デートのお作法
山南こはる
本編
1、女の子に、車道側を歩かせない。
2、歩く速度は合わせる。
3、ソファー席は女の子に譲る。
夫はそういうことが自然にできた人だった、と思う。
誰に相談していいのか分からなかった。検査結果を知らせる紙っぺら。よく分からない数字とか、HとかL +とか−とか。いろいろな記号が並んでいる中で、ほんとうに欲しい情報はあまりにも少なかった。
簡潔だった。
残酷だった。
今年に入ってから、なんとなく体調が優れなかったし、認めたくはないが自覚もあった。何もないことを願って臨んだ検査だった。何も変わらないはずなのに、今だって変わっていないはずなのに。それでも結果を知ってしまった今、もう元どおりの日常に戻ることは、困難だった。
誰に相談していいのか分からなかった。夫の仏壇に報告したって意味がない。あの人はそんなこと、聞きたくないに決まっている。
私に残された時間はどうやら、私が思っているよりもずっと短いらしい。
スマートフォンを持つ手が震える。機械は私の指紋を受け入れず、割れたガラスシートの破片が親指に突き刺さって血がにじむ。まだ慣れていない機械。連絡先の開き方が分からない。
たぶん操作に慣れるころには、私はもう。
覚えの悪い私に、息子は文句を言いながらも操作を教えてくれた。
私がするべきことはなんだ。しなければいけないことはなんだ。そんなものは決まっている。ただひとり残していかなければならない息子のことだけが、今、私がしなければならないすべてのことだ。
電話、発信、一瞬の空白。7回目のコール音がして、相手が出た。
「……もしもし、お母さん。私だけど」
部屋に差し込んだ西日が、結婚指輪に反射する。
気遣い上手だった夫の笑顔が、仏壇の上で私を見つめている。
※
交通事故、だった。
秋の日曜日の夕方。にこやかに休日を楽しんでいた私のとなりから、夫が消えた。後ろから来た車は、車道側を歩いていた夫だけを跳ね飛ばし、そして逃げて行った。
残ったのは私と、まだ赤ん坊だった息子だけ。
車というものが、今でも怖い。もちろん、昔はもっと怖かった。幼い息子はそれを分かっていたのか、他の男の子たちが大好きなのだろう車に、ひとかけらの興味も抱いていないようだった。
気を遣わせてしまったのだと思う。
息子はほんとうに優しい子なのだと思う。
夫の死後、車は手放した。私たち親子の行動範囲は狭まり、自転車や徒歩で行けるところばかりになった。息子は夫の顔を覚えていない。黒い車が通るたび、昔も今も、私は恐怖で身をすくませてしまう。
あれは9年前。息子が5歳のころだったと思う。
「どうしたの?
「ん」
直輝は私の体を押しやって、車道側に立とうとする。目の前を歩く高校生のカップルがそうしているように、まるでそれがカッコいい男なのだと言わんばかりに、直輝は意気揚々と車道側を歩きはじめる。
「直輝」
「ん?」
「お母さんがそっち側」
「なんで?」
「なんでもよ。お願いだから」
直輝は納得いかないような顔をしながらも、しぶしぶ歩道側に戻った。
夕焼けがまぶしくて、公園の木々が風の中で静かに揺れている。黄色くなりはじめたイチョウがほんものの黄金のようにかがやいている。夫がひき逃げされてから、3度目の秋。
「……」
我が子ながら、この子は聡い。もしかしたら、私が車を怖がっているのも、理解していたのかもしれない。
息子の小さな手が、目の前を歩くカップルを指差して、
「おんなのひとが、ひだり?」
幼稚園でもそう習っているのだろう。たしかに運動会の時も、男の子が右側、女の子が左側に並んでいた。
「ううん、決まっているわけじゃないのよ」
「じゃあ、なんで?」
「車の通る方は危ないからね。だから、男の人がこっちを歩いているのよ」
直輝のまだ小さな手が、今度は私のスカートをつかんだ。
「でも、おかあさんはおんなの人だよ。ぼくはおとこ」
「……そうね」
今どき、母子家庭なんて珍しくもない。でも親子ほんとうにふたりきりで、しかも父親がひき逃げで死んだ家庭なんて、たぶん、そうそうない。
私は直輝の頭をなでた。
小さな頭だった。
「でもお母さんはね、あなたのお母さんよ」
「うん」
「お母さんはね、あなたのこと、守りたいの。だからお母さんが、こっち側」
守りたい。
直輝は口を尖らせながら、
「ふーん」
豆腐屋さんのラッパの音。石焼き芋、焼きたて。小学生の嬌声。良い子のチャイム。遠き山に日は落ちて。
「じゃああのお兄ちゃんは、お姉ちゃんのこと、まもってるの?」
若いカップルの足は早く、もうずいぶん遠くを歩いていた。
「そうね」
「おとこのひとが、おんなのひと、まもる?」
「そうよ。自分より小さくて、自分がたいせつにしたい人のこと、守るのよ」
たぶんまだその言葉は、幼稚園生の直輝にとっては、とても難しい言葉のはずで。
「……れでぃーふぁーすと?」
レディーファースト。
何を言っているのか分からなかった。
1秒、2秒、3秒。息子が私の顔を凝視して、私は口の中で笑いを噛み殺した。
「わらわないで!!」
「ごめんね……。どこでそんな言葉、覚えたの?」
「先生がいってたよ。おんなのこを『えすこーと』するのが、ほんもののおとこのこだ、って」
幼稚園生にそんなことを教えるだなんて、ずいぶんと前衛的な先生だと思う。
「直輝。他にはどんなこと、習ったの?」
「えーっとね、あるくときは『ほはば』を合わせる。れすとらんでは、そふぁーをゆずる」
「それから?」
直輝の小さな指が、1本、2本と数をかぞえ、
「えーと、それからね。ごはんはおごる。わりかんは、カッコわるい。おとこのこは『デートのおさほう』をおぼえなきゃダメなんだって」
先生はずいぶん男関係に苦労しているらしい。
同時に私は、いくつもの幸せを噛み締める。息子が自分の社会を持っている。親子という閉ざされた社会から羽ばたいて、幼稚園の先生や友だちという、大きな社会を手に入れたこと。そして夫が、男性としてとてもよくできた人だったということ。たとえひき逃げされて死んだって、夫が私を『れでぃーふぁーすと』してくれたことは、こうやって思い出として残っている。
やくそくの5ふんまえにはつくこと。「またせた?」ってきかれたら、「いまきたところ」ってこたえる。
息子の指が、まだまだたくさんのデートのお作法を数える。私はほんの少しだけのヤキモチを感じながら、それでも小さな息子に、ちょっとだけの、いじわるをしてみる。
「好きな子でも、いるの?」
「いないよ!」
ムキになる。地団駄を踏む。ウソをつくのは、社会性を身につけた証拠なのだ。
「うふふ」
「わらうなって!」
「好きな子、どんな子なの?」
「そ、それは……」
直輝は黙った。黙ってうつむいている。歩幅は少しずつ小さくなって、やがて止まる。
私はもう一度、直輝の頭に手を置いた。
「今はお母さんが、車道側」
怖いけれど。車が通るたび、あの悪魔の日に引き戻されるような気がするけど。
「いつかね、好きな子と一緒に歩く時は……。その時はね、あなたが車道側を歩きなさい」
「……うん」
そのいつかはものすごく遠くて、でも目の前にあるはずで。
そのいつかが、いつになるかは分からないけれど。
※
母子家庭だから、なんて言われないように。
死に物狂いだった。死に物狂いで働いた。死に物狂いで母をやった。それを息子の前では見せないように、死に物狂いで努力した。
あっという間の時間だった。
夫が死んで13年、直輝は今年、14歳。まるで風がフッと駆け抜けるくらいの、通りすぎてしまえばあまりに早すぎる時間だった。
息子がいちばんだった。あの子さえ元気でいてくれれば、それだけでよかった。だから自分のことなんて、見向きもしなかった。自分のことを考えているくらいなら、少しでも息子のことを考えていたかった。
息子が私を必要としていたのではない。
他ならない、私自身が息子を必要としていたのだ。
がん、だった。
がんにもいろいろある。医療技術は日々発展を遂げている。部位と発見した時期によっては、助かるものも増えているそうだが、残念ながら私は、神さまの手からこぼれ落ちてしまったらしい。
神さまからの手紙は残酷だった。
検査結果は簡潔に、先生は手短に、私がもう長くないことを教えてくれた。
夫が死んで13年。直輝は今年、14歳。男の子らしく、反抗期真っ只中。話しかければ「うるせえ」「クソババア」のただ一点張り。母親としては悲しかったが、それでいいのだと思う。あの子はそれだけ大きくなった。反抗期は必要な成長過程だ。
でももう私には、時間がない。
お金のこと、これからの生活のこと。死ぬ前に、やるべきことはいっぱいあった。電話の向こうで母が泣き、父が声を失った。妹は現実を否定し、兄が黙り、兄嫁が動揺した。甥と姪の笑い声が聞こえた。
「……ごめんなさい、あなた」
仏壇の夫はあの日と変わらない笑顔を浮かべている。
神さまは残酷だ。
せめて夫か私か、どちらかが生きていれば、直輝を不幸にしないで済んだのだと思う。
※
「直輝、今日のご飯、外で食べない?」
「……いいけど」
「何食べたい?」
「……べつに。なんでもいいよ」
「じゃあ、お母さんの食べたいものでいいかしら?」
「勝手にすれば?」
そう言いながらも、直輝はイヤだとは言わなかった。
夫が死んでから、13回目の秋だった。街並みはずいぶん変わり、新しい戸建てが増えた。それでも変わらないものもたくさんあって、今年も公園のイチョウは黄金色にかがやいている。
夕日がまぶしい。
ふたり連れ立って歩くのは、ほんとうに久しぶりだった。いつものくせで車道側を歩こうとする私のことを、息子はぐいと反対側に押しやった。
「直輝?」
「……」
いつの間にか、背を抜かれていた。
昔のことを思い出す。この道を歩きながら、先生に習った『デートのお作法』や、『レディーファースト』について、つたない言葉で語っていた直輝。好きな女の子のことは、結局なにも教えてはくれなかったけど。
「直輝」
「あん?」
「好きな女の子はいる?」
ほんの少しの、間。
「……いねーよ」
子どもの社会はどんどん広がっていく。もう直輝の身の周りには、私の知らない人がたくさんいる。
それがとてもうれしくて、
でも反面、ほんの少しだけ、何とはなしに、さびしかった。
「ん」
「なに?」
「ん」
足を運んだのは、近所のファミレス。昔からとくべつなことがあった時には、親子ふたり、いつもここに来ていた。
案内された席は窓際の一角。いつもの習慣で手前のイスに座ろうとすると、直輝が奥を指さした。
「あら?」
「俺が飲みもの取ってきてやるから。……奥、座れよ」
「そう……」
あんまり驚いて、ありがとうとも言えなかった。
「で、何食べたかったんだよ?」
「考えてなかったわ」
「なんだよ、そりゃ」
食欲はなかった。たぶんこれが、息子との最後の外食になるだろう。ならこの店しかないと思った。親子ふたり、誕生日や入学式。とくべつな時には、かならずこのファミレスに来たのだから。
息子の食べるものは、お子さまランチからふつうのサイズのパスタになって、そして今ではハンバーグと大盛りのライスになっていた。それを見ながら私は、いつもと同じパスタとサラダを、もしかしたら食べきれないかもしれない不安とともに選ぶ。
ブザーを押したのも、注文をしたのも、ぜんぶ息子。私は息子の、ずいぶん頼もしくなったすがたを見ながら、感情があふれ出すのを必死に堪えている。
あんなに人見知りだったのに。
知らない人には、こんにちはもありがとうも言えなかったのに。
息子はガタリと席を立つ。
「母さん、何飲む?」
「あ、自分で行くわ」
「いいよ。俺、取ってくるから。何がいい?」
「……じゃあ、メロンソーダもらえる?」
直輝はいつもメロンソーダを飲んでいた。あの毒々しい緑が体に悪そうで、あれをおいしそうにゴクゴク飲む直輝を見て、よく首をかしげていた。
直輝は一瞬、虚をつかれたように固まって、
「う、おう」
そう言って、怪訝そうにドリンクバーの方へと歩いていく。
その背中はまだまだ細いけれど、すでに私よりもずっと大きくて。そのうちあっという間に広くなって、少年から大人の男に変わっていくのだと思う。
料理が来て、ふたりで食べた。久々にゆっくりと向かい合って食べる夕飯は、ほんとうにおいしかった。
「ねえ、直輝」
右手が無意識に、コーヒーの底をすくい上げる。
「何?」
メロンソーダも思ったよりは悪くなくて、
「お母さんね、話があるの」
皿に残ったトマトのソースが、柔らかな照明の下でかがやいている。
「……うん」
直輝はうなずいた。息子のすがたが歪む。
中学生だったはずの直輝は、いつの間にか小学生になって、幼稚園生になって、そしてもっと小さな子どもになる。でもその表情は少しだけ悲しそうで、カッコ悪いからと、泣くのを我慢しているようにも見える。
たまらなくなってうつむく。目尻が熱くなる。鼻水を吸い込んでむせ返る。直輝の前ではみっともないすがたを見せないと、夫の死後、硬く決意していたのに。
「母さん、泣かないで」
直輝の前では泣かないと、誓っていたのに。
身に迫った病魔は13年の決意を覆して、私はたちまち涙に溺れた。
止めようと思っても、決壊した涙腺はすぐには戻らない。まるで滝みたいに流れていく涙を、私は必死にナプキンで拭う。
ざわついた店内。店員も客も、何事かとこちらを振り返るが、もうそんなことにはかまっていられなかった。もうその時、世界には私と息子しかいなかったのだから。
テーブルの上、直輝の手が私の手をつかむ。
「母さん」
「うん」
「泣かないで」
「……うん」
「……俺、大丈夫だから」
「……ん」
「心配しないで」
「……」
「今までずっと、苦労させてごめん」
「……ううん」
やっと気づいた。直輝はぜんぶ知っている。ぜんぶ理解している。私の余命が間もないことも、自分ただひとり残されることも。そしてこれが親子ふたり、最後の外食になることも。
「……俺、ちゃんとやるから。料理だって掃除だって、ちゃんとやるから。
……ちゃんと、面会行くしさ。洗濯だってするよ。伯父さんや叔母さんだっているんだ。俺、母さんが思っているほど、ひとりじゃないから。だから」
もう、感情の荒波には勝てなかった。
中学生、母とふたり、近所のファミレス。反抗期の男の子なら、ぜったいに嫌がるだろう、母とのデート。きっと最後になるだろう母とのデートに、直輝はイヤとも言わず、付き合ってくれた。
大きくなったと思う。
優しい心を持っていてくれて、よかったと思う。
「……直輝」
「うん?」
「……ごめんね」
「ううん」
私の手を握る、直輝の手。直輝の手はもう、私の手よりずっと大きくて骨ばっている。あかぎれだらけのガサガサの手は、ずっとこの子を守るために、働いてきたのだ。
まだこの子と一緒にいたい。この子の成長を、となりで見ていたい。高校の制服を着て大学生になって、クソババアとかふざけんなとかいっぱい言われてケンカして。食べ盛りにいっぱいご飯を作ってあげて、成人式で写真を撮って、スーツを着て社会人になって、そして、
「直輝」
「何?」
「好きな子、できた?」
「……うん」
直輝が守りたいと、愛したいと願った子のことを、直輝と同じように、抱きしめたかった。
店内のざわめきが、耳の中へと戻ってくる。押し寄せてくる感情の波は少しずつ穏やかになって、乾いた目尻にエアコンの風が冷たい。直輝といくつも変わらないだろう女の子たちが、ドリンクバーの前でコーラとコーヒーを混ぜているのが見える。
「……大きくなったわね」
「まあね」
直輝はそう言いながら、メニューを開く。何も説明しなかったし、何も説明できなかった。それでもこの子はもう、すべてを知っている。すべてを知っていてもなお、私の話を聞いてくれた。
「……母さんのおかげだよ」
「え?」
「……ずっと俺のこと、守ってくれて、……その。えと、ありがとう」
歩道側を譲ってくれた。歩くペースを合わせてくれた。ソファー席を譲ってくれた。好きな子がいるのだと、今度は正直に教えてくれた。
自分より小さくて、自分がたいせつにしたい人のことを守るのだと、かつて息子にそう教えた。それが『レディーファースト』で、『デートのお作法』なのだと、幼稚園の先生はこの子にそう語った。
この子はもう、子どもじゃない。まだ大人じゃないけれど、でももう、子どもじゃない。
「母さん」
「ん?」
13年の苦労もつらさも悲しみも、すべて洗い流されたように心が軽い。夕食どきの店内は混みはじめてきて、私と直輝はただの母と息子として、喧騒の中に混ざり合い、完全に溶けていく。
まるで子どもの時に戻ったように、ここ最近、一度も見せてくれなかった笑顔で、直輝は言った。
「デザート、何にする?」
※
「ねーねー、パパ」
「なんだ?」
「ぼく、こっちあるく」
「ダメ」
「くるま、みえないもん」
「ダメ」
「なんで?」
「車道側を歩くのが、大人の男ってものなんだよ」
「そーなの?」
「そう。デートのお作法だ」
「でーと?」
「そう」
あれから2ヶ月、母は生きた。
「自分より小さいやつのことを、守るのが男なんだよ。……お前もモテたかったら、よく覚えておけ」
1、女の子に、車道側を歩かせない。
2、歩く速度は合わせる。
3、ソファー席は女の子に譲る。
父はそういうことが自然にできた人だったのだと、生前、母は言っていた。
デートのお作法 山南こはる @kuonkazami
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