第7話 早苗②ひとつの回顧
気づくと早苗は、自分の遺体を見下ろしていた。
刃物で刺されたときの焼けつく痛みも、殺される恐怖も、今はもうない。肉体という呪縛を解かれた早苗に残されたのは、底知れぬ後悔の念だけだった。
わたしはいったい、なんのために生きてきたんだろう。
多くの人を傷つけてきた。どんなに人を傷つけても、自分が背負ってきた痛みにくれべればましだとさえ思っていた。無意識の怒りに翻弄され、自ら孤独を選んできた。強いと思っていた心は、誰よりも弱かった。そして、無力な自分への絶望。肉体を失った今、ようやくそのことを理解できた。
本当は愛されたかった。わたしはただ、愛を求めていただけだ。なぜこんな簡単なことがわからなかったんだろう。早苗の頬を、涙がつたう。
ごめんなさい。
その
思念が願いとなって放射されたとき、早苗の
✢✢✢✢✢
――七年前――
都内の高級ホテル。
スイートルームの一室で、
「堕胎費用も含めた慰謝料、5千万で結構ですから、払ってください」
高野は別人のように低い声で喋る早苗をまじまじと眺めた。ヘアメイクも服装もいつも通り完璧だが、面相がまったく違う。瞼が落ちて目付きが悪く、ガムを噛んでいるのか、絶えず顎が上下に動いている。全身から不遜なオーラを放つ姿は、まるで場末の娼婦のように陰険で醜かった。
これが美しく従順だった女の本性か。VIP専用とはいえ、所詮、売春婦は売春婦だな。高野は鼻で笑って返す。
「俺の子だという証拠はあるのか」
「そんなの、DNA鑑定すれば一発でしょ」
早苗は
「先生、最近エッセイ本を出したそうですね。医療とまったく関係のない、奥様とのくだらない私生活について書かれてるそうじゃないですか。どうせなら、わたしのことも書いてくれればよかったのに」
高野の表情が見る間に険しくなる。
「メディアにひっぱりだこの現役医大教授が、実はSM趣味のサディストだった。月100万で愛人を囲い、乱暴し、妊娠させたあげく、堕胎要求。わたしとの関係が世間にバレたら、先生、何もかも失うことになりますね」
「お前、自分がなにを言ってるのか、わかってるのか?」
――お前こそ、自分の立場わかってんのか。
早苗は喉元まで出かかった言葉を呑み込んだ。高野の専属になって半年、身も心も消耗しきっていた。雪のように白いと称えられた自慢の肌には、高野につけられた
――こんな奴相手に、よく半年も持ったもんだ。
高野がテレビや雑誌で女性に大人気の教授と紹介されるたび、早苗は吐き気を覚えた。ふざけろ。こいつの裏の顔は、全世界の女の敵といっても過言じゃないのに。
「5千万くれれば大人しく引き下がりますよ。あなたがわたしにやってきたことに比べたら、安いもんでしょ」
「お前の店の元締めが、どういう類の人間かわかってるのか」
「脅しですか?」
「脅迫してるのはお前だろう」
高野は腰のベルトを外しながら、ゆっくりと早苗に近づく。部屋全体を囲む大きな窓の外には、煌びやかな東京の夜景が広がっていた。
「今ならまだ許してやる。土下座して謝罪しろ」
高野は左手でベルトを握り、右手で早苗のスカートを捲り上げると、下着の中に手を入れた。
「人の体に、勝手に触らないでください」
邪悪な指が、無遠慮に早苗の陰部を弄る。
「ここ使って金稼いでるような三十路のアバズレが、何様のつもりで俺にそんな口を利いてる」
早苗は息がかかるほど顔を近づけてきた高野を射殺すような目で睨むと、耳元で囁いた。
「気色わりぃ顔近づけんなよ、粗チン野郎」
次の瞬間、高野は手に持ったベルトを鞭のように振り下ろして早苗の肩を打った。激しい痛みに悲鳴をあげて倒れる早苗。高野は倒れた早苗に馬乗りになると、間髪おかずにベルトで首を締め上げた。手脚をばたつかせてもがき苦しむ早苗に顔を近づけ高野が叫ぶ。
「調子に乗るなよ、ゴミが! お前みたいな淫売が一人や二人消えたところで、世の中の誰も、気にもとめないんだよ!」
――こいつ、本気で殺す気かよ。
「苦しいか? はははははは! 惨めな年増の売春婦として一生を終えるのはどんな気分だ?」
――根っからのボンボンだって舐めてたけど、そこそこ根性あるじゃん。
早苗は上着のポケットからスマフォを取り出し強く握ると、全力で高野のこめかみを殴った。うめき声をあげて吹っ飛ぶ高野。早苗は激しく咳き込みながら、急いでスマフォの画面を確認する。よかった、ボイスレコーダーは正常に作動している。早苗は乱れた髪を直しながら立ち上がり、
「先生、あんまり無茶しないでくださいよ。殺人未遂ですよ、これ」
高野はこめかみを両手で押さえ、うずくまったままの姿勢で、
「覚悟しとけ。お前の店の元締めに話をつけさせる。そのためにこっちは高い保険料を払ってるんだからな」
「お好きにどうぞ。それより、わたしを妊娠させたことについて、どう思ってるんですか?」
「慰謝料目当ての計画的犯行だろう。ピルを飲んでるから大丈夫と言ったのはお前じゃないか」
潮が引くように、すべての感情がすっと消えていった。わたしも救いようのないクソみたいな人生を送ってきたけど、こいつも同類だ。どんなに地位や名誉や金を得ても、決して満たされることはない。お前は自分より弱い者を見下し、蔑むことでしか自分の価値を認められない。どうしようもない劣等感に、今にも押し潰されそうな哀れな男。ほんの少しでもお前なんかを憐れんだわたしも、反吐がでるほどの馬鹿だったよ。
早苗は素早くスマフォを操作し、声を上げて笑った。
「気でも狂ったか」
早苗は衣服の乱れを整え、スマフォの画面を印籠のように高野に向けた。起動したボイスレコーダーの再生ボタンを押すと、今しがたの高野とのやり取りがスピーカーから流れだした。
「全部録音してたってわけ。5千万寄越さないなら、あんたの大学と週刊誌にこの録音データを送りつける。ああ、SNSにばら撒いてもいいかもねえ。一瞬で拡散されて、あんたと、あんたのセレブぶったくだらない嫁ともども、あっという間に破滅するけど、それでもいいの?」
憎々しい顔で早苗を睨みつける高野。
「さぁ、どっちにするかさっさと決めて。5千万払うか、破滅するか」
「ふざけるな」
言うが早いか、高野は五十代とは思えない俊敏さで立ち上がると早苗の手からスマフォを奪い、近くにあったテーブルの角に何度も叩きつけた。ディスプレイは粉々に砕け散り、中の基盤が割れて飛び出す。どうみても修復不可能な状態まで破壊し終えると、残った残骸を床に投げ捨てながら不敵な笑みを浮かべ、
「これで証拠はなくなったな」
――このクソ野郎、よくも一瞬でそこまで頭が回るもんだ。でも、無駄。
「往生際が悪いね、先生」
早苗はバッグからマルボロを取り出し、禁煙ルームなのを承知で火をつけた。妊娠中が一瞬頭をよぎったが、どうせ堕ろすし、どうでもよかった。煙草の煙を肺いっぱい吸い込み、気分よく吐き出す。
「さっきクラウドにデータアップしたから、スマフォを壊したことろで無駄。それに、あたしの連れにデータがアップされたらすぐに何個かコピーして保存しとくよう頼んどいたから、最低でも二つ以上のバックアップがある。ああ、あと、万が一あたしの身になんかあった場合、週刊誌にデータ売り飛ばしていいって連れには言ってあるから。なにをしても無駄。それじゃあ明日、指定口座に六千万振り込んどいてね」
「ろっ、六千万!?」
「そう、六千万。さっき殴られた肩、死ぬほど痛いし、喉も痛い。スマフォだってぶっ壊されたんだから、その分上乗せするの、当然じゃない? 明日、入金がなかったら、先生は破滅の道を選んだってことで――」
「六千万なんて大金、いくら俺でも簡単には用意できない。少し時間をくれないか……」
「あんたさぁ、自分の立場わかってる? すぐに用意できないなら、明日はないの。あんたは売春婦に中出しして、妊娠させて、殺人未遂までやらかしたとんでもないクソ野郎として社会から抹殺される。どんな言い訳も通用しない。日本屈指の心臓外科医だかなんだか知らないけど、あんたは地位も名誉も金も家族も、なにもかも失って人生終了。たった六千万でそれを回避できんだから、安いもんでしょ」
高野はその場にひざをついてうなだれた。
「わかった……。金は用意する。ただし、これだけは約束しろ。金を受け取ったらデータは消せ。コピーしたものも含めて、すべてだ」
早苗は短くなったタバコを床に投げ捨てると、ストッキングを履いたままの足でそれをもみ消した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます