第6話 麻美②茶太郎の秘密

 依頼主である杉沢夫婦の家は、都内の一等地に建つ豪邸だった。丸山と麻美は杉沢夫人に案内され、広々とした庭園へ足を運ぶ。手入れの行き届いた庭木の間にさまざまな調度品が飾られていて、その一部に小道が続いていた。麻美は小さな置物の前で不意に立ち止まり、


「おじさん見て、猫の銅像がある」


 丸山が目をやると、幼児が粘土をこねて作ったような酷い出来の銅像があった。尻尾と三角の耳がなければ何の動物かも判別できないほど歪な形をしている。麻美はよくこれを見て猫だとわかったものだ。


「それは茶太郎をモデルに、著名な彫刻作家の先生にお願いして作っていただいたものです」


「なんとも先鋭的な作品ですね」


 視界の端で、笑いを堪えている麻美が見えた。丸山は眉間を寄せて麻美を睨む。


「ところで夫人、チャタロウが人間の言葉を理解しているというのは、どういうことなんでしょう? 詳しくお聞きしたいのですが」


 杉沢夫人は寂しそうに目を伏せて、茶太郎との出会いを話してくたれた。


「今から二十年ほど前の話です。当時、わたしたち夫婦は事業を立ち上げたばかりで、決して裕福とは言えない、むしろ、生活していくのもやっとのようなありさまでした。そんな中、わたしが妊娠できない体であることが発覚したんです。いっときは落胆したものの、たとえ子供を授かれなくても、ともに築いた事業を成功させ、二人で幸せに暮らしていこう。主人とわたしは、そう決意し、仕事に励んでおりました。


 そして、子供を授かれないかわりに、ペットを飼うことにしたんです。しかし、当時のわたしたちには、お恥ずかしながらペットを購入する余力がありませんでした。そこで、保護猫をもらい受けることにしたんです。それが茶太郎でした。彼は殺処分が予定されていた保護猫でしたが、ぎりぎりのところで救うことができました。茶太郎を連れ帰ったその日、主人は大喜びで彼に「茶太郎」と名付けました。以降、わたしたち夫婦は、我が子のように茶太郎を慈しみ、育ててきました」


 杉沢夫人は一枚の写真を丸山に手渡した。若かりし頃の夫人の胸に、茶太郎と思われる三毛猫が抱かれている。横には夫の杉沢明が笑顔で立っていて、幸せな家族の記念写真そのものだった。


「茶太郎の知能が一般的な猫と比較して格段に高いことは、飼いはじめてすぐにわかりました。茶太郎は、わたしたちが赤ちゃん言葉で話しかけるとそっぽを向き、主人と日常的な会話をしているときは、逆にこちらをじっと見据え、まるで相槌をうつように「ニャーン」と鳴くんです。はじめは気のせいかと思いましたが、決してそうではなかったんです。


 ある日わたしは、茶太郎に尋ねました。「もしもわたしの言葉がわかるなら、三回鳴いてみて」と。彼は鳴きませんでした。鳴かないかわりに、主人が購読していた英字新聞をどこからか咥えてきました。なにをするのかと思いきや、茶太郎は前脚で器用に新聞を開くと、爪を使って見出しの中から三つのアルファベットを四角い形に切り抜いたんです。そして、その三つの紙片を順に咥え、わたしの目の前に並べました。そこには、


「YES」


という単語がありました。その直後、茶太郎は三回鳴いたんです。


 こんな話、信じてもらえないのも無理はありません。ですが、たしかに茶太郎は、人間の言葉を理解しているんです。わたしはすぐにこのことを主人に伝えましたが、ちょうどその頃、わたしたちの会社は急成長の時期にあり、主人は茶太郎のことなど蚊帳の外でした。


 事業は成功し、金銭的な安息を得たころ、わたしと主人はもう一つの違和感に気づきました。茶太郎を我が家に迎えてからすでに十年以上の月日が経つというのに、茶太郎には容姿の変化がまったくないんです。老いる様子など微塵もなく、毛艶、身体機能ともに、一切の衰えを感じません。成猫の状態をずっと保っているんです」


「聞けばきくほど摩訶不思議な猫ですな」丸山は顎に手を当てて唸った。


「ええ。そして、茶太郎がおかしくなったのは、いまから3年ほど前、わたしたち夫婦のビジネスに新たな兆しが見えはじめた時期と重なります。我が家には連日、ビジネスパートナーとなる候補の方々が訪れていたのですが、茶太郎は彼らを見るなり牙を剥いて威嚇し、しまいには飛びかかって怪我を負わすことさえありました。そのような凶暴な行動を、茶太郎はいまだかつてしたことがありませんでしたから、わたしたちはひどく狼狽えました。そして、茶太郎に引っ掻かれて怪我をしたひとりの男性は、その後、不渡りをだして破産。また、ある人は車の事故で……」


 杉沢夫人は右手でこめかみを押さえ、目をきつく閉じた。

 

「茶太郎に引っ掻かれたあと、多くの人が恐ろしい不幸に見舞われました。わたしたち夫婦もさすがに恐怖を感じ、彼をケージに閉じ込めて鍵をかけたり、密室に閉じ込めてみたりしました。しかし、どういうわけか茶太郎はそこから抜け出すことができるんです。もうわけがわかりません……。ひと月前、わたしと主人は、いよいよ最後の決断を迫られました」


「殺処分、ですか?」


「ええ……。身勝手なのは承知しています。決して許されることではないことも。ですが、これ以上茶太郎を飼いつづけるなんて、とてもじゃないけど不可能です……」


「ご主人はいま、医大に入院されているんでしたね」


「はい……」


「そのときのことも、可能な限り聞かせていただけませんか」


 杉沢夫人はハンカチで目元をぬぐった。


「茶太郎の殺処分を決めた日、ついに主人が引っ掻かれてしまったんです……。彼は燃えるような憤怒の眼で主人を睨み、牙を剥いて襲いかかりました。鋭い爪が主人の腕や顔を切り裂き、わたしはあまりの恐怖に悲鳴をあげることすらできませんでした……。気づいたときには、主人は血塗れで床に倒れていました。すぐに救急車を呼びましたが、医師の診断を聞いたとき……わたしは……あまりのショックに……」


 倒れそうになった杉沢夫人の肩を麻美が支える。


「主人は脳出血を起こしていて、病院に運ばれたときにはもう、生死の際をさまよっていたんです……」


「心中お察しいたします……。たいへん心苦しくはありますが、茶太郎はそのあと——」


「部屋の窓を突き破って外に逃げたまま、行方不明です……。近隣のかたにも伺いましたが、姿はみていないと……」


「そうですか」


「丸山さん、麻美さん、お願いします。どうか茶太郎を……あの呪われた猫をつかまえてください……。そして——」


 丸山は杉沢夫人の言葉を手で制し、


「みなまでは……。苦しい決断でしたでしょう。あとは我々におまかせください」


「よろしくお願いします」


 杉沢夫人は涙をぬぐい、深々と頭をさげた。

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