第8話 早苗③離別

 熱いシャワーが心地よかった。

 橘花たちばな早苗さなえはこれまでのけがれを浄化するように、両手を使って隅々まで念入りに体を洗った。自分への労いも含め、当面のあいだ働くつもりはない。金はじゅうぶんあるし、引っ越ししてもいい。上京してから貯めてきたのと高野から振り込まれた慰謝料6千万を合わせると、早苗の預金は2億近くあった。すべて、十代の頃から体を売って稼いだ金だった。


――この復讐は、いつか終わりを迎えるんだろうか……。


 シャワーを止め、バスタオルであらかたの水分を拭うと、早苗は全裸のまま洗面台の前に立った。高野にベルトで殴られた肩には赤紫色のミミズ腫れがくっきりと残り、首にも同じ色の内出血があった。それはまるで、高野が最後に放った呪詛が二匹の禍々しい毒蛇となって纏わりついているかのようだった。

 商売道具に傷をつけられたのは許せないが、二度と高野に会うことはないと思うと清々する。


「残るはあんただけね」


 早苗は自分の下腹部に手を当てた。高野の遺伝子を持った子がお腹の中で成長してるなんて、考えただけでもおぞましい。明日にでも産婦人科の予約を入れよう。


 ドライヤーで髪を乾かし、丁寧にブラッシングすると、艶を帯びた早苗の黒髪は雪のように白い肌と強烈なコントラストを生み出し、神秘的な色香を放った。その姿は、つい一昨日まで、来る日も来る日も体を酷使し続けてきた女とはとても思えないほど美しかった。


 元来、早苗ほどの美貌があれば三十歳という年齢は少しのハンデにもならないはずだが、奔放に生きてきた日々が仇となり、今になって厳しい現実と直面することになった。若くて美しい女が、下からわらわらと蛆虫のように湧いてきたのだ。


 自分と違い、何不自由ない家庭に育った箱入り娘みたいな女子大生が、あっけらかんと売春していることもあった。金のために男に抱かれ、全身ハイブランドで固めた姿をSNSにアップして喜んでいる馬鹿げた女もやまほどいた。男顔負けの見栄と欲にまみれた世界の中で、みおに似た女を見つけたときは、思わず胸が苦しくなった。あの日、澪に出会わなければ、わたしはいったいどうなっていただろう。考えても仕方のない、遠い昔の話だった。


 あれからわたしは、すっかり変わってしまった。


 VIP専用の高級風俗店に採用されるのは容易かった。自分以上の美貌とスタイルを持つ女がそう簡単にいないこともじゅうぶん理解していた。男を懐柔させる術も散々教わってきた。しかし、さすがに図に乗り過ぎたのだろう。金に執着し、客を選り好みするうちに、店からは面倒な女というレッテルを貼られ、いつしか年増の先輩たちと同じように特殊な客をあてがわれるようになった。


 高野雅道も、そんな特殊な客の中のひとりだった。高野の唯一の利点は、他の客より一際金持ちで、利害関係が一致していたこと。たったそれだけの為に、早苗は半年間、虫唾が走るような高野の凌辱に耐えてきた。


 結局あたしも、あの女と同じことをしてる。

 親子そろって、馬鹿みたい。

 金のために人生棒にふって

 金なんかのために――


 鏡の中の自分を憎々しい気持ちで眺めていたとき、突如、強烈なフラッシュバックが起きた。立っているのがやっとの目眩に襲われる。視界は波紋のように揺れだし、現実感が失われていく。やがて見えるものすべてが闇に包まれ、早苗の意識はプツリと途切れた。



✢✢✢✢✢



 気づくと早苗は、25年目前の冬の日、母と最後に過ごした神戸のアパートにいた。1LDKの小さな部屋でストーブを焚き、炬燵こたつに入って母の帰りを待っている。退屈しのぎに見ていたテレビから流行疑歌か流れてきたので、一緒に口づさむ。しばらくして、玄関のドアが開いた。


「おかえり!」


 六歳の早苗は炬燵から飛び出し、帰宅したばかりの母に抱きついた。


「ただいま。早苗、寒くなかった?」


「うん。見て、早苗ね、ひとりでストーブつけてまってたんだよ」


「ほんとだ。えらいね。ちゃんとつけれたのね」


「うん」


 窓の外に雪がちらつく、とても寒い夜だった。

 夕飯はホワイトシチューとクリスマスチキンを食べた。デザートは苺のショートケーキで、早苗が苺を一口かじって微笑むと、母も嬉しそうに笑顔を返してくれた。食事をすませたあと、炬燵に入ってテレビを見ていると、不意に母が、

 

「そういえば早苗、今年はサンタさんが忙しくてこれないみたい。だから母さんが代わりにプレゼント作ったの」


「えっ、そうなの?」

 

「うん。ちょっと待っててね」


 早苗は瞳をきらきら輝かせて母の動きを目で追った。母は紙袋からリボンで包装されたマフラーを取り出して、早苗の横に座って差し出す。


「はい、メリークリスマス」


 赤をベースに、緑のクリスマスツリー、茶色のトナカイ、白い雪だるま、黄色い星が散りばめられた手編みのマフラーだった。


「かわいい! これ、お母さんが作ったの?」


「うん」


「すごーい! ありがとう!」


「さっそく巻いてみよっか」


「うん!」


 母はリボンを解いてマフラーを巻いてくれた。やわらかな毛糸で編まれたマフラーは、まるで母の胸に抱かれているような安らぎを与えてくれる。早苗は母の胸にもたれかかって目を閉じた。心地よいぬくもりと母の微かな息遣いがつたわる。


「よかった。早苗にすごく似合ってる」


「お母さん、ありがとう」


 すべてが完璧だった。

 二人で暮らす小さな部屋は、愛で満たされていた。

 なにもいらない。お母さんがいてくれれば、それだけでいい。

 だから神様、お願いします。

 どうかこのまま、時をとめてください。

 この瞬間が、永遠に続くように。


 母に抱かれている感触がはっきりとわかった。夢でもいい。現実なんかに戻れなくていい。どうかこのまま、覚めないで。このまま、お母さんといさせて。


 早苗は幻視の世界でまどろみながら、強く願った。

 しかし――




 あの日はもう、二度と戻らない。




 突如、凄まじい轟音がとどろいた。

 驚いて目を開けると、アパートの壁が崩壊し、爆風に巻き上げられて闇の中に消えていった。部屋の家具も、母との思い出の品々も、なにもかもが嵐に呑まれて消滅していく。やがて足元が崩れ、下を見ると悪魔のように口を開けた深淵があった。早苗はあまりの恐怖に両手で耳を塞ぎ悲鳴をあげた。母の姿はどこにもなく、底知れぬ闇が広がっていく。




「お母さんたすけて!」




 不意に静寂が訪れ、気づくと早苗は、養護施設の門の前に立っていた。首には母のくれたマフラーが巻かれている。空は灰色で、耳が痛くなるほど凍てつく風が吹いていた。早苗の背後には数人の大人たちが立っていて、目の前には母がいた。

 母は黙って、風に乱れる早苗の髪に手櫛を入れた。


「早苗、少しのあいだここでお世話になるけど、しっかりみなさんの言うことをきいて――」

 

「いや!」


 早苗は手を払いのけて叫んだ。

 母を睨みつけ、肩で息をする早苗は、目にいっぱいの涙を浮かべ、今にも泣きだしそうだった。

 昨日までのしあわせは嘘のように消え失せ、母の目には物悲しい困惑だけがあった。


「早苗、いい子だから――」


「いや!」


 早苗はついに大声で泣き出し、母の体に全力で抱きついた。

 言葉にできない深い悲しみが、怒りと恐怖になって心を支配していた。早苗の直感が、いま母と別れてしまえば、二度と会えなくなることを告げていた。


「早苗、わがままいわないで……」


「いや! お母さんといっしょにいる!」


 施設長の竹脇が泣き叫ぶ早苗を強引に引き離すと、母に向かって言った。


「安心してください。子供はすぐに慣れますから」


 早苗の直感通り、この瞬間、早苗は母と永遠に引き裂かれることになった。


 早苗の地獄は、この日から始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

VOICE―死者の願い― 銀次 @ginjimin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ