめいた澄玲は椅子から転げ落ちそうになるのをなんとか堪えたようで、がに股のまま足をぷるぷる震わせていた。


「あっ! み、見た!?」

「あ? なにが?」

「だ、だからっ・・・・・・」


 もにょもにょとハッキリしない。


 白く薄い体を抱くように隠す澄玲は分かりやすいくらいに頬を染めていた。それがお湯の熱さから来るものではないことは明らかだ。


「つんつるてんが一丁前に恥ずかしがるな」


 澄玲の顔が一層赤くなるのを心の中でせせら笑いながら私は先に浴槽へ浸かった。待つのは苦手なのだ。そういえば学生時代、気付けば一人になっていたのを思い出す。後から駆けつけた友人は決まって「マイペースなんだから」と言っていたけれどあれが褒めていたのか蔑んでいたのかは今も分からないままだ。


 柔らかい水に心地よさを感じていると、なんだか奥のほうが騒がしくなってきた。


 どうやら団体様のご到着らしい。おばさんたちがあれやこれやとくっちゃべりながら中に入ってくる。


 おばさんたちは早速シャワーを浴びるようだ。まだ体に泡をつけていた澄玲は突然の来客に驚いたようで目を泳がせていた。


「ちょっと! そこはあたしらの席って決まってるんだけど!」


 そんなような声が聞こえたけど、私は目を瞑って染み渡る温かさを存分に堪能していた。


 少し経って、澄玲が私の隣へやってくる。肩がぴとっとくっついて冷たい。


 澄玲は顔半分を湯船に浸けて、不満気に泡ぶくを立てていた。


「公共施設だからなぁ」

「ぶくぶくぶく」

「従うしかないよ」

「ぶくぶくぶく!」


 納得いかないようだった。


 どうもおばさんたちはここの常連らしく、使うシャワーの場所も決まっているようだった。そこに澄玲が堂々と座っていたもんだから怒ったのだろう。


「あのおばさん嫌い」


 澄玲があまりにも率直な感想を言うものだから思わず笑ってしまった。


 頭がよくて、なんでも肯定して、決して毒を吐かないような性格のよろしい人間とする会話は正直疲れる。ちょっとくらいクズなほうが私は好きだ。人間味があっていいじゃないか。


「気に入らなかったらぶん殴ってやれば?」

「え、まつり不良?」

「そうじゃないけど。気に入らない奴のせいで嫌な思いをするくらいなら、ぶん殴ってやったほうがいいんじゃない? イジメられたりした時、口で言っても解決しないことだってあるでしょ。そういう時はもう拳しかないじゃん」

「・・・・・・でも」


 澄玲は不安そうな目でおばさんたちを見ていた。


「すみれのお父さん、それで捕まっちゃったから」

「あ、そうなの。それは失礼」


 そういえばそんな事情がどこかで転がっていたなと思い出す。父親がいないのは私も同じだけれど、事情が事情なので澄玲の気持ちは分からない。


「だからぶんなぐったりしたら、すみれも刑務所に連れて行かれちゃう」

「いや、そこまではされないでしょ。せめて厳重注意くらいだ」

「なんで?」

「大人は人を殴っちゃだめだけど、子供は人を殴っていいんだよ」


 難しい話だったのか、澄玲は自分の手をじーっと見たまま考え込むように黙ってしまった。


「でもすみれ、力よわいから」

「ならここで練習すればいい」


 私は水の中で拳を握って思い切り突き出した。


 飛沫が舞って浴槽から飛び出す。我ながら中々の威力だった。


「す、すごい!」

「澄玲もやってみ」

「うん!」


 澄玲はふんすと鼻を鳴らして両手を前に突き出した。いやなんだそれ。ロケットパンチでも打つ気か?


 予想通り、水が一粒散っただけで水面は平坦を貫いている。


「もっとぶっ叩かないと」


 拳を思い切り叩きつけると、パション! と音がして噴水があがる。澄玲はおぉーと声をあげて真似をした。


 パション、パション。


 音楽家だか韓国の俳優だかに似た音を立てながら私と澄玲は湯船を叩きまくった。


 そんなことをしていたものだから再びおばさんたちに怒られることになった私と澄玲だったが、澄玲はさっき怒られた時とは違い、楽しそうに笑っていた。


 それもそれで問題だな、と。


 私はおばさんたちに謝りながらも心はスッキリしていた。


 着替えを終えて外に出ると、蕭々と雪が舞っていた。


「初雪だー!」


 澄玲ははしゃぎながら私の前を走って行く。


 物事の初めてだとか終わりだとか、そういったものに情緒を生み出せなくなったのはいつ頃からだっただろう。自分の誕生日をたいして祝えなくなったあたりかもしれない。


「あ、タオル」


 来る途中に澄玲が落としたタオルを見つける。付いた雪を払って、澄玲が胸に抱えた。


「あってよかったー」

「まぁ、あるだろうなぁ」

「あるだろうって、どういうこと?」

「そりゃ、落ちてるタオルを拾う人間なんていないって。交番に届けるにしても落とし主を探すにしても、そんな面倒事に好んで顔を突っ込むくらいなら誰もが無視して通る。そういうもんだ。たまーにいる本当に優しい人は別かもしれないけど」


 たとえ財布が落ちていようと、同じことだろう。


 警察のお世話になるリスクを抱えてまで僅かな金を欲しくなんてないし、善意で交番に届けたくても拾い上げたところをたまたま持ち主に見られたら誤解される。


「そうなんだ。それじゃあ、優しい人に見つからなくってよかったね」

「ああ?」


 澄玲は嬉しそうに汚れたタオルに顔を埋めた。せっかく風呂で綺麗になったばかりなのにもったいねー。


 ともすれば私も私で風呂でさっぱりしたはずなのに、澄玲の笑顔の意味がさっぱり分からなかった。


 優しい人に見つからなくてよかったとは、どういうことなのだろう。


 降りしきる雪の中を駆け抜けていく小さな背中を追いかけながら、そんなことを考える。


「またこようね、まつり」

「風呂が壊れたらね」


 結局、優しくない私にはその答えを見つけることはできなかったのだった。 

  

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