ああ、人とは斯様に愛いものか

@vanilla_8

【錆の章】それは、記憶。人だった頃の、不完全な記憶

 その刀は虫の声が宿った妖刀である。握れば虫が鳴き、蝗のように心を喰い尽くす。かつて国落としの大侍も心を喰われ、妻も家臣も斬り殺した末に涙に暮れたという。故に呼ばれた銘は「泣き虫」。

 泣く虫は群れるもの。泣き方を知る虫は、泣かぬ虫をも知るものだ。









 暑い。つい先日まで過ごしやすい心地だったのに、もう歩いているだけで頭に手拭いを巻いていても汗が伝うくらい暑い。そんな天気なのに、彼女はお構い無しにどんどん山道を登っていく。まあ気持ちは分からなくもない。今日はいつもより多めに山菜が採れたのだし、陽が落ちるまでまだまだ時間もあるのだから早く川遊びをしたいのだろう。……この歳になってまで男の子みたいに川遊びをするのは、ちょっとどうかと思うけど。


「■■■ー! 遅いよー!」

「待ってってば。あんまり急ぐと具合悪くするよー」


 急かす幼馴染にそう言い返して少し歩調を早める。そして幼馴染の大きな背負い籠の縁に手をかけ、制止した。


「はい捕まえた。もっとゆっくり歩こうよ。折角川に着いても疲れてたら遊べないでしょ」

「この程度じゃ疲れないって。■■■がひょろっこいだけですー」

「うっ」


 いやまあ、確かに肉付きがいいとは言えないけど。棒切れみたいって言われたこともあるけど。


「おぶってあげようか? 多分余裕だよ?」

「いい! 歩けるから!」


 ムキになって答えたら彼女、徳子はけらけらと気持ちよく笑った。早足に歩き出した私の後ろを徳子は笑いながら「待ってって」と言って追いかけてくる。さっきと逆転した形になったのがなんだかおかしくなって思わず噴き出した。

 そうやって2人で笑いながら歩き、いつもの川に着いたのはお天道様が空の真ん中を通って少しした頃だった。


「ひゃーあっつーい! 早く行こ!」

「あ、コラちょっとお徳!」


 川に着くなり徳子は着物を脱ぎ捨て、あっという間にぴょんと跳ねて飛び込んでしまった。慌てて川べりから離れ、飛んでくる飛沫から着物を守る。


「あはは! きもちー!」

「まったくもう……」


 本当に、お互いもう二十も目前で、両親からは行き遅れたと嘆かれているというのに呑気なものだ。もう少しお淑やかにしなければ嫁の貰い手もないだろうに。

 こう小言を言うと、ほぼ間違いなくしかめっ面で「難しい話しないでよ」と言われるのだけど。何が難しいんだろう。

 徳子が脱ぎ捨てた着物と帯を整えて手頃な枝にかけながらぼんやりと考え事をしていたら、急にうなじに冷たい感触がして思わず体が跳ねた。


「ひゃっ」

「よーしあったり!」


 振り返って見ればびしょびしょの徳子が、川の中で得意げに手を振っていた。


「早くおいでってば!」

「私はいいよ。おっしゃる通りひょろっこくて体力がないので」


 なんていじけたフリをして川べりに座り込む。まあ、暑いので足くらいは入れてもいいだろう。小袖の裾をめくり足を川の水の中に突っ込む。夏だというのに川の水は胸がキュッとするくらい冷たかった。そんなのに勢いよく飛び込んだのだから、徳子なんかは心臓が止まるくらいキュッとしたのではないだろうか。


「泳ぎ方忘れたんだ」


 なんか、徳子が言ってる。


「まあ仕方ないよね。■■■ってば前の夏だってなんだかんだ文句つけて泳がなかったもんね。最後に泳いだのっていつ? 大神詣の年?」


 大神詣。4回目の稲刈りが終わった頃に、山の神様に次の4回も豊作になりますようにとお祈りする祭りの事だ。次の稲刈りが終わればまた大神詣がやってくるから、実に4回の夏の間泳がなかった事になる。


「まああたしの方が泳ぐの早くなったしね。負けず嫌いな■■■は認めたくないんでしょ? 競走しなかったら負けないもんね?」


 カチンときた。いや、やっぱりきてない。きてないけど、そこまで言うなら泳いでやろうかという気持ちになる。あわよくば昔みたいに泣かせてやろうかとも思う。


「……わかった。私も泳ぐ」

「お!」

「えいっ!」


 ガバっと着物を脱ぎ、徳子の着物をかけた枝に投げつけて勢いよく飛び込む。そして下を見てびっくりした。ちゃんと下に何もないところを選んだのに、そこに徳子がいたのだ。


「おと───!?」

「やったー!」


 いつの間にか移動していた徳子に受け止められ、一緒にバシャーンと派手に水飛沫を上げて沈み込む。水の中で怒った顔をして文句があるのを示したら、徳子は何が楽しいのか大口を開けて笑った。色々言いたいことはあるけど、水の中じゃ何も言えないので川底を蹴って水面へ跳ね上がる。


「ぷはっ」

「ちょっと徳子!」

「あはは、そう呼ばれるの久しぶりー」


 びっくりして思わず子供以来の呼び方が出てしまった。なんだか恥ずかしかったので言い直して改めて文句を言う。


「お徳! 下にいたら危ないでしょ!」

「えー? だって■■■、水面に当たったら怪我しそうだったし」

「する訳ないでしょ……私のことなんだと思ってるの?」

「小枝」


 小枝……そんなに細くはない……と思う。腕を上げて徳子の腕と比べてみる。なんていうか、一回りか二回りくらい差がある。……多分、徳子の肉付きがいいのだ。そんなちょっとしたことで怪我しそうなほど細くはないはず。


「ていうか、重くなった?」

「なっ」

「なんていうかさ、前はそんなでもなかったと思うんだよね」

「そんなわけない!」


 一体何を言っているのか。そう、そんなわけがないのだ。だって食事と言えば粟と山菜と少しの塩のみ。そんな食事でどうやって肥えろというのだ。確かに子供の頃と比べればそんなに動いてはいないけど、だからと言ってそんな肥える理由がない。むしろお父さんなんかは「そんな細っこいから嫁の貰い手がないんじゃないか」って心配して自分の食事まで分けてくれるというのに。

 正直、畑仕事をしないといけないんだからちゃんと食べてほしい。ていうかもともと食が細い方だからそんなに食べられないし。


「私からしたらお徳がどうしてそんなに肉付きがいいのかがわからないよ。隠れてお肉食べたりしてる?」

「えー、なんでだろうね?」


 徳子が自分の二の腕や胸を触って首を傾げた。この……なんていうか、敗北感が酷い。徳子だって私と食べてるものは大して変わらないはずだ。なのにこんなに差が付くのはなぜなのか。生まれ持ってのものなのだろうか。理不尽を感じる。


「まあそんなことはいいよ。ほら、泳ぐんでしょ?」

「うん……」


 いや……納得できないけど……うん……。まあいいか。目的はそっちじゃなくて徳子を負かすことだ。それに比べれば些細な事と言える。……ちょっと悔しいけど。


「じゃあよーいドンであそこの枝の下までね」

「はーい。じゃあいくよー? よーい……」

「ドン!」

「あ、負けたくないからって!」




 ────────────────




 それからちょっとして。私と徳子は大きな岩の上でうつ伏せに転がっていた。子供の頃からの習慣だ。川で遊んだあとはここの大岩の上で、洗濯物のように干される。川は木々が影を落としていて冷たく、ここだけぽっかりと枝が避けて日が当たるので暖かくて心地よいのだ。私たちしか知らない秘密の遊び場なので他人に見られる心配もない。まあ、家族に見られたら卒倒するようなはしたない行為ではあるけど。


「無茶しちゃだめだよー?」

「はい……」

「あと少しで死んじゃうところだったんだからね?」

「はい……」

「反省してる?」

「反省してます……」


 その子供の頃から比べるとずいぶん小さく感じてしまう岩の上で、私はうつ伏せのまま徳子に叱られていた。どうしてそうなったかと言えば、昔の感覚で泳ごうとしたらすっかり鈍ってしまっていて上手く動けず、あっという間に流されてしまったからだ。

 幸い途中で川に垂れていた葦を掴めたおかげで勢いが弱まって徳子の助けが間に合ったものの、そうじゃなければ私はもっと下流の方まで流され溺れてしまっていただろう。


「久しぶりなんだからもっとゆっくり泳がないとだめだからね」

「はい……」

「で、手は大丈夫?結構深く切ったでしょ?」


 寝転がったまま手のひらを目の前に持ってくる。葦を掴んだ時に思いっきり切ってしまったのだ。見た目にはそこまで酷くはないのだが結構血が流れたし、未だにヒリヒリする。ただ血は止まってきているのでそこまで心配することでもないだろう。


「うん、大丈夫そう」

「ならよかった。次からは気をつけるよーに」

「うっ、はい……」


 はぁと脱力して額を岩につける。結局勝負どころか私の溺れ騒ぎのせいでまともに遊ぶこともできなかった。そう考えると途端に申し訳なくなってくる。


「なんか、ごめんね」

「ん? あーいいよ。溺れなくてよかった」


 その後はしばらく岩の上で日向ぼっこをしながらどうでもいい世間話をした。

 意外だったのは徳子がぽろっと「結婚できるかなあ?」なんて零したことだ。そんなのに興味がないと思っていたのに、実際はそうでもなかったらしい。訳を聞いてみたらさすがに父親の目が厳しくなってきたからだという。それはそれでまた驚いた。徳子の両親はさすが徳子の親と言うべきか、色んなところが緩いのだ。娘が嫁入りしなくても気にしないものだとばかり思っていた。

 徳子は器量もいいし朗らかだから頑張ればすぐだよ、と言ったら「でもそんなに結婚したいって思わないんだよなあ」とのことだった。


「そうなの?」

「うん。好きな人もいないし、それなのに結婚してもなあ、なんて思っちゃって」


 まあ、それで結婚しないのが許されるわけでもなく、いつかは結婚しなければならないのだ。外との交流もそれほどない小さな村など、子供ができなければすぐに滅んでしまうのだから。


「■■■は結婚したいって思わないの?」

「私? うーん、どうだろうなあ」


 実を言うと、気になってる男の人はいる。しかしこんな行き遅れた女を娶るようなことはしないだろう。そもそも、彼の目は私じゃない誰かを向いている。それなら無理に振り向かせるのはお互いにとって何もいいことがない。

 ……それに、多分彼が好いているのは徳子なのだ。あくまで推測に過ぎないのではあるが。そこで私が下手に慕っているなんて言って、断られて徳子が好きだなんて言われてしまえば私の中にもやもやしたものが残るに違いない。だから多分このことは口にしないほうがいい。……徳子のことが好きな人がいるよ、と言わないのはちょっとした意地悪みたいなものだけど。


「こうしてる方が楽しいし、いいかなあ」

「じゃあさ、もしこのまま二人とも結婚できなかったら、一緒に住んじゃおうか?」


 ずいっと徳子が身を乗り出して提案してきた。私と徳子が一緒に住む。楽しそうだとは思う。幼い頃から一緒にいるから気心は知れているし、変に気を遣うこともない。私としてもそれも悪くないかな、と思う。

 ただ、問題は別なところにある。まず間違いなく女同士で好き合っているなんて変な噂が立つのだ。娯楽と言えば祭りとたまの喧嘩くらいしかないような狭い村だ。一日も経たずに走り回っている悪ガキどもまで知れ渡ってしまうだろう。そうなれば苦労するのは私たちだけではない。両親にまでその影響が波及する。そんなことになれば最悪両親諸共村を追い出されてしまう。その先にあるのは野垂れ死にする末路だ。さすがに私たちの我儘に両親まで巻き込むわけにはいかない。


「さすがにできないよ。一人で暮らしてた方がまだいいと思う」

「だよねえ」


 徳子もそれは承知のようであっさり引いて仰向けに寝転がって空を見上げた。

 一緒になって見上げると日は既に傾いていて、このままだと村に着くころには夜になっているだろう。


「ちょっと遊びすぎた?」

「うん、遊びすぎだと思う。早く帰らないと」


 慌てて立ち上がって体に付いた砂や水気を軽く手拭いで払う。私はその手拭いを手の平に傷に巻く。その時に心配して声をかけてきた徳子に大丈夫と返し、外で脱いだなんてわからないようにしっかりと着物を着直す。


「じゃあ行くよー」

「はーい」


 同じくちゃんと帯を巻いた徳子に声をかけて山を下る。取り留めのない会話をしながら歩いて、村の近くまで来る頃にはすっかり日が落ちて一寸先すら見えない暗闇に包まれていた。


「これ、帰ったら怒られちゃうかなー、なんて……」

「怒られるね……」


 なんて会話をしながら森の中を村に近づく。鬱蒼と茂る木々に阻まれてまだ村は見えてこないが、ふと、風に乗って怒鳴り声のようなものが聞こえてきた。

 こんな時間に? 祭りの時期でもないのに? と訝しんだ私の横で徳子が目を輝かせて振り向いた。


「喧嘩かな!? 早く行こうよ!」

「あ、ちょっと!」


 喧嘩?それにしてはおかしい。一人二人の声ではない。もっとこう、大人数で怒鳴り合っているような……。


「待って、なんか変だって! ねえ!」


 徳子を走って追いかけて森を抜けその肩に手をかける。さっきまで泳いでた疲労が溜まっていたのか、それだけで息が切れ、徳子の肩に手を置いたまま息を整える。


「喧嘩にしては人が……」

「ねえ。なに、これ」


 肩に置かれた私の手に自分の手を重ね、呆然とした様子で呟いた徳子に釣られるように私も顔を上げて同じものを見た。

 それは、まるで竈の火のように燃え盛る村の様子と、斧や刀を手に村の人たちを襲う野盗の姿で。


「嘘……」


 現実を認めなくて、思わずそんな呟きが漏れていた。

 だって、平和な村だった。豊かとは言えないけど税を納めて暮らしていける余裕があって、冬を越えるだけの蓄えがなければ皆で分け合って、それで、それで……。思い出せばキリがない。いつまで経っても嫁にも行かない私たちを大目に見て放っておいてくれる優しい人たちなのだ。

 徳子が口元を押さえてぺたんと座り込んでしまった。徳子はその人柄から私よりも彼らと関わることが多かった。色々と手助けしてもらったこともあるだろう。だから彼女の方が彼らとの思い出はより深いはず。


「徳子、見ちゃだめ」


 だから私は彼女の頭を胸に抱いてそう言っていた。


「■■■……」

「私がまだ生きてる人を探してくるから。徳子はここで待ってて」


 そう言って私は駆け出した。ただし、その方向は村ではなく森の中。

 相手は大人の男で、何人いるかもわからない。何も持たないまま無鉄砲に飛び込んでも同じように嬲り殺されるのが関の山だろう。だから得物を取りに行く。

 森で一番大きく、村では大神様の木と飛ばれている木の洞の中に、子供の頃に川底で拾った刀を隠しているのだ。

 刀を握って相対するなんて考えただけで体が震えるし、野盗たちが暴れている中に飛び込むなんて逃げ出したくなるくらい怖いけど、そんなことは言っていられない。私が行くことで助けられる人もいるかもしれないのだ。それが十分に理由になる。


「こ、こ……に……! あった!」


 大神様の木のコブに手をかけ、力の限りを振り絞って体を持ち上げる。

 その先の洞の中に、昔と変わらずその刀があった。落ち葉のように深みのある茶色の鞘に秋に鳴く虫が彫り込まれた鈍鉄色の鍔で、長さは私でもぎりぎり扱えるくらい。

 刀なんか見たのはこれが初めてだけど、私にはこの刀がなんとなく普通ではないのではないかという気がしている。それがどう違うのか、説明しろと言われても難しいけど。

 とにかくその刀を少しだけ鞘から抜き、間近でその刃を確認する。夏の空のような美しい青色だ。川の中で拾ったのになんの損傷もないのが少し不気味な雰囲気を醸し出している。


「っ……!」


 刀を見ているとその鋭い、人を殺すために作られた物独特の空気に飲まれて頭がざわつく。大きく息を吐いて気を落ち着け、パチンと音を立てて刀を納める。

 大丈夫、やれる。全員を斬るのが目的なのではない。あくまでまだ生きてる人を探して助けるのが目的なのだ。恐れず、刀を持って堂々としていれば野盗も怯むはず。その隙に逃がせれば御の字だ。

 大神様の木から飛び降りて徳子を待たせていた辺りまで戻る。その気はなかったのだが、ふと気になってしまったのだ。


「とく……こ?」


 けれどどこにもいなかった。木の裏にも上にも、どこにもいない。頭の中を最悪の想像がよぎった。しかしぶんぶんと首を振ってその想像を払う。

 大丈夫、大丈夫だ、なんの心配もない。地面のどこを見ても争った跡がない。あの徳子のことだ。相手が大人の男だろうが怯むことなく暴れるに決まっている。だから徳子はまだ生きている。死んでなんかない。きっとあの子のことだから居ても立っても居られなくなって飛び出してしまったのだ。

 待っててと言ったのに聞かずに行ってしまったのだから、今度は私がしっかりと叱らなくてはならない。


「ほんと、いっつも言うこと聞かないんだから……」


 ただ、なんとなく徳子らしくて安心する。改めて気合を入れ直し柄を握る。ふっと短く息を吐き、怖気付かないうちに勢いよく刀を抜くと、背筋が底冷えするような音を立てて美しい刀身が現れた。

 ────そして同時に、頭の中を無数の羽虫が飛び交うような雑音が支配した。


「っつ! はぁ、はぁ」


 息が荒くなる。思考が纏まらない。倒れこみそうになるのを、すんでの所で刀を支えにしてどうにか支える。音? いや、重なりすぎて音と認識することもできない。ただ頭の中を圧迫し続ける何かとしか感じ取れない。


「でも、やらなきゃ……」


 徳子はもう行った。こうしているうちにも村の人々は次々殺されているだろう。男たちが抵抗しているだろうが、武器になりそうなものなど包丁や鍬しかないのに武装した、しかも戦いに慣れている野盗たちを相手にそう長く持つはずがない。

 私が行ったところで大差ないだろうが、それでも何もしないよりはマシだ。


「待ってて……今、行くから……」


 そして私は鞘を投げ捨て、村に向かって駆け出した。


 村はまさしく地獄だった。あちこちで火の手が上がり、男たちの怒号が響き、女や子供の甲高い悲鳴が聞こえる。あちこちに斬り殺された人たちの亡骸が転がっていて、畑の真ん中ではあろうことに積み上げられた死体を薪代わりに煌々と火が燃え盛っていた。


「うっ……!」


 胃の中身をぶちまけそうになったのを、慌てて口に手を当てて堪える。

 まだ吐くな。まだ泣くな。吐瀉物に汚れ涙を流している女を見て怯むような野盗がいったいどこにいるというのだ。助けられる人を助け、身を隠して野盗が去るのを待ち、そのあとに吐くほど泣けばいい。だから今は堪えろ。


「そら、もっと油持ってこい! まだ中にいるぞ!」


 そう、声が聞こえた。声の方を見てみれば、野盗の一人が左手に持った松明を振りながら仲間にそう呼び掛けていた。

 何をしているのか。中に人がいるのに、油? だめだ、それは、それをしたら。


「やめろォッッッ!!!!」


 地面を砕く勢いで踏み込み、一気に距離を詰める。叫び声に驚いた野盗が振り向いた時には既に遅く、その胸には刀が突き立っていた。

 勢いを殺しきることができず二人でもつれるように転び、馬乗りになって叫びながら何度も何度も刀を突きたてる。そのたびに生温かい血潮が飛んで頬を濡らす。


「はっ……はっ……」


 殺した。人を、まだ生きていた人を。


「違う……私は……村を守るために……」


 殺したくて殺したんじゃない。それ以外のやり方がわからなかったからそうするしかなかったんだ。

 ああ、羽虫の音がより酷くなった。もうなにも考えられない。……なにも考えたくない。


「女だ! 重吉が女にやられたぞ!」


 羽音に紛れてなにかが聞こえてきた。人。人だ。刀を構えている。私は……私はどうするんだったか?


「そう……そうだ……村……村を守らなきゃ……」


 ゆらりと立ち上がる。

 男が刀を向けた。村を守らなきゃ。村を襲う奴らを全員、武器を持つ奴らを、人を、人を殺して、人、殺す、殺す、殺して、殺して、殺して────ああ、なにもかもがうるさい。


 踏み込んだ。斬られた。痛い。浅い。まだ動ける。刀を振るう。防がれた。斬られた。痛い。痛い。倒れこんで。馬乗りになって。腹を斬られた。刺す。斬る。殺した。────全て靄の向こうのことのようで現実味がない。

 次。斬られた。動かない? まだ握れる。斬った。

 次。殴られた。痛い。うるさい。斬られた。半分見えなくなった。まだ半分見える。まだ戦える。刺して、斬って、貫いて、刺されて、殴って、殴られて…………ああ、楽しい。


「あはははははは! あっはハははアハははははアはハ!!」


 血だ。血を浴びて、そのたびに頭の中で羽音が大きくなる。うるさい。苛立つ。なにもかもが腹立たしくて仕方ない。


「■■■……おねえちゃん……?」


 名前を呼ばれた。バッと振り向く。いたのは子供だった。村で何度も見たことがある顔。なんて卑劣な。皮を被って私を騙そうとしているのだ。外道が。親しんだ子供の顔に騙されて殺された人もいるのだろう。あまりの卑劣さに沸々と怒りが沸き上がった。歩み寄ってくる子供の顔を容赦なく切り裂く。


「返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ……」


 奪われた顔を取り戻そうと顔に刀を突き立てて皮を剥ぐ。こんな、子供を殺して、あまつさえ皮を剥ぐなんて、到底人のできる所業じゃない。返せ。ちゃんと弔わないと。助けて。助けてあげないと。救ってあげないと。タスケテ。ああ、虫が五月蠅い。まるで耳元で虫が鳴いているような。視界に入るものすべてが憎く見える。

 ドンと、脇腹に衝撃。痛い。熱い。目を向けると、怯えた表情の子供が包丁を突き立てていた。


「こ、この……鬼が……」


 鬼。鬼? 私が? どうして? 今だって奪われた男の子の顔を取り戻そうとしたのに。そんな、酷いことを。


「私は、私は村を守ろうとしてるだけなのに!!!」


 脇腹に刺さったままの包丁を抜き、私を罵った悪鬼の胸に突き刺した。

 違う。私は鬼じゃない。村を守ろうとしただけなんだ。私を鬼という方が鬼なのだ。だからこの子供も鬼だ。餓鬼だったのだ。

 胸を突かれ倒れ伏した餓鬼を見下ろす私の前に、また野盗が現れた。

 槍を持っている。関係ない。殺さなきゃ。腹に刺された。動けない。近寄れない。

 ああ、でも、刺さったままでも近寄れるじゃないか。ずりずりと、腹に槍が刺さったまま一歩一歩歩み寄る。野盗の顔が恐怖に歪んだ。槍が捩じられるが、それでも止まらない。止まるわけにはいかない。歩み寄って、槍を握る腕を斬り落とし、幼子が母の胸に飛び込むように刀を突き刺し、捻って殺す。

 一息ついて転がるように野盗の死体から滑り落ちた。息が満足に吸えない。力が入らない。体が冷たくなるのを感じる。でも、まだ死ねない。まだ野盗は残っている。いっぱいいっぱい、村の人に化けた野盗も混じっている。みんなを助けなきゃいけない。

 老いた犬のようにずるりと起き上がり、腹側に突き出た槍の柄を地面で押し込み、背中側に手を回して引き抜く。

 血が滝のように流れ落ちた。もう長くない。でも、意地でも生きて野盗を皆殺しにしなければならない。

 まだ、休むわけにはいかない。



 ────────────



 殺す、殺した。刺されて刺して、体に刀が刺さったまま倒れこむようにして殺す。

 致命傷を負ってもまだ動く私を見て、出会う野盗全員が顔を歪めた。私もなぜ生きているのかわからない。けど生きているなら最後の最後まで時間を稼がなくてはならない。


 ────虫が鳴いている。

 そういえば、徳子はどこだろう。徳子は小さい頃から泣き虫だった。同年代の男の子たちにグズだうすのろだとからかわれては大泣きし、私が追い払って慰めるということが良くあった。大きくなるにつれ自分で言い返すことも増えてきたが、それでもちょっとしたことに感動し涙を溜めることがよくあった。


 ────虫が鳴いている。

 その豊かな感性が、私には少し羨ましかった。もしかしたら、今も飛び込んだはいいもののどうすればいいのか分からなくて泣いているかもしれない。昔みたいにまた助けに行かなければならない。


 ────虫が、泣いている。

 次に出会ったのは女の野盗だった。まだいたのか。もう殺し尽くしたと思っていたのに。満足に動かない体に鞭打って最後の野盗に刀を向ける。私に気づいた野盗が驚いて目を丸くした。隙だらけだ。どんと突き飛ばし、馬乗りになって刀を胸に突き刺す。何度も何度も、野盗の息が絶えるまで刺し続ける。野盗が口から血を垂らしながら、手を伸ばした。関係ない。得物もないんだ。私を殺すことなんてできない。



 そして、虫が、泣き止んだ。

 唐突に思考が澄み渡っていく。それに伴って、今まで霞がかっていた視界が晴れた。同時に耐えがたいほどの激痛に体を貫かれ、体をくの字にして喘ぐ。


「あ……っ! ぐぅう……!!」


 そして、気づいた。最後に刺した野盗は。あの、懐かしさすら感じる、女の野盗は。


「あ…………■………か………」


 それは、目尻に涙を溜め穏やかな笑みを浮かべた、幼馴染で。


「ふ…………ぁ」


 伸びた手が私の涙の代わりに血の跡を残し、力なく地面に落ちた。


「と……くこ……?」


 もう、返事はない。私の握る刀がその胸に突き刺さっているからだ。だから、つまり、殺したのは野盗でもなんでもなく、私で。


「ぅあ」


 思い出した。何もかも。私が殺した野盗の中には村の人が混じっていて、お母さんも、お父さんも、悪ガキたちも、気になっていたあの人も、みんなみんな驚愕の表情を浮かべ苦痛に顔を歪めていた。私が、この手で殺してしまったのだ。そしてまるで姉妹のように育った幼馴染をも。


「ああ……」


 思考が塗りつぶされる。認められない。私が、違う。私? 違う全部、全部、野盗が、私じゃなくて。


「あああああああっ!!」


 自然と右手の刀を首に向けた。幼馴染の、家族の、村の人たちの、彼らの血がべっとりと染みついた刀を首に当てる。冷たい死の感触がした。


「ふーっ、ふーっ」


 あとはこれを引けば私も同じ。冷たい骸となって罪を償える。ぎゅっと目を瞑り、刀を握った右手に力を込める。

 許してとは言えない。そんなこと、願うのも許されない。あれだけ惨たらしく殺してしまったのだから。だけど私は地獄へ落ちるだろうから、みんなで指を差して「あんなやつ地獄へ行って当然だ」と嘲笑ってほしい。


 そして意を決して刀を引き、水の詰まった瓢箪が割れるように血を撒き散らして私は崩れ落ちた。

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